自己と他者とは対立した存在なのか-中村元『自己の探求』から

学術的な冷たさ、単調さの強い著作が多い中村元のなかでも、「いかに生きるか」をわりに自由に論じている『自己の探求』から。

「相手にそんなにしてやったら、こっちが損じゃないか!」
という考えは、人間同士がお互いに仲良くすることを大きく妨げているとぼくは考えている。「何かができる」のに、「損じゃないか」という一つの観念が、その人の立派な慈悲の念を殺してしまうのだ。

この考えは「自己と他者とは対立した存在である」という見方を前提とした一つの考え方に過ぎない。しかし、本当に一人の人間ともう一人の人間とは対立した存在であるのか。仮に別の見方を前提としたら、この損得の計算は全く成り立たなくなるのではないか。
頭の中からスルッと飛び出して、慈悲の念を殺してしまうこの「当たり前」の思考の流れの問題を、
冷静に立ち止まって、考えたい。
ゼロサムゲームの価値観(相手の利益は自分の損)から、持ちつ持たれつ、みんなで一緒に幸せになろうという共生のパラダイムへ

自己と他者を対立しているものと捉えるのは一つの見方に過ぎない

自己と他人との対立にとらわれているときに迷いの生活があり、何とかしてその対立を超えようと努めることによって、望ましい理想の境地が実現されるのである。
自己の利をはかることが、同時に他人の利と合致するのである。
例えば怒らない人は、『自己と他人との利を行う』のである。(『自己の探求*新装版』中村元著、青土社、「主体としての自己」より)


「「自己と他人との対立にとらわれているとき」は「迷いの生活」をしている」

「は?」と思う人も多いかも知れないが、この一文の力は意外にも大きい。

「あんまり身の回りの人に尽くし過ぎたら、自分が損をしてしまう」とか「これ以上自分がやることは、自分を消耗させるだけで、そんな価値はない」とかわりと「当たり前に」、ストレートに感じてしまうものではある。

けれどもこの考え方は「自分と相手は違う」「自分の利益と相手の利益は対立している」「自分と相手は全く別個の存在である」といった「一つの見方」を前提としたものに過ぎない。つまり別の前提で考えたら、「自分と相手との間の損得計算」なんてまったく成り立たないのだ。
では、「自己と他人との対立にとらわれていない」見方とはどんなものだろうか。

「自己を他者を区別しない」というもう一つの見方

自己を護ることが同時に他人の自己を護ることであるような自己は、もはやお互いに相対立し相争うような自己ではない。すなわち一方の犠牲において他方が利益を得るというような自己ではない。むしろ他人と協力することによってますます実現するところの自己である。自我の観念と他我の観念とを互いに撥無し、無しとみなした場合に、〈自己の利〉が実現されるのである。(前提書、同章)

もう一つの見方とは、「自己と他己とを区別しない」見方である。「自分の利益」も「相手の利益」も分けず、また「自分」という観念も「他者」という観念も頭から振り切った見方である。

細かい疑問はわきに置いて、もしこの見方を前提にすると、さっきの状況にも全く違う見方ができるようになる。

わかりやすい例で示す。
自分が愛着を持って属している集団に尽くすことを想定したい。自分がいくら苦労しても、その集団が活発になったり、発展したりするのならまったく苦でなくなる。これは集団と自分との壁が薄くなって、その集団の喜びと自分の喜びが一致しているからである。
だから自分は苦労するけれど、それは自分(その集団)に対する奉仕であるから、苦ではない。ただ自分のために自分が苦労するだけだ。

子を愛する母親でも良い。
母にとっては子の喜びが自分の喜び、子の苦しみが自分の苦しみである。そこに自己と他者との壁はない。したがって、「自己と他者との対立」という前提がない。だから自分の得になるとか、損になるとか、そういった考えも起こりえないのである。子をまるで自分と同じように、ときには自分よりも大切にする。子の利益と自分の利益とは一つであるから、「損得計算」の入り込む余地は一切ないのだ。つまり自己と他者とが対立していないとき、
「損得計算」だとか、「相手のために頑張りすぎ」という論理は不可能なのである。
もちろん報酬やお金なんかの面からは自己と他者との対立は事実としてありうるが、それは物事の一面に過ぎない。
本当は対立なんかしていないのに、対立しているのだと身体と頭に染みついてしまってはいないか。

自己と他者との間に壁を設けない人の豊かな世界。

さて、もし自己と他者とを対立していると考えさせる「自他の間の壁」がなかったら、どうなるか。
目の前の人の喜びが自分の喜びになる目の前の人の苦しみが、自分の苦しみになる目の前の人のこころを護ることが、自分のこころを護ることと同じになる。目の前の人は自分と変わらないのだから、自分が苦労して相手を喜ばすことは、決して自分の損ではない。自分の喜びを増すための努力と変わりない。

このような人にとっては、全人類の利益が、自分の利益と同じである。目の前のどんな人の苦しみであっても、自分の苦しみと同じようにつらい。目の前のどんな人の喜びも、自分の喜びである。仏陀の愛に至っては、禽獣虫魚にまで至った。

自己と他者との間に壁を築かない人の生はどれだけ豊かだろうか。いつでもどこでも、「自分」を相手にしているのである。どこにいっても「自分と同じ喜び、苦しみ」がある。その「自分のために」頑張る力が自然と湧いてくるのだ。すべての人が自分と同じくらい大切で、幸せにしたいとなれば、やるべきことは無限にある。やりたいことが無限にある。生きる喜びも自分ひとりだけにとどまらない。たくさんの人の喜びを味わうことができる。喜びが無限倍になる。
たとえ私一人が不幸であっても、代わりに誰かが喜ぶのなら、世界全部が不幸なわけではない。他者と協力して、他者と一緒に、「自分たち」の幸福を目指す「他人と協力することによってますます実現するところの自己」である

その一方で、自己に閉じこもった人の生はどれだけ空疎でちっぽけか。「たった一人のこの自分のために生きる」方がかえって生きがいが感じられないのではないか。喜びは私一人のものだけ。私一人が、この思い通りにならない現実でいつでも幸福であり続けることなんて絶対にありえない。自分の幸不幸だけにとらわれ、他者の幸福も喜べず、自分の不幸を嘆くことしかできないことは、貧しい生ではないだろうか。
自分の幸不幸だけにこだわって、その行く末におびえ続ける生である。

あのお釈迦様だって自分が悟ると、悟りを備えることのあまりの難しさに、他の人に伝えようというやる気がきなくなってしまった。それに対して梵天が仏陀に世界中の人々の様子を見せ、仏陀も「よし、やるべ!」と立ち上がった。(ちょっと乱暴だけれど『サンユッタ・ニカーヤ』から)世界に自分ひとりぽっちだったら、何のやる気もでない。むしろ絶望だ。

ぼくもこの憂き世、憂き身で、もし魂を持った人間としてはひとりぽっちなのだとしたら、早々にこの世界とおさらばするかもしれない。けれどもきっと、自分と同じようなことで悩んでいる人がいて、その人のためになにかができるかもしれないから、生きようとも思える。

補足
本記事では、「損得計算」の論理は一つの前提に立ったものに過ぎず、別の見方をすれば「損得計算」は成り立たないことについて考えた。
「自己と他者とがいかにして一体であるか、なぜ他者との間の壁は錯覚に過ぎないのか」
これらの巨大な問いについてはまた別の記事で中心的に扱いたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。