人はなぜ宗教を求めるのか①自己への不信・自意識の闇
「人はなぜ宗教を求めるのか」何度も問われ、答えられてきた問いに、ぼくも応えてみたいと思います。 ぼくは何か特定の「宗教・宗派・ドグマ」にどっぷり浸かっているわけではありませんし、絶対的・宗教的な「安心」を手にしているわけ…
来期の保育料が
0円になった通知が来て、
我が家は非課税世帯に
なったことを知る!
今まで
生活保護世帯=非課税世帯だと
思っていたけど、違うんだな。
色々な意味で、
今送れている生活はありがたいのだな。
不足ばかりに注目しちゃうけど、
正社員時代はやっぱり
もっともっと心に余裕がなく、
ニーチェと生きねばの関係について
一つ分かったのは、
「真理はない」という結論、
あるいは選択によって
「真理」(生きる意味)をまず見つけてから、人生を始めよう、
という世界から自由になれるのだ。
「真理を探す」人生から、
「私の内の力への意志」を
よりよく発現させる人生へ。
苔に覆われた大阪・法善寺の水掛不動尊
この像に水をかける風習は、前後の困窮のなか毎日熱心に参拝していたある人が、供物の代わりに水をかけて祈願をしていたことに由来するという
ちょうど下記を読んでいた。
『ニーチェ事典』(弘文堂)「忘却」より
「ニーチェが見いだす時代の病いに対して、彼が健康と幸福の指針として呈示するのが、「非歴史的に感覚する能力」つまり「忘却」である。
「忘れうる者は強者である」
だがそれは楯の一面にすぎない。
俺が思う「健康的な人間」は、単に心身がどうこう以上に、予測していない出来事に対して自分を開いて応じられること、予期していなかった自分のブレに乗って自己を変動していけること、つまり精神の可変性、平たく言ってレジリエンス、もっと卑近に言えば「忘れっぽい人」を、俺は「健康的」だと思う。
それと同時に,
1人でこもる時期というのも間違いなく大切だ。
十分1人でこもって、
1人孤独に生きることのむなしさを味わい尽くし、
もう嫌になってはじめて、
〈それでも〉人と関わろうという気持ちになるのだと思う。
ぼくは一度絶望する必要があったと思う

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