頭の中では隣人を愛し、現実では憎む…人間の愛の矛盾。『カラマーゾフの兄弟』から。

「純粋な善行為、他者愛」この言葉に、「吐き気」とまでは行かないまでも、偽善の匂いを感じ取る人も多いだろう。
それは一体どうしてか。人間に純粋な行為は不可能なのか。「人を救いたい、助けたい、何か良いことをしたい、」そう頭の中で考えることは甘い甘い夢でもある。
しかし現実は…

空想の中ではよく人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、おそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいないのだけれど、それにもかかわらず、相手がだれであれ一つの部屋に2日と暮らすことができないし、それは経験でよくわかっている。
だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしはわずか一昼夜のうちに立派な人を憎むようにさえなりかねない。(中略)
風邪をひいていて、のべつ鼻をかむという理由だけで、私は憎みかねないのだ。
私は人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代わりいつも、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対するわたしの愛はますます強烈になってゆくのだ」
(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮文庫、第2編4「信仰のうすい貴婦人」)

ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』、ゾシマという修道院の長老が過去に相談を受けたある医者の悩みを紹介する場面である。

頭の中で、空想の中では全人類を愛したいと願う一方で、現実の中では隣人を憎んでしまうという矛盾

今回は空想の愛と現実の愛とのギャップについて考えてみたい。この考察の行き着くところは、愛の困難・矛盾を受け容れた上でも、「目の前の人、隣人を助けたい」のか否かである。

自分の愛は報酬を求めてのものであることに悩む婦人

ゾシマという長老のいる修道院にある婦人が自分の悩みを相談しに来た。
「あたくしは人類への愛のためだったら、何もかも棄てて看護婦にだってなれる!そんな空想をしていると抑えきれぬ力を身内に感じる!」と述懐する、まことに威勢のいい婦人であるが、彼女は同時にこんな悩みも告白する。

「実行的な愛ですって?(中略)これがあたくしにとって、数ある問題の中でいちばん苦しいものなんです。目を閉じて、よく自分にたずねてみることがございますの。(中略)
もし、お前に傷口を洗ってもらっている患者が、すぐに感謝を返してよこさず、それどころか反対に、さまざまな気まぐれでお前を悩ませ、お前の人間愛の奉仕になど目もくれもしなければ評価もしてくれずに、お前をどなりつけたり、乱暴な要求をしたり、ひどく苦しんでいる人によくありがちの例で、だれか上司に告げ口までしたりしたら、そのときはどうする?
それでもお前の愛は続くだろうか、どうだろう?(中略)
一言で申してしまえば、あたくしは報酬目当ての労働者と同じなのです。
ただちに報酬を、つまり、自分に対する賞賛と、愛に対する愛の報酬とを求めるのでございます。
それでなければ、あたくし、だれのことも愛せない女なのです!」(前提書、同章)

「報酬目当ての労働者」と自分は同じ、相手からの称賛を期待できなければ誰も愛せないと彼女は嘆く。
世間でよく「偽善者だ!」と叫ばれるときも、この「報酬目当て」であるかどうかが責められる。心の内では「人類への愛」が燃えたぎっているのに、現実のこととなると、報酬を期待しているという自分に気付く。
人間の心の矛盾である。意志することと、現実の感情との間の矛盾。この矛盾が婦人の心を引き裂き、悩まし、ゾシマ長老のもとに駆けつけさせた。

「一体自分は本当に相手を愛し、相手のためを思って「この行為」を行っているのだろうか」
この悪魔的な問いは、安易な解答を許さない。
「心のどこかで、誰かからの称賛を期待しているのではないか…」とのささやきからをきっぱりと退けられるという人がどれだけいるだろうか。
「自分の心が信じられない、自分の意志が信じられない」とは、人間の喉元に突き刺さった巨大な問い、矛盾である。

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自分、人間の醜さ、矛盾を自覚すること。

ではこの婦人の告白に対し、ゾシマ長老はなんと答えたか。

「いいや、あなたがそれを嘆いていることだけで十分なのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことをやりとげていますよ、なぜって、これほど深く真剣に自覚することができたのですからね!
かりにあなたが今それほど真剣にわたしと話していたのも、今わたしに賞めてもらったように、自分の正直さを賞めてもらいたいという一心からだけだとしたら、そのときはもちろん、実行的な愛の偉業という面では、何物にも到達できないでしょうがの。
もしそうだったら、すべてがあなたの空想の中にとどまるだけで、一生が幻のようにちらと過ぎ去ってしまうでしょう。
この場合はもちろん、来世のことも忘れはてて、しまいにはなんとなく自分自身に満足してしまうことになるのです。」(前提書、同章)

自分の心を真摯に見つめるからこそ、この心の矛盾を自覚できたのであり、それだけで十分だとゾシマは励ます。
婦人が見つめ自覚したことは、ある意味では人間の醜さだ。空想では隣人愛がいくらでも可能であるように思えるのに、現実には愛するだけでは満足できず、相手からの賞賛を求めてしまうという醜さ。
人間の罪といっても良い。人間の罪とは、人間は全くきれいな、誤りのない存在ではないということ、人間は天使ではなくどこまでも人間であるということ。誰も進んで認めたくはないこの心の事実を自覚したことを、ゾシマ長老は賞めている。

しかし同時に、優しく婦人のさらなる懺悔、反省を促してもいる。すなわち、「その自覚を私に賞めてもらいにきたわけではないでしょうね?」
それでは結局、ただ長老という権威によって賞めてもらうことに安心し、自分の価値を保証してもらう、なんとなくの「自分自身への満足」にしかならないと長老は続ける。
これは愛や慈悲や善行とは一切関係がない、単に「自分を認めてほしい」だけである。
ただの業績評価、仕事の報告と変わらない。

だからゾシマ長老は安易に相手を認めない。それは深く深く自己を見つめ、自分(人間)の罪や醜さ、矛盾を受け容れ、反省することで、他のすべての人間の罪をも赦して欲しいからである。
人間一人ひとりがお互いの罪と醜さを赦し合い、愛し合うことを望むがゆえである。

人間・自分の心の醜さを認めるからこそ、他者の醜さを赦しあわれむことができる。

 

「まあ、恐れ入りました!今この瞬間になってやっとわかりましたわ!さっき忘恩には堪えられないと申しあげたとき、本当にあたくし、あなたのおっしゃったとおり、自分の誠実さに対するお賞めの言葉だけを期待していたのでございます。あなたはあたくしに、自分のほんとうの心をひそかに教えてくださり、あたくしの心を捉えて、説明してくださったのですわ!」
「本心からそうおっしゃるのですか?そういう告白をうかがったあとなら、今こそ、あなたが誠実で、心の善良な方だということを信じますよ。
かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように努めることですな。
肝心なのは、嘘を避けることです、いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。
自分の嘘を監視し、毎時毎分をそれを見つめるようになさい。(中略)
内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたがそれに気づいたという一事だけで、すでに清められるのです。(中略)
実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ。(中略)
実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。(中略)
あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的がいっこうに近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、我が身にはっきり見いだせるようになれるのです。」(前提書、同章)

さて、ゾシマ長老の優しい促しの如く、婦人は長老に賞められるためにここに来ていることに気づいた。ゾシマ長老はそれを責めるわけでもなく、むしろその誠実さを讃え、婦人の心に迷いが生じないよう更に励ましている。
「肝心なのは、嘘を避けること」であり、「自分自身に対する嘘」を監視し見つめることである。自分自身に対して嘘をついてはいないかを監視し、自分の心の疎ましさを発見し、自分の心の醜さに気付くことは、むしろ清いことである、そうゾシマ長老は言う。

ここには人間の醜さや罪に対する深い洞察がある。人間は決して、きれいで純粋な存在ではない。きれいな心、無垢な愛、自己放棄的な善行を頭では求めても、それを裏切る心をもっている。そのことをまずは認めなくてはいけないのだ。
分の心の暗い面、矛盾したところに目をふさぎ、「自分自身に対して嘘」をつくことは、自分の心の一部を否定し排除することである。
それは他者の内の同じ暗い心を嫌うことにつながり、他人の罪や醜さを赦すことができなくなるぼくは思う。
自分の心の暗さを自覚していてこそ、他者の心の闇に同情し、それを赦し愛し合うことができるんじゃないか。愛し合うなんておおげさだけれど、要は助け合って仲良くやるってことだ他人だと罪深く、醜く、愚かに見えるけれども、冷静に反省してみれば自分も根本のところでは全く同じように醜く、愚かであるということ同じ人間兄弟であるということ、隣人であるということだ。

求めるのは自分の純粋さか、それとも隣人の幸福か。

現実の「実行的な愛はこわくなるほど峻烈」で、「仕事であり、忍耐であり、学問でさえある」とゾシマ長老は言っていた。現実世界で、現実の相手に対しての、実行的な愛の道は果てしなく険しいのである。

現実の愛の行為、人助けを実行すればするほど、かえって自分の心の醜さにも襲われる。
「面倒くさい、なんでこんなことやらなくちゃいけないんだ」と思ったり、平気で人にひどいことをしている自分に驚いたりする。「あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的がいっこうに近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がする」
とのゾシマ長老の言葉が思い出される。

「一体どうして、『愛の実行』なのにこんなに困難なのだ!報われないのだ!自分の心は醜いのだ!」そう嘆きたくなる。どこまでもどこまでも世界が嫌になる。自分が嫌になる。

しかし、これがどうしても避けることのできない事実なのだ。泣いても喚いても、変わらない事実なのだ。こんなときこそ、こう問うべきである。
「あなたは愛の実行を通して、『自分の純粋さ』を求めているのかそれとも、『目の前の人に安心してほしい、誰かを救いたい、つまりただ隣人を愛したい』のか。」
後者ならば、この「愛の実行の困難さ」を受け容れて、それでも目の前の人のために、続けるだけである。
同じこの苦しい現実を生きる人のために、自分と同じ、罪深い隣人のために。
もしかしたらその果てには「たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、我が身にはっきり見いだせるようになれる」かもしれないし、「幸福に行きつけぬ」のかもしれない。

もしあなたが「自分の純粋さ」を求めているだけならば、それは自己愛であって、愛の実行とは全く別のものである。

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6 件のコメント

  • キリスト教の本髄のひとつが、端的にまとめられていると感じます。
    パウロによる有名な愛の定義は、「愛は忍耐。」であること、いつも憶えいつも全身で感じながら人と向き合うことが、隣人愛かなあなど思います。

    本文より
    「あなたは愛の実行を通して、『自分の純粋さ』を求めているのかそれとも、『目の前の人に安心してほしい、誰かを救いたい、つまりただ隣人を愛したい』のか。」(中略)もしあなたが「自分の純粋さ」を求めているだけならば、それは自己愛であって、愛の実行とは全く別のものである。

    まさに、ですね。厄介なのは、この自己愛は自覚されにくいことかと。「善くあろう」とすることは部分的には正しいですが、教育の場では、疑いなく全面的に正しいものとして流布されているように思います。

    たまたまネットで見つけた、お説教のブログ記事を思い出しました。
    https://blog.goo.ne.jp/rejoice-always/e/5d60a2a2ce6c3e334d5c5bd1c6c50a8a

    マルコによる福音書10章17章の「富める青年」について、「自分の相応しさを求め、良い方ご自身を求めてはいなかった」と書かれています。読むたびにここではっとして胸が詰まってしまいます。
    その者に対し、イエスが「見つめ慈しんで言われた」ということも含め、心に痛みをもって刻まれる福音書の一つです。

    ゾシマ長老と婦人は、このイエスと青年なんだなと、とても腑におちました。ありがとうございます。

    • veronicaさま、コメント及び、素晴らしいサイトのリンクをお貼りいただき有難うございます!
      「愛は忍耐」まさにそうですね。まずは、「愛は深いところで感覚を喜ばせるものである」というぼく自身の信仰・思い込みを、崩していかなくてはならない気がします。十字架の聖ヨハネの言葉にもそんなことが書いてありました。愛が感覚的な慰めを感じさせないこと、精神の暗夜を恐れずに進め、と。
      ぼくも、いつも気づかぬ内に「自分がふさわしいものにならなければ」と考え行動してしまいます。
      「子どものように」、ただありのままの姿で神のもとへ、神をよりたのむことが、本当に求められているということを、骨身に染み込ませていかなくてはいけないなと、反省します。
      「自分のふさわしさではなく、神自身を求める」とは良い言葉ですね。ぼくは自分の「価値を高める」なんて妄想ににあくせく時間を使ってしまうものですが、そんなことよりも、恐れずに神の慈愛を信じて身を任せることができたら…と思います。
      考えるきっかけを下さり、ありがとうございます!
      拙いブログを御覧いただきありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します!

  • とても精確な解説だと思いました。私もゾシマ長老のこの説教の場面が好きです。
    ところで現代社会に生きる私たちができる実行的な愛はどのような形で実現されるとお考えですか。

    カラ兄を読んだときゾシマ長老のこの説教はもっともだと思いましたが、一方で労働者として生きる私たち現代人ができることってなんなんだろうなと…考え込んでしまいました。
    というのも現代労働者としての美徳は「生産性を上げる」ことに尽きると思うんです。一緒に働く仲間たちや企業は愛ではなく生産性が欲しい(もちろん人柄が良くて出世につながるケースもあるでしょうが)。
    労働の外であれば消費者として趣味など自分の好きなことをしたり欲しいもの買ったりといったことをしますがそこに愛の出番はあまりないように感じます。
    なんか上手く言えませんが消費と労働を自己完結的に繰り返すだけで心深く他者と関わる余地がほぼほぼないといいますか…。そして深く関わることがなくても別に滞りなく個人が生きていける社会が実現しているように思います。
    まあ、だからこそ物質的にはある程度豊かになっても孤独と空虚感に苛まれる人が出てきているのでしょうが…。
    とはいいつつほとんどの人はそれでも自分の日常・人生を各々生きていく。私の印象に過ぎませんが、「みんな自分の人生を勝手に生きてるんだから他人はほっとけよ」みたいな雰囲気が現代社会にはある気がします。
    このような社会でゾシマ長老の言う「実行的な愛」って行いうるものなのでしょうか。
    なんだかあまりピンとこなくて…。

    • しゅんはやぶささん
      真摯なコメントありがとうございます。とても有り難い刺激を頂いております。

      「消費と労働を自己完結的に繰り返すだけで心深く他者と関わる余地がほぼほぼない」
      「深く関わることがなくても別に滞りなく個人が生きていける社会が実現している」
      「みんな自分の人生を勝手に生きてるんだから他人はほっとけよ」みたいな雰囲気が現代社会にはある気がします。」
      「このような社会でゾシマ長老の言う「実行的な愛」って行いうるものなのでしょうか。」

      これらのご意見、すべてとてもよく理解できます。この社会の現実は「実行的な愛」を行いずらくしていると、ぼくも間違いなく共感致します。
      ただそこから一歩進んで、「ではこの『愛が困難な社会』に私たち一人ひとりが合わせる必要があるのか」と問えば、合わせる必要はないと思います。
      むしろ、『愛が困難な社会』であるからこそ、しゅんはやぶささんもおっしゃっている通り、「愛に飢えている」のだと、ぼくは強く強く感じています。
      みんなみんな、心の奥深くでは「ただ愛されたくて」、でもそれを素直に要求できないからこそ、お金をためたり、能力を磨いたり、媚を売ったり、外見を華々しく見せたりしているだけだとぼくは思います。
      そのままの自分を自分で認められていないから、、「理想の・きれいな自分」を愛されようと売りつける、歪んでしまっている、そんな感じがぼくはとてもします。
      みんな愛されたいはずです。人間として当たり前のことだと思います。(愛の要求もさまざまに歪むのが人間だとも思いますが、やはり根底では、愛されたいのだとぼくは信じています。)

      だから、「ほっとけよ」と言っている心のうちでは、みんな愛されたいのだろうと思います。(もちろんその人が「私」から愛されたいかどうかは全く別の問題で、「私」が愛せば解決するというわけではありません。)

      したがって、「愛が困難な社会」においても、人は愛を求めており、社会や世間的な空気とは矛盾するようでも、私たちは愛することができるし、愛する(愛される)ことは求められていると思います。
      人は成果や合理性のために生きているわけではありません。愛したかったり、愛されたかったりして、生きている面があると思います。
      私たちは労働者であり、消費者である以前に、互いに人間です。

      つぎに、じゃあこの社会でどんな愛が可能なのか。という問題です。
      これは一言で言えば、「自分を必要としている隣人を発見し、その人が求めているものに、正しく応えること」だと思います。(ちょうど今書いているの「アガペーとエロスの愛の違い」に関する記事で引用する井上洋治さんの言葉そのままなのですが。ぜひ公開したらご参考頂きたく思います。)
      労働の現場で求められていることは、確かに合理性、成果ではありますが、その労働の現場に働いている一人ひとりの人間は、機械ではありません。
      傷ついたとき、失敗したときに慰められたら嬉しいでしょうし、一緒に仕事を果たしたときにはともに喜びたいでしょう。合間に世間話でもできたら、基本的には嬉しいでしょうし、独りぽっちでいるよりは、気の合う仲間と話せた方が居心地が良いはずです。
      消費の現場であっても、店員さんは一人の人間として、お客さんの笑顔や、やさしい一言に触れたら嬉しいだろうと思います。
      したがって、現場として求められていることと、その中で生きている人間が求めている暖かい交わりは、関係がないと思います。お互いがお互いを「労働者」や「消費者」、「上司」や「部下」、「お父さん」や「娘」としてではなく、お互いに血の通った人間として関わることが、「実行的な愛」なのかもしれません。

      実行的な愛とは、結局ひとつひとつの人との関わりのなかで、相手を「自分と同じ」一人の人間として大切にすることだと思います。
      それには、「自分を必要としている隣人」にまず気づかなくてはなりません。
      これは何も、家族のように、「他ならぬ自分を必要としている」という意味だけではなく、「自分が目の前の人に何かできるとに気づくこと」と言っても良いのだと思いまs。
      職場で、一人ぽっちでさみしそうな人がいたら、一声かけてあげてもよいですし、みんなから嫌われている人に、せめて自分だけは公平に接するように心がけることでも良いと思います。
      親が何の進展もない愚痴や文句を言っているのに、ちょっと我慢してあいづちをうってあげることでもよいし、満員電車で居りられなそうに困っている人がいたら手伝ってあげるのでも良いです。
      友達が予想通りの失敗をしていて、「自業自得やん・・・」と思いつつも、「自分だったらどうされたいか」と考えて、とりあえず慰めようとすることです。
      つまり、とてもとても身近なところで、普段目に入らない隣人に気づくということで、実行的な愛の機会は実はそこら中に溢れているのだと思います。それでいて、たいていの場合。気の乗らないものだとも思います。そして目に見える報いがない、むしろ搾取されているように感じること、足を引っ張られているように感じることも、あると思います。

      まさにまさに、これは実行的な愛は難しい。
      しゅんはやぶささんも感じてらっしゃるように、現代社会、将来へ向って、この難しさはどんどん激しくなっていると思います。愛はますます見えずらくなっていくのかもしれません。
      しかし、だからこそ愛の渇望も深くなってゆくのだと思います。若い人の心の敏感さに、そんなものを感じられるような気がします。

      「実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ。(中略)
      実行的な愛というのは、仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。(中略)
      あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的がいっこうに近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、
      そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、我が身にはっきり見いだせるようになれるのです。」

      しかし、ゾシマ長老が最後に言っているように、「隣人」との人間的な交わり内に、無上の喜びを感じられる一瞬も、きっとたまにはあると思います。
      それがキリストの神なのかなんて、いたってどうでもよいことですが、我欲を超えたところに全く別の種類の喜びがあるのだとしたら、それは「神秘的なもの」と言ってもよいとぼくは感じます。

      とは言え、「肝心なのは、嘘を避けることです、いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。」とあるように、「実行的な愛」なんて恐ろしいことの前に、嘘をさけることの方がずっと、大切なようにも思います。

      勢いに任せて、いたずらに長く、わかりずらくなってしまいましたが、いまのところ以上のように考えました。
      何かご参考になれば嬉しいです。また、コメントお待ちしております。

      • 返信ありがとうございます。
        >現場として求められていることと、その中で生きている人間が求めている暖かい交わりは、関係がないと思います。お互いがお互いを「労働者」や「消費者」、「上司」や「部下」、「お父さん」や「娘」としてではなく、お互いに血の通った人間として関わることが、「実行的な愛」なのかもしれません。

        これはたしかにその通りですね。現代社会ではすべての個人があらゆる役割に縛られており、ありのままに他者と向き合うことを難しくしているのかもしれません。また他者だけでなく自分と向き合うことも。

        労働者として成果を出せず、社会人失格だと落ち込んでしまうことはあるでしょう。しかし労働者・社会人失格であることと、今ここに実存している〈私〉の価値は関係ないですね。役割としての自分と本来の自分を混同してしまう危険が現代社会の至るところに潜んでいると思いました。

        多分友達と呼ばれる人がたくさんいても、彼らが一友人という役割としての「私」しか認知しなければ寂しさは癒えないでしょう。
        だからこそおっしゃるようにお互いを演じられた役割としての人物像としてのみの関わりではなく、血の通った人間として関わることが大切ですね。

        しかし、やはりこういう関わりを実現させることは容易ではないでしょう。
        社会的役割だけのつながり、自己愛を満たすための依存的つながり、ステータスのためのつながり、同調圧力的つながり…etc

        他者とつながらなくても生物として生きていくことはできる社会傾向になりつつありますが、
        やはり多くの人は愛に飢えている。だからこそ上記のような自己欺瞞的なつながりを求めてしまう、隣人愛をしたつもりが自己愛を満たすだけになってしまう罠が潜んでいると思います。

        こういったもの以外で人とのつながりを人々が見いだせていけるといいですね。

        • しゅんはやぶささん

          ご返信ありがとうございます。
          「役割としての自分と本来の自分を混同してしまう危険が現代社会の至るところに潜んでいる」
          なるほどです。現代社会においてとても大きな問題がここにある気がしました。
          社会がここまで多様化、複雑化したために、「一人の人間として」ではなく「仮面をかぶった一人の役者」であることが社会から強く求められてしまうのかもしれません。
          ぼくも、自分自身の活動において「本音で、1対1で、対等に関わる」ということを大切にしたいとぼんやり考えていたのですが、それは現代社会の過度な「役割要求」に対する抵抗であるという側面もあるのかもしれないと、今思いました。
          コメントを頂けたおかげです。ありがとうございます!
          しゅんはやぶささんがご指摘されたような「現代社会の問題」に対して、どう関わっていくのか、ということも考えねばならないな、と思いました。
          ぼく自身は「生きねば…」という実存的視点ばかりに囚われてしまうので、とてもありがたかったです。
          今ちょうど、ブログ等でつながった方を中心にオンラインコミュニティを作り始めた段階だったのですが、「一人の人間として扱われる居場所」というものが、とりあえず現代社会には求められているのだろうと思われます。
          そのようなものがどうしたら可能なのかは、まだまだわかりませんが…。ぼくのこのブログも、どうにか役に立てていけたらと思います。
          コメントありがとうございました!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。