人はなぜ宗教を求めるのか④神さま!カミサマ!俺にはどうにもなんねぇ!助けてけろ!

矛盾する想いを混在させるカオスとしての人間が、永遠絶対の神によりたのむこと

人はなぜ宗教を求めるのか。第四弾です。
今回は、矛盾もするし心も変わる、なんの足場も、枕するところもない人間が、永遠不変の神を求めていく道すじを描いてみます。
人間だけ(自分だけ)を判断主体とした人間は、宙ぶらりんで気分も変わる、どうしようもない存在であることの自覚から、神を求めるという話です。
ニーチェならばこの宙ぶらりんの気まぐれさをも愛せ!と言うのかもしれません。それも一つの立派な道ですが、ぼくの道ではないなと思います。)

自分も他人も傷つける、人間の気まぐれと矛盾のカオス

さて突然ですが、神は人間ではありません。相対的で、滅びゆく人間を超えた、絶対的で永遠の存在です。

人の心は変わりますし、いくらでも過ちを犯します。しかし神は不変です。決して過ちを犯すことはなく、絶対に正しい存在です。
「神をなぜ求めるのか」は、「目に見える相対の世界を越えて、なぜ見えない絶対的なるものを求めるのか」という問いとほとんど重なると僕は思います。人間がなぜ神(宗教)を求めるのかと言えば、絶対を求めるからです。決して変わることのない絶対的なものにすがることで、どんな環境・運命にも決して揺らがぬ安心を得たいのです。

私は果たしてこれまでなんど、自分では正しいと思って行動し、人を傷つけてきたことでしょう。自分を痛みつけてきたことでしょう。あとから冷静に振り返って、何度悔いてきたことでしょう。「世のため人のため」といって、実は自己愛から行為していたことに何度恥ずかしくなったことでしょう。何度反省し、何度決心し、何度挫折し、何度絶望に叩き落とされてきたことでしょう。
もうこんなことは繰り返したくない。自分で自分を苦しめたくないし、他の人を傷つけたくない。ぼくにとって宗教の現実的な源泉はここにあります。
じゃあ人はなんで迷うのだろうか、それがわかれば解決の糸口をつかめます。しかしここで、「そもそも迷いとは何か」という問いが出てきます。「迷い」といっても、人によっては直接に見ることも、触れることもできない神を信じる事自体を「迷い」であると断罪するでしょうし、目に見える俗界にとらわれてイデアを観ようとしないことを「迷い」とするでしょう。人によって「迷い」をどう捉えるかは様々です。

ぼくにとっての「迷い」とは、「目に見える相対の世界に迷っている人間の在り方そのもの」と言えます。ぼくはこの目に見える世界のなかで、「一体何が正しいのか、自分は何をして生きていくかべきか」と考え、その考えに基づいて日々行動しようとします。(この時点であまりに「律儀すぎる」生き方をしていると捉える人もいるでしょう)
しかしこの「何が正しいのか」というのが諸悪の根源であります。なぜかと言えば、相対的存在である人間は時と場合とによって、そのつど「何が正しいか」が変わるのです。気まぐれ、気分です。「正しいこと」なんて、そのときの気分で変わってしまう、それがぼくにとっての紛れもない実感です。認めざるをえない現実です。

あるときは権力と富とを離れた「崇高な」理想に自らを殉じようと真剣に語り、またあるときは、それなりの富とそれを維持する権力は必要だと考え、奸計を巡らせます。。いや、それどころか、人が「私は~を目指して生きている」と思っているときが一番信じられません。意識できない領域、自分でも気づかないところでは、あらゆる矛盾する想いを混在させています。「私は~と思っている」そう「そう思い込んでいる」ときが危険です。矛盾する想いを、影になって見えないところに押し込めて、見えないふりをしているのです。人間はまさにカオスです。その人間が、「これが正しい」と思い行為すれば、当然過ちを犯します。

こいつは、どうにもしようがありません。希望がない、絶望です。
それじゃあ「何が正しいか」なんてクソ食らえ、どうでもいいんじゃいと思って、蹴っ飛ばしてやります。あぁセイセイした、そもそも正しさを求めるのなんて西洋人の狂気だ!俺は日本人だい、ケイジジョウガクなんて糞の役にも立たねぇよい。ガイジンさまに任せておけやい。

そう言って、1週間後には、
「いや、正しさこそ人間が目指す唯一のものだ」と、相対的世界の生のむなしさに耐えられなくなって舞い戻ります。
「ぼくは永遠を希求する!」なんて多い威張りです。すべてが流れ去っていくこの世において、自分を踏みとどまらせ位置付けさせる「永遠絶対なる理想」は不可欠なのだと、鼻息を荒くします。
かといって、自分が何か変わったわけではない。人間はカオスのまま、渦巻く混沌がときたま表に吹き出して、大言壮語を吐くだけです。正義に尽くし善行に殉じたい、でもでも女も称賛も欲しい、喉から手が出るほど欲しい、正しさと賞賛と女と、すべてが欲しい。全人類から認められなくたってよい、本当に「優れた、わかってるやつ」だけにで良いから、認められたり褒められたい。

あぁ、冷静な目で自分を見てみれば、結局自分ははこうした混沌のどこか一点に座を占めているだけです。あらゆる詭弁や正当化を跳ね飛ばして、一番シンプルな内実を覗いてみれば、たったそれだけ。富・権力・女・賞賛…etc。

どれだけ難しい本、素晴らしい本を読み、知識を持っていたとしても、こんなどうしようもない、心底くだらないものを求めているのが、人間だと、ぼくは思います。
なんだかおしゃれで小奇麗な身なりをして、高尚なことを語っていても、一皮むけばどうしようもないグズばかり。そして一番どうにもならないグズは、一番近いところ、いまここにいる自分、他者を批判し得意になりかけている、この私なのです。醜さを明らかにすることにおいて破滅的な自己陶酔を感じることすらできてしまう自分、いや、いくら背後に回り込んだって、意味のないことです。ただ一言、腐りきったクズ人間、これでやめにしましょう。

あぁ!あぁ!神サマ!神さま!俺を助けてくれろーーい!もうどうにもならねぇんだ!俺は俺であることが嫌なんだ!どこをひっくり返してみても、真っ黒なんだ!

神を求める最初の一声は、こんなみじめで、恥ずかしい声音だと思います。人間、本気であれば本気であるほど、みじめでどうしようもなく情けない。普段仮面をかぶっていればいるほど、隠したいものがあるのです。振られた相手に「考え直してくれ」としがみつくとき、振った相手に「やっぱりごめん」と舞い戻るときのみじめさを想像するだけで良いでしょう。

神さまだョ!!全員集合

さて、「相対の世界で迷っている人間の在り方そのもの」が迷いであると言いました。人間は「根本的に間違い」です。だから、人間が自分の頭で考えて、選んで、行動したことは、すべてどうしようもない。お馬鹿さんが自信を持って「正しい」と叫んで行動すれば、何が起こるかは明白です。

ここで神さまの出番なのです。
自分の意志ではなく、神の意志に沿って、いわゆる「み旨」を果たすという生き方です。生きる主体を、「相対的で愚かな自分」から「絶対不変の神」に代えるのです。
もちろん問題がスッキリ解決するわけではありません。なぜなら、「自分の欲望を神のみ旨として絶対化してしまう」という人間がなしうる最悪の愚行がいつでもすぐわきにあるからです。これはほんとに恐ろしい、宗教の世界にある最悪の悲惨です。日本で起こった某事件を思い出せます。
しかし生き方として、「神を主体にする」という姿勢は、それだけで救いたり得ます。
この誤りに満ちた「自分」が自分で考えて生きるわけではない。絶対たる「神が私に求めること」を行うのです。生きる主体は「私」ではなく「神」です。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きたもうのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身をわたされた神の子への進行の中に生きている」(ガラティア人への手紙、2:20、バルバロ訳)。
人生の主役は誤りと罪そのものである「私」ではなく神であり、私は神のみ旨を果たす器として生きているに過ぎないという考え方です。
とにかく目標、姿勢、土台を経たのです。あとはどれだけ耳を澄まし、心を澄まして、「み旨」を見極め、自分のわがままを殺して「み旨」を我が身に行うか、これに尽くすだけになるのです。
何をしたら良いかわからない、どうしようもないとき、自分の愚かな頭であれこれ考えるよりもまず先に、神さまに祈り、相談し、悩みを打ち明けるのです。参考にすべきは、自分の感情でも納得でも利益でもなく、ただ神の考え、神の想いです。神は自分に何を求めていらっしゃるか、その一点だけです。

こうしたキリスト者としての生き方については、先人の著作を引用した方がずっと良いでしょう。『キリストにならう』(訳によっては『キリストにならいて』)より、神からの助言という仕方での言葉です。

あなたは、自分の望みをまったく私(すなわち神)の考えに一致させ、自負心を避け、それに代わり、み旨に沿おうという考えだけを養わなければならない。
しばしばあなたは、さまざまな望みに燃え立ち、それに押し流される。しかし、あなたが動かされるのは、私の光栄のためか、それとも自分の都合のためかを、よく注意しなさい。
もしあなたのおこないの目的が私にあるのなら、私がどう定めようとあなたはいつも満足するであろう。しかし、あなたの内に、自分自身の利益を計る心がひそんでいるなら、まさしくそれが、あなたをさまたげ、不安にするのである。
だから、あなたが私にはからずに定めた計画に執着するな。初めは気に入っていて最善のものとして望んだことを、後になって悔やみ、憤りを感じることのないようにするためである。実は、よいと思う心の動きにもすぐしたがってはならない。またその反対の場合でもすぐ避けるのはいけない。
よい決心と望みも、しばしば抑えなけれならない。思慮に欠けるために知恵が迷ってしまうことなく、統一性のない方針が他人のつまずきとなり、他人の反対があなたを不安におとしいれて倒してしまうことがないためである。[1]

ここには、誤りに満ちた人間の意志に対する警戒があります。自分の利益を追ってじぶんのわがままを押し通そうとすることで生まれる不安に対する注意があります。
人が自分の頭だけで、自分の利益を求めて計画し、行動しようとするとき、そこには不安と後悔と不幸が待っています。だから、自分の思いを「神」という絶対の存在との対話や関わり合いを通じて正し、修正しなければなりません。相対たる人間の考えも、絶対の視点を想定してそこから見返すことで、なんとか修正することが可能です。「神からしたら、なんてちっぽけなことで焦っていたんだろう」と気づくこともあると思います。
このとき「神」はキリスト教的な人格神でも良いですし、アジア的な「天」の非人格的な世界を貫く働きそのものであっても良いでしょう。
いずれにしても、「人間を越えたもの」から眼差してみることで、自分のエゴイズムは多少なりとも反省の機縁を得ることができます。人は自分だけにとどまって考えようとする限り、どこまでもわがままで、いつまでもぐらぐら揺れ動きます。
神とも天とも言わないまでも、せめて自分一人を超えた、周りの人々、共同体、世界、人類という広い視点から、自分の運命、日常を眼差し返してみたら、まったく違う世界が見えてきます。このあたりは、上田閑照の『実存と虚存-二重世界内存在』を読み解く記事を書いてみたいです。

信仰とは③思想ではなく、実践の積み重ねである。

2020年7月26日

キリスト教入門記[2]自由意志への信頼と内輪争いのしょぼさ

2019年3月16日

人はなぜ宗教を求めるのか③「私」は「人生の主役」か、「真理に仕える者」か。

2019年2月10日

西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

2019年2月1日

矛盾する欲望を乱立させる人間の悪(カラマーゾフ長男の叫びから)

2018年9月5日

 

[1]『キリストにならう』(バルバロ訳,ドン・ボスコ社,2001年改訂版,)第3巻11章「心の願望を調べ、またそれを抑えなければならない」より。(バルバロ訳が高い場合、池谷訳も良いです。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。