生きねば日誌①ホラー映画、刺激、生きている実感、運命、チャンドラー(8月27日)

生きねば日誌①2022年8月27日(土)

妻がコロナ陽性になり、ぼくも自宅待機期間が続いた。仕事の時間帯も休みも合わず、家庭の時間がほとんどなかったので、毎日一緒に散歩に行ったり、映画を見たりできた。『プラダを着た悪魔』『花束みたいな恋をした』『ソロモンの偽証』『この世界の片隅に(さらにいくつもの)』を観た。

妻はちょっとグロかったり、怖かったりするだけで夜眠れなくなってしまうので、中々一緒に見たいと思える映画は少ない。僕はホラーやスプラッター映画が大好きなのに、妻はピストルが出るだけでも厳しい様子。『天気の子』を映画館に観に行った時も、主人公がピストルを構えるところは目を開けられず、怖かったとのこと。

『ソロモンの偽証』も「怖いから後編は1人で見て、結末だけ教えて」と言われた。

妻は「ハラハラする映画は嫌だ」と言う。ぼくがホラー映画を見る理由は、ハラハラして、手に汗握って、生きている実感を得られるからだ。刺激を求めている。妻は刺激を求めない。妻にとって刺激は不快なのだろう。

何度も観たホラーは、『悪魔のいけにえ』『テキサスチェーンソービギニング』『呪怨』『the呪怨』『着信アリ2』『エクソシスト』『ジェイソンvsフレディ』だ。小学2年生くらいのとき、自宅に友達をたくさん呼んで『呪怨』上映会をやって「あいつは頭おかしい」と言われて喜んでいたことを思い出す。(当時のホラー体験はなんといってもps2のゲームSIRENだ。毎日兄弟でプレイした。)

ホラー・スプラッター映画を観た後は「あぁ、あんなバケモノがいない世界で、良かった」と思える。ぼくにとっては戦争映画よりもずっと、ホラー映画の化け物たちの方がリアルで、平和な日常の有り難さを感じさせてくれる。

こうなったらいっそホラーで話を進めてしまうが、大学生の頃のぼくは、本当に幽霊が見たかった。もし幽霊がいるのだとしたら、あの世とか、その他目に見えない世界のいろいろなことも、全くの妄想ではないということになるから、その希望に固執して肝試しに行きたがった。肝試しに行くと、本当に命の危険を感じることができた。家に帰って眠れずに、朝になっても、ドアの陰に幽霊を連れてきてはいないか、と本当に怖くって、そのときだけは魂が震えるような気持ちになれた。まだまだ生きていたいと思えた。楽しいと思えることがなかったぼくは、むしろ怖さによって、息詰まった生を更新してもらっていたのかもしれない。

『エクソシスト』を観てからは、エクソシズムの世界に興味をもった。『尼僧ヨアンナ』という小説がすごく良かった。また、当時は精神病理の本も好んで読んだ。シュレーバー、渡辺哲夫、ラカンなど。

自殺した人に関わる著作も好きだった『20才の原点』『ぼくは12才』『8本脚の蝶』、太宰治、殺人に関わる本も好んだ、『無知の涙』、コリンウィルソン、オウム真理教。

平凡な、日常的な世界を愛する人々に興味を持てなかった。刺激を求めていた。

生きることに楽しさを感じられない人は、楽しさの代わりにスリル・刺激を求める人も多いのではないか。

それは、大切にしたいこと、守りたいものがない、ということでもあると思う。だから、唯一大切に思える自分の命を賭け金にして揺らせて、生きがいを感じることができる。

そして、社会やこの世に背を向けた人たちは、それだけ強い欲求を持っていたわけで、それだけこの世に求めるものがあった訳で、だから彼らが求めようとしていたものに興味をもつのだ。しかしその彼らも、極端なことを求めることによって、「現実をリアルに感じたかった」だけかもしれずそうだとしたら、ぼくとぜんぜんちがわない、おなじかなしい人間なのだ。

書きたかった話じゃなくてこんな話になってしまった。きっと明日には忘れてしまうのでメモだけ残しておこう。

○映画、運命を乗り越えようとする映画と、運命を受け入れようとする映画があり、ぼくは後者が好きだ。理想をどこまでも追おうとするのではなく、ハードルを下げて、この現実の内で実現可能な形を模索する。それはぼくの生き方そのもので、仕事にも否応なく現れている。

○チャンドラー、ロンググッドバイが良かった。村上春樹の解説も秀逸。

自意識、思想、考えを語ることなしに、マーロウの視点から切り取られた世界、マーロウの言動によって、鮮やかに物語を進め、何かを語ること。

村上春樹も「新大陸」を発見した。こんな書き方があるのだと。それをひっさげ、日本文学を変えた。

小説の中で、主人公の言動を正当化したり、根拠づけたりする必要などない。それを「前提」として話を進めてしまえば良いのだ。種田夏芽の「思想」を語る必要はない。彼女の生活を、行動を綴って行けば良い。彼女を種々の物事と、人々と関わらせれば良い。相関性を重ねながら、物語を進めていくこと。「文学」に囚われないこと。

2 件のコメント

  • わたしは「怖い物」は、好きではありません。しかしつばささんの感覚は良くわかります。わたしの場合は「UFО」を見たいが強かったですね。人類をなんとかしたい。このままの文明の在り方では、滅んでしまう。と言う感じが強かったです。現在の世界の状況は「これで大丈夫なのか」と思わせるものですが、日々「わたしの神」を見るようにしています。キリスト教の神ではないので、『完全に個人の神』として信仰を持ち続けています。できれば「この位置から」ブッダをより正しく理解したいと考えています。滝沢克己に一番教えられましたが、しかしそれでも「不満はあります」。「わたしの信仰」を磨いて行きたいのです。今はそのように考えています。

    • 坂本達雄さま

      コメントありがとうございます。
      UFOですか、人類の文明への疑問とつながっているとは、面白いです!
      目の前の世界に疑問を感じるからこそ、
      神やホラーやUFOへ、目線を向けていくのでしょうね。
      「わたしの信仰」ぜひ、磨かれていってください…!
      海野つばさ 拝

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。