闇の底から昇る

 罪は、時として悪を為さしめる。
 取り返しのつかぬ罪、それによって損なわれた人間、消えない記憶
 卑小な自己を守ることばかり考えて、目の前の兄弟の痛みにも気づず
 自分の領域を明確に区切り、己の利得のみを考えている自己を背後に感じる

 ふと嫌気がさしたか、順風に紛れ混んだ我意の暴発か、
 犯した悪が、有無を言わさず私の罪を明るみに出す。
 しばらくは見えていなかった、見る必要もなかった私の罪が、私の内に根を張る闇が、いや、私が生まれ出てきたところの深淵、私の母がささやく。お前は罪の子だ。
 私の内の罪の子は、罪を遠くから呼び求め、誘い、近づいてきて、悪と成るのを喜んでいた。
 共犯者の快楽をもって、私自身もそれを喜び、密かに、楽しんでさえいた。
 そのことを私は知っている。私は見ていた。いつでも、すべてを見ていた。

 また私は知っている。私の内の闇は決して晴れぬことを。
 私の意識の底を抜けて、私の深淵は闇そのものである。そこに善悪はなく、混沌の闇の頭上をおぼろげにたゆたうのが私の意識。私の自我。深淵から這い出してきた闇の前に、為す術もなく私は私を裏切り狂喜する。
 私は私の罪を避けることはできないし、私の悪を逃れることはできない。決してできない。
 深淵を見つめれば、深淵に呑まれる。しかし深淵は決して私を呑み込みはしない。闇は私を吐き出す。私は闇にさえなれない。みじめな私は死を願うことすら叶わない。自我は永続を主張し、より大いなる意志を望む。
 悪にもなり切れない私は、善悪の彼岸に打ち寄せられ、見棄てられ、ずぶ濡れのまま動けずにいる。

罪はこれを見留めざるべからず。されども、これを見つむべからず。

『現代日本思想体系5,内村鑑三』(亀井勝一郎編)1963年初版.p.380,「罪の処分」)

 だからただ認めようとする。自分の罪を確認する。
 悪が成る度に、自分の内の深淵を、自分の根を確かめる。罪の子たる己を認める。
 自分は決して光の子にはなれない。私はどこまでも闇の子である。爪の間にこびりついた血はとれない。
 すべてに穢れた手で触れる。そのことを忘れてはいけない。それでも忘れる。
 何度でも何度でも、影にそむけた顔では笑って、同じ悪を為すとわかっている。
 折り重なって中和され、薄れゆく罪にまどろむ私は、目醒めようとはせず、より大きな悪を呼び求める。

彼等はいとたかき神をこころみ之にそむきてそのもろもろの證詞(あかし)をまもらず
叛(そむ)きしりぞきてその列祖の如く眞實(しんじつ)をうしなひ
くるへる弓のごとくひるがへりて逸ゆけり

詩篇78:56

狂へる弓、狂った私が何を考え行おうと、逸れゆくさだめ
問題は、私の罪ではない、私が狂っていることではない。
狂った弓に任せている私である。
神に私を明け渡さぬ私である。
射線の背後にあるのは私の欲望。偽装され隠された、私の悪意。

「主よ、私はだれなのでしょう。
私の名をおおしえください。
そして主よあなたは、どなたなのでいらっしゃいますか」

「私の娘よ、おまえは、在らぬところのものであり、私は在るところのものである。」

「シエナの聖女」須賀敦子全集第8巻所収

私は在らぬところのもの。
私の罪が、悪が問題なのではない。私の存在そのものが空なのである。

空の空 空の空なる哉
すべて空なり
日の下に人の労して為すところの諸々の働きは
その身に何の益かあらん
世は去り世は来たる
地はとこしなへに保つなり

コヘレト書1:2

罪の子らが一体何を為し得よう。
世は去り世は来たる。我々も来たりまた去ってゆく。
世代から世代、時代から時代へ、めぐりにめぐりて行き、またそのめぐるところへと帰る。

問題はその私が、我欲を核に世界を秩序づけようとすることである。
私の中心を、神に明け渡さねばならない。主を主とせねばならない。

問題はただお前自身の我意なのである。
お前がそのことを認めようと認めまいと、お前自身の我意からでなくては、お前の中に不調和などというものは決して起ることはないのである。
ひとは考える、
「人間は斯く斯くの事物から逃れ、斯く斯くの事物を求めなければならない」と。
そしてその事物とはすなわち場所であったり、人間であったり、方法であったり、思想であったり、あるいはまた職業であったりするのである。
しかし、そうした事物方法がお前を妨げるというとき、その罪はそれらのものにあるのではない!
むしろお前を妨げるのは、それらのものの中に存在するお前自身なのである。
それらのものの中においてお前がお前自身を正常でないやり方で執持しているということ、そのことに原因があるのである。
それ故にまずお前自身からはじめ、お前自身を棄てなければならない。

『神の慰めの書』M・エックハルト(相原信作訳)p.20「教導説話より」,講談社学術文庫)

空なる罪の子が、己の空なることを忘れ我欲に奔走する。
全ては消え去り、風を追い求めるに等しいというのに。
一切の不調和の根には、己の分を弁えぬ、無常なる自意識への執着にある。
我意を棄て、世界を支配せずんば止まぬ自意識を離れ、
「在るところのもの」たる神(仏法)に随順し帰一せねばならない。

一切の衆生は大法身より生産せられたる者なれば終局に於いてまた一大法身の本覚に帰着すべきが真理と見ざるを得ぬ。(中略)
人はもと神より享けたる神性を有して居るから神の聖意に随順し神の真理にかなうときは神の国に入り神と共に在ることが出来るとのことなのである。
更に言い換うれば人はもと真如から出た物で在る。
然るに真如に背きて居るから迷いの凡夫である。もし迷いを翻して真如と一致する時は即ち仏であると。
仏教の宗致は本来宇宙大法の本源なる真如から迷出したる衆生をしてもとの真如の都に帰趣せしむるのが目的である。(中略)
そこで宇宙の大法の権化として人仏釈尊がこの世に出世なされたのである。

『人生の帰趣』山崎弁栄p.21-,岩波文庫

始めから終わりまで、自己を離れることである。
「信仰より出でて信仰に進ましむ」(ローマ書)
主を主とすることであり、自己を明け渡しつづけることであり、すべてを御心とし、「汝の言葉の如く、我に成れかし」と膝を屈することである。

他ならぬこの自己をこそ、問わねばならない。
自己の罪をみとめ、自己の無力を骨までしゃぶりつくさねばならない。

霊魂の中に秘密の小部屋をつくりなさい。
小部屋の準備がととのったなら、そこに入って、おはじめなさい。
自己の探求を、ひいては、神の探求を。(中略)


カタリナは、どのような時でも、根本においては、いつも、この態度をみださなかった。
そして、これが、彼女の生涯の、そして、多くの聖人の生涯の秘密なのである。

「シエナの聖女」須賀敦子全集第8巻所収

我が内の闇に主を招き入れる。闇を主によって照らして頂く。
私が闇を照らすのではない。私の闇の内にまで主に入ってきてもらうのである。

魂が純粋無雑な光のうちに入り来るとき、魂は魂の無に転滅する。
その際無のうちにおいて魂は、魂自身の力によっては再びその被造的存在に引き返すことが不可能なほどに自らの被造的存在から遠く離れ去る。
そして、それほどの魂の無を神が神の非被造性をもって底から支え、そのようにして魂を神の存在のうちに保ち給うのである。
即ち、魂は無になり切って、自分自身によっては再び自分自身に帰り来ることは出来ない、それほどまでに魂が自分自身から遠く脱離したとき、そこではじめて神が魂を底から支え給うのである。

『エックハルト』講談社学術文庫,上田閑照編,「説教2 魂は神の住居」

 私が私を離れる。私の被造性を離れる。私が私で在ることをやめる。
「在らぬところのもの」になる。

そのとき、私の底が、私の被造性が底抜けて、神の根底がむき出しになる。
私は私の被造性から、私を造りし神につながり、神が我が魂を底から支え給うていることを知る。

純粋無雑な光をあてる、私の底のすべてを含めて、神の目に晒す。
私の底の底まで、照らして頂く。そのとき私の魂は魂の無に転滅する。
「在らぬところのもの」を支える「在るところのもの」
「在らぬところのもの」が、己の被造性を徹底し真に「在らぬところのもの」と化すにより、「在るところのもの」に存在せしめられている我を知る。魂の無に転滅し、その無の底に居給う神に出会う。
無からすべてを造った神を知る。
私はこの世のすべてが、混沌を肚にもつ私をも含め、すべてが、神によって無から呼び出され、与えられたものだと知る。
すべては与えられたものであると知る。
賛美すべきものであることを知る。
裏切り、悲しみ、別れ、醜さ、それぞれ何を意味するのかはわからない。
しかし、神が無より呼び出されたものであることだけはわかる。そう信じる以外にないことはわかる。それ以外に私が立つ道はないということも。
神から与えられたものに、ただ耐え抜いて生きてゆく
神が私を打ち倒し、もと来たところの灰へ返すまで、生きねばならない。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。