「人はなぜ宗教を求めるのか」何度も問われ、答えられてきた問いに、ぼくも応えてみたいと思います。
ぼくは何か特定の「宗教・宗派・ドグマ」にどっぷり浸かっているわけではありませんし、絶対的・宗教的な「安心」を手にしているわけでもありません。(ぼく自身は2020年4月に洗礼を受けて、キリスト者として生きる道を選びました。毎朝の座禅は続けています。この記事はキリスト者になる前に書き、ほとんど手を加えていません)
「宗教」に安心を求めている、そこらにいる迷える一人の人間ということで、どこかで誰かの好いご縁にならないかと期待を込めて。
「宗教とは何か」そんなことは定義できませんから、宗教について真剣に考えたいという人だけに向けて、ぼく自身の流れで強引に書かせて頂きます。
言葉にできないこと、無意識下のことも含めて、人それぞれですし、万人に当てはまる定義を目指すこと自体、ただ知的欲求を満たしたり、定義づけてわかった気になって安心したいだけだと思います(究極的には「定義する」(生きた流れを固定しようとする)ということ自体になんの価値も感じません。そのつどただ漠然とした現在あるのみです)。
威勢よく書き始めたは良いものの、何度書き直してもうまくいきません。「なぜ宗教を求めるのか」自分の中に渦巻く要素があまりに多すぎるようです。
本記事では「自分自身への不信」というところから「宗教」に救いを求める、という道を記すこととなりました。
無自覚に誤りを犯す、永遠の被疑者としての自分。
なぜ、社会的成功でも、人間同士の深いつながりでもなく、「宗教」を求めるのか。「自分自身が信じられない」という視点から見てみます。
「自分自身が信じられない」ということは、「無自覚に過ちを犯すこと」と「反省が無意味であること」の2つの要素に分解できます。
「無自覚に過ちを犯すこと」の好例は「なにかに夢中になっているとき」です。
恋でも、仕事でも、夢でも、学問でも、なんでも構いませんが、人はなにかに夢中になっているとき、それが「夢の中」と言われる如くに、過ちを犯します。長く付き合っている恋人がいたとしても、別の誰かを好きになればもう、その人以外頭からは消え失せます。恋慕の情あまりに熱きに至っては、仕事も家族も道徳も友人も見知らぬ人も、その全てを犠牲にしてその人を得ようとします。どれだけ人を傷つけ無責任な行動をとろうと、夢中になっているその人以外は目に入りません。全てを犠牲にしても構わないと、俺はこのために生きてきたのだと心の中で凱旋します。
天に昇るが如き情熱もいつかは冷めます。自分の過ちに気づいても、もう全ては手遅れです。
恋愛でなくても、根本は同じです。自分とは違う人間を徹底的に否定して憚らない人間が仕事では大いに成功を博している例は身近にいくらでも転がっています。
「なにかに夢中になっている」場合も一つの例に過ぎません。たとえ何かに夢中になっていなくとも、疲れて眠かったり、イライラしていたり、相手のことを考えられなかったり、知識がなかったり、それどころか明晰な自覚を持っていたとしても、人は過ちを犯します。無自覚に犯します。
意識が変われば、考え方が変われば、振り返ってみれば、時代が違えば、今現在の自分は誤っているかもしれません。自分に「正しい」という最終判決が下ることは永遠にないのです。自分は自分にとって永久に被疑者なのです。
こう説明的に語ってしまっては全く伝わりませんが、この意識は一切の希望がない暗闇と全ての行為を無意味に引きずり込む重さとして意識に現実化します。(ドストエフスキーのテーマ、無限に回り込み続ける「自意識の病理」とつながっているでしょう。自己正当化と自己批判とを地獄の底に向かって続けるのです。)
反省が無意味であること
「たとえ自分が永遠の被疑者であっても、そのつど反省したことを生かし一歩一歩でも正しい人間へと近づいて行くのが人間だ」とも考えられますが、だめです。
ぼくのリアルな実感としては、「人は同じところをぐるぐると廻り、同じ過ちを繰り返し続ける」からです。人は忘れるのです。意志は持ちこたえられないのです。
ここに「反省が無意味であること」が鎮座します。ぼくは自分が過ちを繰り返さぬよう、ノートに日々の反省を書き付けて生きていました。ある日、それをぱらぱらと振り返ってみると、同じことが書いてあったのです!同じ過ちを繰り返し、同じ反省を繰り返し、何も変わっていない自分を発見したのです。そしてその一連の流れすらも忘れている!衝撃です。
人はそのつどそのつど何かを考え、ときには結論を出し反省を誓います。しかしこの動きすらも「一つの行為」であるのです。無数の行為と同等の一つの行為でしかない、つまり何かをせき止めるわけではない。地滑り的に「今」から滑り落ちていく行為の一つが「反省」です。
「反省」が特権的に今から滑り落ちない、身を寄せるべき柱を打ち立てるわけではないのです。覚悟・誓い・決心と言って、何も変わりません。すべてが流れ去っていくなかで、醜く愚かな自分だけが変わらずにぽつんと独り、おいてきぼりです。
自己不信と宗教
わざわざ人間の矛盾をほじくり返して何をしているんだろうという気にもなってきましたが、さっきからこの記事を何度も何度も書き直して完成しないので、とりあえず続けます。(この矛盾だって視点を変えれば決して絶望なんかではありません。)
ここで問題となっているのは、ひとつは「自分自身の納得」です。自分が自分に対して納得できるのか否かです。「あなたは正しい!あなたは人類史上最高の善人だ!」と社会が認めようと、「私はあなたが絶対に正しいことを保証します」と別の人間に言われようと、何の慰めにもなりません。
そこで、「宗教」を求めるわけです。自分とも他人とも社会とも違う、別の次元からの救いを求めるわけです。今自分が知っているもの、持っている考えでは決して解決できない問いに対して、別の方法を求めるというのはそれなりに理にかなったことでしょう。
もちろん、「これが人間だ、しょうがない」と結論づけてこの問いを封じ込め(られ)る人もいるでしょうし、不退転の志を打ち立てることのできる人も、無限に反省を続ける以外にないと納得する人もいるでしょう。人それぞれです。しかし「宗教」に求める人もいます。
一つの世界観に対する絶対の帰依によって盲目的に「絶対の正義」を獲得しようというタイプの宗教も、ぼくの求めるところではありません。むしろ一つの世界観・意識から見た「絶対の正義」を信じられぬことにこそ、ぼくの問いはあったからです。
哲学(思想)についても一言。「自己への納得」という点で哲学はぼくの求める宗教の役割を半分は果たすことが可能かもしれません。「無自覚に誤りを犯すこと」も「反省の無意味」も、そもそもこれらが問題であるということを思想的に否定することは可能です。問いの立て方が間違っている、「自己」の捉え方が間違っている、など。
まずその納得は、あくまで「思想的」な納得であって、全身での納得ではないのです。いくら頭で納得をしたとしても、それは自分の一部です。
それ以前に、「思想的に納得をする」主体としての当の自己自身が信じられないのです。信じることのできない、永遠の被疑者である「自己」が思想的に納得するのですから、いっときの慰めを得ることはできましょうが、それも錯覚です。どこまでいっても永遠に被疑者です。
「自分が信じられない」という絶望
「自己自身への不信」というアブナイ要素を持ち出した故に、全く収拾がつかなくなってしまいましたから、強引にまとめて終わらせてしまいたいと思います。
「自己自身への不信」は、「意識的自己」の限界に気づくことです。「意識的自己」(私は~と考える。私は~と考え~と行為する)は……もう辞めましょう。
とにかく自分が信じられない、自分の行為も信じられない、全ては疑いだ!全ては嘘だ!と、そう叫びたくなることがある人もそれなりにいると、ぼくは思います。
そうした人にとって、「宗教」は自力・他力、修行・信仰問わずに、希望の光を見せてくれるのです。自己に完全に行き詰まった絶望に対して、望みとなりうるのです。
自分も、思想も、哲学も、文学も、気休めにしかならない。根本的に自分が変わる途はないのか。もしかすると、宗教なら・・・
今回は「自己自身への不信」という自意識の混沌から宗教にたどり着く道を描きました。ぼく自身が過去の自分に戻って(そんなものはありませんが)書いたため非常につらかったです。
いっそのこと、「自己自身への不信」がしっくりこない人の役に立てば良いなと思いますので、自意識の闇をともに歩むことのできる本を紹介します。
亀井勝一郎『愛の無常について』
まず、亀井勝一郎『愛の無常について』です。大学生のとき、ぼくは彼の著作によってトドメをさされました。
彼は徹底的に「自己」を信じられない立場は、自ら死を選ぶことすらできないと言います。「自らの死を決断する自己」を信じなくてはならないからです。「自らの死を決断する自己は正しいのか?」と、ここにすら疑いを抱くのです。まさに自意識の地獄です。(ここから亀井は仏に頼る道を開いてくれます。)
彼が「自意識の闇」を実感的に証明してくれたがゆえに、僕は禅の修行(意識的自己から抜けることを目指す)に打ち込むこともできました。ぼくが「宗教・修行」に向かう決定的なきっかけといえます。
「自分を信じてなんぼじゃい」と思う方、ぜひ彼の洗礼を受けてください。最悪の毒にも、最高の薬にもなる本ですので、精神的に参っている方は覚悟の上挑戦してください。↓(前者はkindle版、後者は紙の本です。)
高野悦子『20歳の原点』
ご存知の方も多いでしょう。自ら死を選んだ女子大学生の手記です。手記なのでどんな読み方も可能です。
彼女は学生運動にも関わっていたのですが、自省の誓いを立てては、それを守れない自分が嫌になる、それを何度も繰り返します。
また「自己批判」というヤツを誠実に突き通し、自己を批判し尽くします。それは自己の愚かさ、いや人間の愚かさを証明することです。出口はどこにもありません。
この本をきっかけにぼくは教員を志し教員免許を取りました。(学校教育の実態を知りもう教員を目指してはいませんが。)太宰治の『人間失格』と並んで、人を行動へと駆り立てる本だとぼくは思います。(↓前者は普通の文庫版、後者は横書きノート風(読むのが更につらいです)で、なか見検索もできるので立ち読みをどうぞ。)
興味がある人がいるのかは謎ですが、浄土宗の信仰への挫折を綴った凄まじい本『虚偽と虚無ー宗教的自覚におけるニヒリズムの問題』阿部正雄もあります。座禅道場で「すべては嘘だ!」と井戸に向かって絶叫するシーンの迫力はすごいです。こちらは宗教の道を歩むことの険しさと絶望を描いています。あとは無難に、ドストエフスキーの『地下室の手記』です。
あとがき
まとまりのない記事となってしまい、申し訳ないです。
「宗教」をテーマにすることの難しさに気づきました。何をどう書いても、「こんなんじゃない、こんなの死んだ魚の解体だ」という想いになって、だめです。
「各自で自分の闇を見つめてみよ」と言いたくなります。笑
ただこの記事を書くことを通して、「人間の(意識の)闇」について考え語ることは自分のテーマの一つだと再確認しました。
いよいよ小説をアップし始めました。
とても不器用な小説ですが、
これまでの生きねば活動を糧に
自分の想いを思い切りぶつけて書いています。それぞれの絶望にあえぎつつ、
なんとか生きているぼくたちを描きたいですみなさんの「生きねば」の参考になればと祈ります。https://t.co/bpMwGvSNdk
— ばさばさ 〆生きねば研究室 (@basabasatti) September 20, 2020
頭で考えてること文章にするの難しいですよね
大雑把で不正確なのはいけないが、かといって細部に寄りすぎると全体を見たときに実際とは似ても似つかなくなる、、、デッサンみたい。
【言葉にできないこと、無意識下のことも含めて、人それぞれですし、万人に当てはまる定義を目指すこと自体、ただ知的欲求を満たしたり、定義づけてわかった気になって安心したいだけだと思います(究極的には「定義する」(生きた流れを固定しようとする)ということ自体になんの価値も感じません。そのつどただ漠然とした現在あるのみです)。】
↑今回は、全然本題じゃないんですけどここが良かったです笑 たしかにと思いました。
議論のためには定義って必要やんと思いますが、こと宗教など精神的なものについては、「自分がどう思うか」を言い合うしかないですよね。議論というよりは、結局は個人的なものですね。
コメントありがとうございます。
感情が深く入り込んでいるテーマほど、言葉にして切り出してみることに困難を覚えます。
「宗教など精神的なものについては、「自分がどう思うか」を言い合うしかないですよね。議論というよりは、結局は個人的なものですね。」
同感です!精神的なものについては、「一人ひとりがどう感じるか」なので、客観性を意識した論理ではなく、「もう一人の人間の感情(こころ)」に直接働きかけるべきだと思います。
「議論」というよりは、相手が伝えようとしている「何か」を理解しようという気持ちをもった「対話」かな、と思います。
「自分が信じられないこと」を論証するのではなく、「そのリアリティを相手に届ける」といったイメージがあります。
余談ですが、ぼくはこの「相手の感情に直接リアリティをぶつける」という方法が大好きです。その意味で、哲学よりは小説が好きです。(宗教哲学が一番スキですが。)
あんたマジメやなぁ。
自分の生きる指針を考えるのは悪いことじゃないけどさ、民法と刑法を犯さなければ人間なんて自分勝手でええんやで。考えすぎるとうつ病になっちゃうよ。