小説を読むのが大好きだから、自分でも小説を書いてみよう!
といざ書き始めて最初に陥ってしまう罠が、主人公と自分とをごっちゃにしてしまうという罠です。
はっきりと読者を意識し自己を適切に語る私小説を書こうというのならば良いですが、フィクションを交えた物語を書こうというのなら、主人公と自分の混同は致命傷です。
読者は「作者であるあなた」ではなく、「その小説で語られる物語」を読みたいからです。あなたが生み出した物語や登場人物は、それ自身の自律的な働きによって進んで行きます。ある程度書き進めれば、それ自身で生命を持ってくるのです。
しかしもし作者が主人公と自分とをごっちゃにしてしまうと、物語や登場人物たちの自律的な働きに対し、あなたのエゴがストップをかけようとしてしまうのです。
「俺はこれこれこういう思想が語りたいのに、このままだと俺のテーマからずれちまう!」とか、「主人公はこのままじゃダサすぎる、俺が書く主人公はもっとかっこよくなくっちゃ」とか、そうした欲望が出てきて、物語の自律的な運動を妨げてしまうのです。
では、どうしたら良いのか。
『ゲド戦記』シリーズで有名なル・グウィンの小説論から考えてみましょう。
作者と主人公が一致すると「フィクションの体裁をした説教」に
もしわたしが自分の物語の登場人物をつかって、もっぱら自分の自己イメージ、自己愛や自己嫌悪、欲求、意見などが求めることを実現しようとするならば、登場人物たちは彼ら自身でいることができず、真実を語ることができない。
物語を欲求と意見の開陳の場と考えるならば、それによって目的を果たせるかもしれないが、登場人物は人物にならないだろう。
彼らはただの操り人形で終わる。
(ル・グウィン『ファンタジーと言葉』所収「作家と登場人物」青木由紀子訳,2015,岩波現代文庫)
自分のエゴのために、自分の登場人物を操り人形のように使って描く物語は、自分の欲求と意見を発散する場にしかならないとル・グウィンは言います。これが、作者と主人公とが分離されず、一致してしまっているときの小説です。
そこには作者の巨大なエゴと、そのエゴを満足させるための操り人形しか出てきません。作者のエゴにとっては最高の小説、最高に気持ちが良い小説かもしれませんが、読者からすればそれは最悪の小説となります。一人の人間の自己満足に付き合わされるわけですから。
ル・グウィンはこうした小説を、「フィクションの体裁をとった説教」とすら言います。
ル・グウィン自身もこのエゴを満たすための小説表現へ向かおうとする気持ちには注意をしているようですが、小説を書き始めた多くの人はまんまとこのエゴイズムの罠にかかっているでしょう。
そもそも「フィクションの体裁をとった説教」をしたいから、小説を書こうという人、自分の欲望、鬱憤、承認、肯定を求めて小説を書こうという人も多いのではないでしょうか。
小説を書くのは孤独な作業であり、同時に果てしなく自由な作業です。人に見せるわけではない、単なる自己満足のための小説ならば良いですが、「誰かに読んで欲しい、誰かの助けになりたい」という思いで書くならば、作者たる自分のエゴイズムをうまくコントロールするための「自律」が不可欠です。
これは何も小説だけではありません。料理でも、教育でも、スポーツでも、職人でも、誰かに何かを提供する際には、絶対に必要です。(周りがいつでもヨイショしてくれるどこぞの王様ならば良いですが。)
しかし何ぶん孤独な一人きりの作業で、明快な判断基準もない芸術活動の一つである小説は、自分のエゴイズムに自分で気づき、自分で律する必要があります。
ではどうすれば、作者である自分と主人公とを切り離して物語を書くことができるでしょうか。
主人公たち自身の人生に敬意を払い、自分と分離させる。
作家として忘れてはならないのは、[中略]彼らはわたしではないということだ。わたしは彼らであり、彼らの言動にたいして責任がある。
しかし彼らは彼ら自身である。[中略]彼らは私に対して、[中略]わたしの編集者にたいして、[中略]わたしの収入にたいして、なんの責任も負っていない。彼らはわたしの経験と想像力が具現化したものであり、想像上の人生を生きている。[中略]本来わたしの人生とは別物なのだ。[中略] 自分自身をその人物と混同しないよう気をつけなければならない。[前提書、同章]
彼ら(登場人物たち)は私ではない。彼らの言動に対して私は責任があるがしかし彼らは彼ら自身、彼らの人生を生きている。
こう考え、発言することは簡単ですが、実際に小説を書きながらこれを実践すること難しいです。ついつい、主人公と、登場人物と一体化し、彼らに「作者である私にとっての解答」を押し付け、操り人形にしたくなります。
しかし、それをぐっとこらえて、彼ら「登場人物自身の人生」を尊重する。
これをル・グウィンは、「生きている人間に対して当然払わなければならない尊敬を、わたしは彼らに払うのである」と言います。
これはル・グウィンのゲド戦記第4部『帰還』ではっきりと実践されていると思います。読んでいない人も多いでしょうから、簡単に説明しますと、『ゲド戦記』と堂々タイトルにもなっている、本シリーズの主人公、英雄的な魔法使いであるゲドが、さいはての島という生死の境目までいって怪物と戦い、その戦いで魔法を失って、龍に乗って故郷に帰ってくるという話です。
第3部を描いてからの長いブランクの後に再始動したのがこの第4部であって、「あのゲドにまた会える!今度はゲドはどんな冒険をするんだろう!」とファンは大いに期待したことでしょう。
しかし!帰って来たゲドは、魔法を失ったことで自分のアイデンティティを喪失し、うじうじした思春期の青年のようになっているのです!
「あのゲドが!こんなどうしようもないやつになっている!こんなの見たくなかった!」と批判も激しくあったでしょう。
もちろんこれを、ル・グウィンが予想していないわけがありません。
魔法を失ってもめげない、かっこいいゲドを描けばファンが喜ぶことも知っているはずです。
しかし、ル・グウィンはそうしませんでした。
それは「ゲド自身の人生」を尊重し、彼に敬意を払っていたからでしょう。
ゲドは作者ル・グウィンが生み出した人物ではありますが、彼は今や自分自身の人生を生きているのであり、ル・グウィンの編集者にも、ファンにも、収入にも、ゲドは関係ないのです。
ゲドはゲドの人生を生きているのです。
こいつはまさに、「自分が生み出した主人公」に対する本当の愛です!
この愛のおかげで、ゲド戦記第4部は一人の人間を描くことに成功しているようにぼくは思います。もはやファンタジーというよりは、老年に自分のアイデンティティをうしなったおじさんが、役立たずになった自分自身を受け入れていくお話のようですが、
しかし、紛れもなく一人の人間が描かれています。
これは、スゴイことです。本当に登場人物への愛がなくてはできないと思います。
ここまでのところをまとめますと、作者たる自分と登場人物とを混同しないためには、
・主人公たちは自分とは違う人間であり、彼自身の人生を生きている。
・主人公たちに対して「生きている人間に対して払うのと同じ敬意を払う」
ことを大切にする姿勢が必要です。
ただ作者たる自分と主人公とを分離するだけではありません。
彼らを実際に現実を生きている一人の人間として尊重する、そんな姿勢を持ってこそ、物語が物語としての自律的な力を持ち、その物語の読者が、「作者のエゴではなく」、「物語に」入り込むことが可能になるのでしょう。
書いている間に限り、わたしは登場人物の意志に屈し、完全に彼らを信頼して、
彼らが物語にふさわしいことを言ったり、したりするに任せるかもしれない。
一方、物語のプランを立てたり、修正したりしている時は、登場人物、特に自分が一番好きな人物や気ライン人物に対し、気持ちの上で距離を置くほうがうまくいく。彼らを疑いの目で見て、冷静にその動機を探り、彼らの言葉を常に多少割り引いて受け取る。
ー彼らがほんとうに混じりけのない本音で語り、私の始末におえないエゴを代弁しているのではないと確信できるまで。[前提書]
しかし、ただ登場人物たちに敬意を表するだけではいけません。
書いている間は主人公たちを全面的に信頼し、思う存分動いてもらいます。
でもその後で、修正をするときには、適切な距離をとって、隠れた自分のエゴイズムを発見して取り除くというのです。
「始末に終えないエゴ」とは良い言葉ですが、それにしてもル・グウィンのプロ意識には脱帽してしまいます。
ぜひみなさんが素晴らしい作品を生み出すことを祈っております。執筆は孤独でつらい作業ですが、がんばりましょう!
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