生きねば日誌②人生の不思議、ソーニャの瞳の恐ろしさ

2022年8月29日(月)

人生は不思議なものだ。

生きていくということがあれだけわからなかった自分が、いつの間にか家庭を持ち、正社員になって毎日働き、仕事のこと(教育現場なので、子どものことで良いのだが)ばかり考えている。

江ノ島や熱海の海辺に腰掛け、ウイスキーをちびちび飲みながら、もうどこにも行きたくないなぁ、帰りたくないなぁと涙目になっていた自分と、今の自分、全く変わってしまったようで、実は変わっていないようにも思える。わからない。

別に全てを捨ててしまうこともできる気もする。でも、全てを捨てて1人になったところで、そこにも何もないことを知っている。「全てを棄てる」ほど、「全てを失う事」に価値はないとも思う。

宇宙が後ろからぼくを凝っと見つめているような孤独は、どこで何をして誰と関わっていても、後ろにぴったりと釘付けにされている。

「意義を感じられる」仕事や生活を心がけて、それなりに方向づけてきた人生だ。それでも「意義」なんぞは下らない。ぼくが今ここで世界を存在させていることに浸る、20億光年の孤独に浸ること以外は、全ておまけの小休止に過ぎないとも言いたくなる。

自分自身と関わることは、私自身の宇宙と関わることではないか。

いわゆる聖人たちは、近づき難い存在と思える。自分以外の誰か=隣人、と関わることと、私自身の宇宙と関わることの間には、絶対的な次元の違いがある。例えばソーニャは、ラスコーリニコフの感情を超えて、ラスコーリニコフの真奥の人間性と関わり合っている。だから、自首を徹底的に突きつける。そのとき、ラスコーの自我を飛び越えて、自我の底にある魂だけを見つめている。このときソーニャ、ラスコーの魂と向き合うことによって、「ソーニャ自身の宇宙としてのラスコー」と関わっているように思える。

大事なのは「ラスコーの心や将来」ではない。「神の前に一個の被造物たるラスコーリニコフ」と、ソーニャは関わっているのだ。このラスコーは、「神に歯向かうラスコーリニコフ自身」とは違う次元にいるラスコーリニコフであり、彼の我意はそれを知らない。ソーニャにとっては、「ラスコーリニコフもマルメラードフも、みんなみんな、被造物として存在している」これがソーニャ自身の宇宙であり、彼女自身の宇宙にいるラスコーリニコフと関わっているとは、この「被造物としてのラスコーリニコフ」と関わることだ。

そして、「このソーニャの世界のラスコーリニコフ」は、「原型としてのラスコーリニコフ」を素材としている。同じ「原型としてのラスコーリニコフ」は、ラスコーリニコフ自身にとっては、「神に歯向かう存在としてのラスコーリニコフ」として現れている。

「物自体」のように、「原型としての本質」があり、、、なんて言うとショボい現象学みたいになってしまうが。

この辺りのことは、今城むつみの『ドストエフスキー』を先日ぱらぱら再読してから、ぐるぐる考えている。

ソーニャの慈悲深く見える眼差しの奥には、ラスコーリニコフを「殺す」恐ろしい可能性が秘めれらている、という話だ。聖書に描かれた「イエスという現実」も同様に、あなたから「幸せ・心の平穏」を奪ってしまう、永遠に。あなたの今の生活をぶち壊す。あなたの偽善と、プライドと、律法主義を暴き出し、回心を要求する。

聖人たちの人生も同様だ。彼らがいま、自分の目の前に、この自分が生きている町に、職場に、生きていることを想像してみる。すると彼らの存在は、私の肌を切り付けてやまない。私は彼らを迫害せざるを得ない。十字架につけずにはいられない。自分自身を守るために。自分の魂が殺される前に、彼らを殺さずにはいられない。

彼らは、思想以前のところで、その存在自体が、私の存在を根っこからぎりぎりと締め付ける。殺人者が殺した遺体の瞳を閉じるように、彼らの瞳は恐ろしい。「お前はそれで良いのか?」との「問い」よりもさらに厳しく、彼らは私の存在を一笑に付す。彼らはぼくを笑い飛ばし、さっさと通り過ぎて隣人のもとへ歩き去る。ぼくは黙って立ち尽くし、彼らが通り過ぎるのを待っている。もし万が一、彼らがぼくを振り返り、口を開きかけたら、、、。ぼくは黙って殺されることができるのか、相手が言葉を発する前に、彼の息の根を止めざるをえないのではないか。

1 個のコメント

  • 神が我々に「本質」を与えているのか、疑問です。それは「この宇宙に本質を与えているのか」、と同じ問いです。わたしは今神はそのようなものは与えていないのではないかと感じています。神はこの世界そのものであり、この世界にあるものすべてから、神自身の「ある」を認知しているのではないかと考えています。そのような神の「行為」は「ナルシス的」行為ではないかと考えています。それは実に「神ゆえの神の行為」です。そこに溢れている「愛」は「神が神自身を愛する行為」だと言えます。人間はそのような神の前に立った時には、どのようなものであれば良いのでしょうか。神が我々に求めているのは、果たしてどのような「生き方」だと言えるのでしょうか。問いは、そして疑問は絶えることなく続きます。

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。