殺人犯の苦悩を見つめる。『罪と罰』ソーニャのまなざし。

ただただ目の前の人の苦しみをだけ見る『罪と罰』のソーニャ。

ドストエフスキーの『罪と罰』でソーニャの愛はラスコーリニコフを絶望から救い上げ,回心させました。
人を絶望の底から救い上げる愛があります。そんなソーニャの愛とはどんな愛だったのでしょうか。現実を生きる私たちはそこから何を学ぶことができるのでしょうか。善悪でなくその人の「苦しみ」を見るソーニャのまなざしについて、今回は書いてみます。

「どうしようもない父親」マルメラードフへのソーニャの愛

ソーニャの愛とは、目の前の「相手の苦しみへのまなざし」に尽きます。
「相手がどんな人間か、どんな行為の結果として苦しんでいるのか、その苦しみの責任は誰か」そうした一切を、つまり相手の善悪をソーニャは考えません。ソーニャはただ目の前の苦しみにだけ同情するのであり、そこにソーニャの愛のいやしがあります
さてソーニャには「どうしようもない」父親、マルメラードフがいます。以下はマルメラードフの台詞です。

「今日はソーニャのとこへ行ってきましたよ、酒代をせびりにね!へ、へ、へ!」
「自分の手で、なけなしの金をありったけはたいてね、私は見てたんですそれでいて、ひとことも言うことじゃない、黙って私の顔を見るきりですああなったら、もうこの地上のことじゃない、神の国そのままですな…人間のことを悲しみ、泣いてはくださるが、けっしてお責めには、お責めにはならん!」
「この私が、あれの実の父親が、なけなしの30コペイカをかっさらって酒代にしてしまった!で、現にいま飲んでおるわけです!いや、もう飲んじまいました、はい!…さぁ、これでも私のようなものを哀れんでくれる人間がありますか?ええ?だいたいあなたは、いま、私を哀れに思いますか、どうです?言ってくださいよ、哀れですか?どうですか?へ、へ、へ、へ!」
彼はもう一杯注ごうとしたが、酒はもうなかった。
(『罪と罰』ドストエフスキー著、江川卓訳、第1部の2、岩波文庫)

ソーニャは働くことをやめてしまった父、マルメラードフの代わりに、「いかがわしい」お店で働いて、極貧の妹弟たちと両親を経済的に支える女性です。
そんな、感謝をしてもし切れない娘ソーニャに対し、父であるマルメラードフは真っ昼間から呑んだくれるため、金をせびりにいく。それも、その前にソーニャが自分の肢体で稼いだお金を家から持ち出して全部使ってしまい、みじめさのあまり帰るに帰れなくなってしまったからであります。
ほとんど全ての人は彼を「救いようのない男」だと言うでしょう。「家族にとっちゃ、彼なんていないほうがましだ」と。
しかしソーニャは彼を責めずに、ただ彼の顔を黙って見つめるきりです。

自分の一切を忘れて目の前の人の苦しみだけを見るソーニャ

それはソーニャが彼の苦しみだけを見て、その苦しみに同情しているからです。父親を無条件に愛しているからです。
多くの人は、「自分がこれだけ苦労をしているのに、なんて人だ!」と思うでしょう。そのとき、人は自分の苦しみと相手の苦しみを比較しているかもしれません。また、自業自得だと思っているかもしれません
ソーニャが彼を責めないのは、こうした思考を行わない、もしくは退けているからです。
「自分の苦しみ、恨み、つらさ」を一切持ち出すことなく、ストレートに、ただ父親の苦しみだけを見ているのです。
ソーニャは自分のことは一切忘れて、ただ目の前の人の苦しみに同情をしています。
素朴であるがゆえに強い強い人間への愛です!それもマルメラードフは、ソーニャにお金を懇願するわけでもなく、ただその目をじっと見つめるだけです。はたからみれば「一言でもいいから、土下座をしてでも言って頼め!」とでも言いたくなりますが、ソーニャはこの彼の動作にさえ、彼の苦しみを読み取ります。
彼も本当に心の底からなりたくて今の状況になっているわけじゃない、彼に責任があるのではなく、むしろ「人間の心の弱さ、あべこべ」こそが悪いのだと、ソーニャはそんな論理で生きているのではないか。そうだとしたら、それは人間の愚かさや、弱さ、もろさを心の底から実感し、賢い人も愚かな人も、人類全員がそれぞれの苦しみ方で苦しんでいるという実感から、溢れ出してくるものだと思います。
自分が本当にやりたいことと、全く矛盾したあべこべの行為を「思わずやっちゃう、やけくそになって全部台無しにしたくなっちゃう」ドストエフスキーの作品世界にはそんな人物たちがたくさんいます。一度堕ち始めたら、いっそこのままどん底に行っちまえと!俺はどうしようもない人間なのだ!と考えたくなる気持ちは、みなさんもわかると思います。マルメラードフもそうした人間の一人です。
こうした視点から、ドストエフスキー作品は、すべての人間のそれぞれの苦しみを描いていると読むこともできるでしょう。

強者の論理が見失わせる愚者へのあわれみ。無限の縁が織り成す自分

もちろん、「その堕落したくなる思いをどうにかストップして、仕切り直さなくちゃ駄目だ!人間の弱さに負けちゃだめだ!」そんな感想も当然です。

しかしそうした「強い精神」をあまりにも強調し過ぎると、「強い精神」を持たない人への同情を失い、彼らを許すことができなくなってしまうのではないでしょうか。
「誰だって弱い心を持っている!それをなんとか克服しようとしないあなたたちがいけない!あなたたち自分の責任だ!」と考えてしまうことがあります。
けれどもそもそも「あなたがそうして弱い心を克服することができたのは、本当にあなた一人自身の力なのか」ぼくはこの疑問を素通りすることはできませんし、したくないです。
とてつもなく苦しい境遇からなんとか這い上がったという人もいるだろうし、僕自身も弱い心になんとか打ち勝って、生きていきたいと思っているのではありますが、だからといって、そのような生き方をしないものを見下すこと・評価を下すことはまた話が別だと思います。(身近な言葉で言えば、「人に優しく、自分に厳しく」です)
感覚的なものも大きいので、うまく説明することはできませんが、
自分の選択した行為だけでなく、そもそも自分がどう世界を認識し、どんな感じ方をするかまで含め、自分が気づかない無限のご縁が結び合って、人は生きてきているのだと思います。そもそも「自分」という存在自体、世界の無数の縁が結び合って、いまここに意識をもって成立しているにすぎません。
無数の存在の縁が一つの結び目となったことで「私」は生まれ、「私の死」とともにまた世界へと帰っていく。他の生命を食らわなきゃ、とても生きられやしないし、両親がいなけりゃどうしたって生まれてはこれない。一体どこまでが自分で、何をもって自分の力・自分の成果だと考えるのか。無理やり自分の存在を世界と切り離して、「自立した自分の自由」を妄想しているだけではないか。そう思います。

僕はある面では、自分が自分の行為に対して責任を持っていると考えることで、主体的に生きたいとは思うことがあります。しかしその一方で、その考え方を絶対の正義として世界全体を閉じてしまい、他の人を評価していくのは絶対違うとも思います。
「主体的に生きること」もあくまでちっぽけな、一人の人間にとっての一つの考え方にすぎません。自分が信じたい考えと、その考えを世界全体を支配する論理として当てはめることは区別されるべきです。

人間誰しもが弱い心を持っていて、その上でどんな生き方をするのかは、ほんのすこしの偶然の違い、縁の違いでしかないんじゃないか。
誰しもがマルメラードフと同じような道を歩み得たが、偶然それが自分でなかったというだけで。誰しもが犯罪者なり得たが、それが偶然あの人で、自分ではなかったというだけで。
自分と相手を決して分けないで、目の前の相手も、自分とほとんど何も変わらない人間だと感じること。そう感じることで、目の前の人を自分とおなじくらいに大切にできるのではないでしょうか。
目の前の人を、それが誰であっても自分と変わらない一人人間だと思うこと。そう考えることで誰しもが隣人となるのではないでしょうか。(ちょっときれいごとすぎるきらいはありますが…)

殺人犯であろうと、彼の苦しみをあわれむソーニャの愛。

ラスコーリニコフが、ソーニャに自分が殺人事件の犯人だと告げた後のシーンです。

彼女はびくりとふるえ、一声高く叫ぶと、それが何のためか自分でもわからぬまま、いきなり彼の足もとにひざまずいた。
「あなたはなんてことを、いったいなんてことをご自分にたいしてなさったんです!」[…] 「あなたはこの世界のだれよりも、だれよりも不幸なのね!」彼の言葉も聞こえぬらしく、彼女は夢中で叫んだ。そしてふいに、ヒステリーでも起きたように、おいおいと泣きはじめた。[…] 「でも、きみになんと言えばいいんだ?だって、どうせきみには何もわかりっこない、きみはただ…ぼくのために苦しみぬくだけなんだ!ほら、現にきみは、泣きながら、またぼくを抱く。
でも、きみはなんのためにぼくを抱くんだ?ぼくが自分で耐えきれなくなって、他人にお裾分けにきたからかい。「きみも苦しんでくれよ、僕が楽になるから!」って。いったいきみは、そんな卑劣な男を愛することができるのかい?
「だって、あなただって苦しんでいるじゃありませんか?」ソーニャは叫んだ。
またしても、同じあの感情がひたひたと彼の心にあふれ、また一瞬、それをなごめた。
(前提書、第5部4)

自分の親友とその義姉を殺したラスコーリニコフに対してすら、ソーニャは彼のへのあわれみを爆発させます。その後も素晴らしいやり取りや、ラスコーリニコフの右往左往もありますが、善悪でなく苦しみを見るソーニャの姿勢が、ラスコーリニコフを救う一因であったのではないかと思うのです。(二人が恋愛感情的に愛し合っていた側面も大きいとは思いますが…。このあたりについては、江川卓の『謎解き罪と罰』10章「ソーニャの愛と肉体」が面白いです。)

ソーニャの愛から、私たちも多くのことを学べると思います。
強者の論理、自己責任の論理で、同じ人間を切り捨ててはいないか。本当に苦しんでいるのは誰なのか。責任を問うことになんの意味があるのか。などなど一緒に考えていけたらと思います。

舞台『罪と罰』(三浦春馬/大島優子)シアターコクーン

どうやら「三浦春馬さんと大島優子さんの主演で『罪と罰』の舞台が開かれているようですね。舞台の盛況、お二人のご活躍と、『罪と罰』ドストエフスキー小説の発展を祈っております。
ドストエフスキーがソーニャに託した隣人への愛、罪のゆるしが、この冷たくギスギスした現代社会にとっての癒やしとなりますように。

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。