小さな一つの慈悲が人を救う。『カラマーゾフの兄弟』一本の葱に寄せて

「悩んでいる人を助けたい、絶望している人をどうにか救ってあげたい。」
そんな願いを持ったことがある人もいると思う。
とはいえ現実では一体何ができるというのか。何が人を救い、人を絶望から立ち上がらせるのか。
それは何気ない一つの小さな慈悲・同情・あわれみである。
何気ない一つのあわれみが、絶好のときに発せられた時、その一言は彼を絶望からすっかり立ち上がらせる。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の1,2を争う名場面の一つが、「ソドムの悪女」グルーシェニカと「聖なる好青年」アリョーシャが、お互いを絶望から救い合う場面である。(第7編3「一本の葱」)
このとき出てくる「一本の葱(ねぎ)」という言葉は、その後アリョーシャの夢の中に現れたゾシマ長老が再び口にし、それがアリョーシャの決定的な再生の一助となるほど、重要な言葉だ。しかし、この「一本の葱」の話、一読しただけだとぼくはさっぱりわからなかった。今回『カラマーゾフ』を再読して、僕が読み取ったメッセージをご紹介する。

結論を先回りして言うと一本の葱とは、小さな善行であり、どんな人間であってもその小さな善行は可能であり、その小さな善行が時に人を絶望から救いうるということだ。
ここから、何も「善人」を目指す必要はなく、たとえ気まぐれであってもよいから、人は小さな善行を行い、隣人を助けることができる、という希望を引き出せるのだと思う。
人がお互いに小さな善行「一本の葱」を与え合うことで、罪深い私たちもお互いの罪をゆるしあうことができる。そこに希望がある。

『罪と罰』一本の葱の寓話

一本の葱はグルーシェニカが話す寓話の中に出てくる。生前、善行を為さなかった女がそれゆえに地獄に落ちてしまう。彼女の守護天使は、生前彼女が何か一つだけでも善行を行っていないかを探し回った結果、野菜畑で葱を一本抜いて飢えに苦しむ人にあげたことが一度だけあることがわかった。
それを神に伝えたところ、その一本の葱を地獄の女に差し伸べつかまらせ、引っ張り上げることを許される。
実際に葱を差し伸べ、女をすっかり引き上げられそうになったとき、地獄にいたほかの人間が彼女にしがみつく。「これはわたしの葱だ!」と彼女が言ってその連中を蹴落としにかかったとき、葱はぷつんと千切れてしまい、彼女は火の池に落ちてしまい、天使は泣き出して立ち去った。
これがグルーシェニカの寓話の要約である(第7編3「一本の葱」)この話の後、「あたしは一生を通じて、あとにも先にもその辺の葱を与えただけなの、あたしの善行はたったそれだけなのよ。だから、これからはあたしを褒めたりしないで、アリョーシャ」とグルーシェニカは言う。それはアリョーシャが、自分のことを救ってくれてありがとうと感謝したことに対しての謙遜の言葉である。

アリョーシャを救ったグルーシェニカの葱

では、その、グルーシェニカがアリョーシャを救ったという場面を見てみる。

「ゾシマ長老が亡くなったの!」グルーシェニカが叫んだ。「まぁ、そうとは知らなかったわ!」
彼女は敬虔に十字を切った。
まぁ、それなのにあたしはなんてことを。今この人の膝にのったりして!
ふいに怯えたように叫ぶと、急いで膝からおり、ソファに坐り直した。
アリョーシャはおどろきをこめて永いこと彼女を見つめていた。その顔が明るくかがやきはじめたかのようだった。
「ラキーチン」突然彼がりんとした大声で言った。
「(中略)この人をもっとよく見てごらん。この人がどんなに僕を憐れんでくれたか、君も見ただろう?僕はよこしまな魂を見いだそうとしてここへやってきたんだ。僕が卑劣な、よこしまな人間だったから、そういうものに強く惹かれたんだね、ところが僕は誠実な姉を見いだしたんだよ…この人はたった今、僕を憐れんでくれた…僕はあなたのことを言ってるんですよ、グルーシェニカ。あなたは今、僕の魂をよみがえらせてくれたんです。
アリョーシャの唇がふるえ、涙がこみあげてきた。彼は絶句した。
(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮文庫、第7編3「一本の葱」)

このときアリョーシャは、彼にとってはもうひとりの神に等しかったゾシマ長老が亡くなり、かつその体が匂いだしたによってうちのめされ、ラキーチンに誘われるがままに、「ソドムの悪女」たるグルーシェニカを訪れ、みずからの「よこしまな魂」を見いだそうとして来たところである。どん底へと向かうアリョーシャ。
グルーシェニカは彼の膝の上にのり(なんとも羨ましい)、もはやアリョーシャはそれを押しのけようともしない。
そんなとき、グルーシェニカは長老の死を聞いて、長老を敬愛していたアリョーシャを誘惑しようとしていた自分を恥じ、アリョーシャに同情しあわれんだのだ。これはグルーシェニカにとっては、とっさの行為、「その辺の葱を与えた」だけに過ぎない。
しかしアリョーシャは、堕落へと真っ逆さまに落ちようというこのタイミングで、一本の葱、一つの同情・あわれみに出くわしたのである!それも、「ソドムの悪女」から!
アリョーシャはこの葱を見逃さずにしっかり掴んで、奈落の底への没落から救われた。

グルーシェニカを救ったアリョーシャの葱

これに対し、グルーシェニカも救われる。

「あたし泣き出すわ、本当に泣き出しそう!(中略)この人はあたしを、姉とよんでくれたのよ、あたしこのことは一生忘れない!」(中略)
「もうすっかり白状するわね。あのね、アリョーシャ、あたし、どうしてもあなたをここにおびき寄せたかったものだから、ラキートカにしつこく頼んで、もしあなたをつれてきたら25ルーブリあげるって約束したのよ。」(前提書、同章)

そう言ってグルーシェニカは自分の罪と醜さををアリョーシャに懺悔する。
それに対して、アリョーシャのこのゆるしの言葉。

「怒らないでね。(中略)今の話をきいただろう?人間の魂にそれほど多くのことを求めてはいけないよ、もっと寛容にならなければ
アリョーシャは抑えきれぬ心の衝動にかられて、こう口走った。自分の考えを述べずにはいられなかったので、ラキーチンに話しかけたのだった。もしラキーチンがいなければ、一人ででも叫んだに違いない。(前提書、同章)

グルーシェニカの方から見れば、皆から「ソドムの悪女」と言われ、聖なる好青年たるアリョーシャさえも呑み込んでしまおうという時に、彼から「誠実な姉」と言われたのだ。これが一本の葱となった。他のどんな男も自分のことを肉的にしか見てこなかった。
しかしアリョーシャは、彼女の他ならぬ内面を「誠実な姉」だと言ってのけた。これによって、これまで氷のように固まっていた彼女のさみしさ、本音がほとばしり、彼女の胸に秘めた苦しみが明らかとなる

一本の葱が人を救うとは。

これまでアリョーシャとグルーシェニカがお互いを救い合う場面を見てきた。彼らがお互いに対して行ったのはささいなあわれみ・同情・尊重である
しかしその小ささに関わらず、それは絶好の機会において言われたが故に、お互いを救うこととなった。さて、この「一本の葱」が、アリョーシャが夢の中で出会うゾシマ長老の口からも話される。

「なぜ、わたしを見ておどろいている?わたしは葱を与えたのだ、それでここにいるのだよ。ここにいる大部分の者は、たった一本の葱を与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな…われわれの仕事はどうだ?お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ!我々の太陽が見えるか、お前にはあの人がみえるか?」(前提書、4章)

「ここ」とはイエスも同席している、夢の中のガリラヤのカナの婚礼であるが、聖者たちが集まる天国と捉えてよいだろう。そう、たとえ聖者とはいえども、「たった一本の小さな葱」を誰かにあげたに過ぎないのである。
アリョーシャがグルーシェニカに、グルーシェニカがアリョーシャに与えたように。
絶望の中にあるものに対して一本の葱ぽっちを与えること、それが「われわれの仕事」に過ぎない、と長老は言っているのである。何もいつでも優しく善行を行い続けろというわけでも、隣人のために身を尽くしきれと言っているわけじゃない。
ただ与えられるときでいいから、困っている者に一本の葱を与える。できるときに、誰かのためになることをひとつやってみる。普段はおこりっぽいけど、気持ちが少しでも穏やかなときに、目の前の人を尊重し、同情し、声をかけてみる。それだけなのである。
それが時には、人を救いうる大きな力になることがあるのだ、とゾシマ長老は言いたいのだとぼくは思う。
アリョーシャも言っている。
人間の魂にそれほど多くのことを求めてはいけないよ、もっと寛容にならなければ
ここにはゆるしの論理もあるだろう。

生きている限り、他者と縁を結べる。

人は生きている限りは他者と関わることができ、他者との縁を作ることができる。
一見小さな縁が、その人にとっては大きな救いとなることがある。仮にあなたが世界と世間を憎んでいたとしても、同じように世界から弾かれた人間と縁を結び、どうにか一本の葱を与えることができるのではないか。ここに生きる上での大きな希望を感じる。
生きて、少しだけで良いから誰かにとって良いご縁を築き続けることだ。ぼくも自分が生きるのにたくさん悩んだから、同じように悩む人に何か良いきっかけを与えられないかと思って、小説を書いたり、こうして記事を書いたりしている。

ただその辺にある一本の葱を誰かに与えること。人とのささいなご縁を大切にすること。
精神的な絶望というのはひと目見てわかるものではない。本当に苦しいときこそ、逆に誰にも言えずに自分の内に隠している。だから、私たちはいつ「一本の葱」を与えられるか、与え損ねるか、わからない。
これこそが何よりも大切な「われわれの仕事」であるとぼくは思う。

2 件のコメント

  • 目頭が熱くなりました。このように思っているドストエフスキーや主さんがいる、ということが嬉しい気持ちにさせます。

    • コメントありがとうございます。
      ぼくも嬉しいです。
      毎日少しでも謙虚に、人にやさしくできたらと思います。

      ばさばさ

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。