近況。小説執筆への執着に気づく。

2022年1月、流行り病にかかり、10日間の自宅待機を余儀なくされた。
高熱と職場の対応の嵐を乗り切って、突然に空いた空白の時間、部屋からも出られない。
種々の不安が渦巻くさなか、並木浩一の『ヨブ記注釈』を読み、旧約聖書も『創世記』から改めて読み直す。カール・バルトの『ローマ書講解』を読み、富岡幸一郎の『使徒的人間ーカール・バルト』を読み、神と人間の断絶、そしてその関わりについて考える。

人間は悩み、嘘をついて人を騙し、傷つける。不安は尽きず、すべてを無に帰す死が迫る。
欲を追い、人より少しでも得をすれば良い気になる。「自分はこんなに頑張っているのに!」と他者を妬み、我が身を省みずに不平をこぼす。疲れてヤケになって、感覚的な快楽を貪っても満たされない。なんとくだらない日々。
傲慢と欲望と嫉妬と裏切り。満たされない心身に積もり積もってゆくルサンチマン。
「でも俺は間違っちゃいなかった」と、
自分を慰撫する声を背中に聞きながら、最期にはくたばってゆく。なんと下らない人生か。
結局俺は、自分で自分を慰めているだけなのだ。
「お前は間違ってない、これが最善なんだよ、これがお前の幸福なんだよ。こうするしかなかったんだよ」
少しでも疑いなくそう口にするためだけに、生きている。
自分で自分をむなしく慰めること、この反復がぼくの人生の全てではないか。

ぼくにとって小説を書こうとすることは、この自己慰撫の根源であった。
「いつか小説を書いた時に役に立つんじゃないか。我が血肉として、小説に込めることができるのではないか。」そう思えば身に起こる全てを肯定し得る。負けているようで、実は負けてなんかいない。
小説執筆を特権的な目的とすることで、自分のさまざまな行為を正当化できる。
「小説のためになるのなら…」そこに自愛が紛れ込む。芸術・小説の名のもとに、自分のわがままを正当化する。誰のためにもならないことに。
社会的・世間的には全く顧みられない今の自分。しかし、実は小説を構想し、書き、経験を積むことによって少しずつ種に水をやっている。
いつかそれは小説として世に現れ、自分の才能は、努力は認められ、自分はそんじょそこらのごまんという俗物どもとは違うことが、鮮やかに、謙虚に、事実として証明される。逆転である。
ぼくは何も主張する必要はない。ぼくの小説が事実だからだ。
ぼくは非常にスマートに、何も語らないままに、ぼくによって生み出された小説によって、ただものではない人物として、この世に姿を示すことができる。そんな期待が。
心の蓋が少しめくれて見えた、ぼくが必死で送っている生活のくだらなさ。

人は二人の主に兼ね仕えること能わず。神か、富か。神の国か、この世か。
どんなに外面で取り繕っても、自分で自分に言い聞かせても、この世のものに乾き、慕い求めているだけの自分。
ああ我悩める人なるかな、この死の身体より我を救わん者は誰ぞ。我らの主イエス・キリストに頼りて神に感謝す。(ローマ書7章)

全ては自分を頼ることによる。
自分で何かを考え、行おうとするから、間違える。

叛(そむ)きしりぞきてその列祖の如く眞實(しんじつ)をうしなひ
くるへる弓のごとくひるがへりて逸ゆけり

詩篇78:56

狂える弓が何をしようと、周りを害するのみである。
必要なのは黙して自分を棄てることである。主に委ねることである。最大の財産である自分の意志をこそ棄てることである。精神的な財宝、我が物として疑いもしないものを、棄てることである。
何もしないでいることは、この世の奴隷にならないことでもある。
この世はあらゆる手段を用いて私を唆し、焦らせ、この世に仕えさせようとする。

我々を奴隷化するものは他にも待ち伏せている。これからもまた逃れなければならない。ここで求められているのはもっと内面の剥奪であって、それは精神的な財宝を捨てることである。
ああ、我々にとってなんと辛いことであろう!
神はアブラハムに、彼の肉からの肉である独り息子を屠るという、恐るべき犠牲を求められた。
我々が自分の最も深い考えや意志の上に剣を振りかざすなければならない時、これに似た燔祭が求められるのである。我々はこれらの精神的財宝になかなかの誇りを抱いているからである。
構うものか!道を進みたければそれらを棄てなければならない。
ヨハネは福音書の表現を借りてこう宣言する。
「行ってあなたの意思を売り貧しい人に施せ」また続いて、
「すべて自分の考えを絶て!」
であるから、神のもとに行くには知性と意志を全く清め、いわば自分の思考や感情を空にしなければならない。(中略)
「自分自身の何らかの光を頼みにしようとする人は、却ってますます盲目となり、一致の道に停滞するであろう。」(中略)
「完徳は人が自分で認める徳にあるのではなく、主が霊魂のうちにごらんになるものにあるのであって、それは封印された手紙である」

『愛と無ー十字架の聖ヨハネを読むためにー』聖マリアのフランシスコO.C.D(西宮カルメル会訳)1994年、聖母の騎士社

主が私に求めているものと、肉なる自分(この世)が私に求めているものとを、はっきりと区別しなければならない。
否、その区別さえ困難であるところに、癒やし難き我が罪はある。
困難な歩みである。時々刻々に試みられている。識別を続け、主人の帰りをいつでも待っているしもべでなくてはならない。
貸し与えられたタラントを活かそうなどとは、ゆめゆめ、思わぬことだ。
確かに私はそれを活かすべく、貸し与えられている。
しかし、一体何が私のタラントで、それをいかに用いるべきなのかは、私には判別できないのだ。
我が内に主が封印された手紙を抱えつつ、私はじっと耳を澄ませ、祈らなくてはならない。
行動することは容易い。沈黙し、祈り、待つことこそ、我がなすべきことである。

自分にとってのイサクが我が子ではなく、自分の誇る能力でしかないことは、恥ずべきことだ。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。