「生きる意味探し」はこの世界と自分の人生を引き受ける過程。メモ

文章を練る時間と余裕がなく、メモ程度の記事で申し訳ないですが、参考になれば嬉しいです。

▼・多くの人は楽しいこともあり、はじめからそれなりに人生・自分・現実を肯定し、
「なぜ生きるの?」と問うほど自分自身の現実と乖離していない
・「この人生、まぁ生きてける」と思えているならば、生きる意味の問いは必要がない。
「現実を生きる」ことに夢中ならば、理由などいらないからである。
やりたいこと、やるべきこと、生活、仕事に打ち込んでいるだけで生きられる。必死に生きている時、理由を問う余裕などないだろう。

▼・「なぜ生きる?生きなくちゃ?」は、「この自分・現実・人生に納得がいっていない。いやだ」ということの表現である。
・「生きる意味探し」とは、自分自身の人生・現実を肯定し、引き受けていくことを「どのように納得するかという問い」とも捉えられる。
納得の純度も、納得の仕方も千差万別である。そこに貴賎はない。
一人一人にそれぞれの過去があり、状況がある。

▼「生きる意味の探究」は、「この現実・人生を肯定するまでの旅」である。
 ゴールは「生きねば…」である。「それでも、私は生きよう」ということである。
「生きる意味」はわからなくとも、「生きねば…」との姿勢は可能である。
・「生きねば」は自然に溢れ出る気分である。
 だから、「永遠に解決がいった」ということはなく、上がり下がりの波がある。
 「やっぱりこんな人生・現実生きたくない」と思う時も訪れるだろう。

▼「生きねば」を、他人に押し付けることはできない。なぜなら「なぜ、どれだけ自分自身の人生・現実が嫌か」は本人にしかわからないからである。
「生きねば」と口に出す時に背負っている重さは、絶対に自分自身にしかわからない。
 つらい状況であれば、それだけ「生きねば」は大変である。
 そのつらい自分の運命を肯定し、引き受けなければならないからである。そこには全くの不公平、不条理がある。

2 件のコメント

  • 今回のばさばささんの声には、力がこもっていたと感じました。どこまでも人間の精神の「初発」から見つめつづけようとする姿勢には、浮かれないように自己を正視しようとする精神の立ち位置を感じます。わたしは現在も「詩を書く」と言う場所から世界を見続けています。いくつかの場所で書いていますが、人間の精神の「ゆれ」がネットの中で絡み合いつつ、ほぐれと、ねじれと、共感と、不信が日々流れつつ、消えて行くのを感じています。そうした「現象界」のまさに地上の意識の世界は、おそらくは神自身の世界であり、この「ゆれる世界」を神のものではないとする思想は、どこまでも「生きる我々」を仮想とするものだと考えています。どのように世界が危険であり、危なっかしいバランスの上に、ゆらゆらとしているように見えたとしても、それは人間の心の見る世界であり、神がその愛情で見つめる世界の本質ではないのだと思います。「世界がある」の中に、神の絶対的存在の愛が隠れているのだと思います。そうであればこそ、ひずみ、ゆがみ、くいちがい、にくしみも世界のリアルとして「現象している」のだと考えます。決してわたしの視点が「すべてをおおいつくす」ことはないのです。そのことは神との距離であるとともに、その距離が「神を愛する」と言うわたしの心の自由を生み出しているのだと考えます。

    • いつもコメントありがとうございます。
      お褒めの言葉をいただき嬉しいです。このブログの記事は「書かなきゃ!」という衝動でいつも書いており、「気づけばいつも同じことをばかり書いているな」、と感じます。
      「浮かれないように」という面ももちろんありますが、僕自身がとても執着しているテーマなのだと思います。
      今回は、自分の人生を振り返っていたタイミングで、「改めて考えると、こうだよな」と思って書きました。

      現象界の話、坂本さんらしい、非常に強い現実肯定の視点だなと感じました。坂本さんのおっしゃっていることは、僕にはまだ半分もわかっていないと思っています。僕にはまだ、そこまで現実を肯定できていないところがあるなと感じています。
      いつか腑に落ちて、これまで頂いたコメントの意味するところにも触れられるのではないかと、自分に期待しています。いつか、電話や直接会って、坂本さんの考えておられるところをガッツリお聞きしてみたいとも勝手に思っています。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。