西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方様(安泰寺)「why(なぜ生きるか,生きる意味)を徹底してこそのhow(いかに生きるか)」

西田幾多郎の記事に、安泰寺のご住職、ネルケ無方さまからご感想のメールを頂きました。

西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

2019年2月1日
御本人からブログに転載しても構わないとの許可を頂きましたのでシェアさせていただきます。
ネルケ無方さんは、ドイツ生まれのご住職さんです。ネルケさんが任されている安泰寺は、檀家さんをとらずにお坊さんたちが自給自足で「一日不作、一日不食」(いちにち作さざれば、いちにち食らわず)を実践されている生粋の座禅道場で、諸外国の雲水の方がいらっしゃる道場として、禅に興味がある人は一度は耳にされたことがあるかもしれません。
安泰寺ホームページはこちらです(力強い記事がたくさんありますので、ブックマーク推奨です!ぼくのブログなんかより笑)
では次の項で、メールの本文をそのまま転載します。

安泰寺、ネルケ無方さまからの感想、本文⇩

永井均さんのツイッターアカウントでばさばささんのツイートを拝見し、ブログの「西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か」という記事にたどり着きました。

私が日頃考えている問題点と関係しているので、いい刺激になりました。ありがとうございます。

そこで、私の感想及び質問です。

「宗教」と「道徳」の違いは、非常にわかりやすく説明されています。道徳は自力を信じ、宗教は自らの力のなさを自覚することから出発する。道徳はこの世の中で、この自分がいかなる役目を演じ、いかに生きるべきかを問題にする。宗教は、世界や私のそもそもの存在根拠を問う。道徳の問題式がHow?なら、宗教ではWhy?という。

ところが、です・・・

私自身は若いころから、「なぜ生きる?」という問題ばかり考え続けてきました。16歳の時に坐禅と出会い、17歳の時にあるゼン・マスター(ドイツ人女性、もとはキリスト教の牧師)にこう言われました。

「禅ではWhy?と聞かない。Why?ではなく、How?だよ!

私にとって、これは晴天の霹靂でした。後ほどは現成公案の有名な鳥と魚の比喩に出会い、まさにそれまでの自分のことが言われている気がしました。「飛ぶ」や「泳ぐ」ことのWhy?ばかり問題にし、一度も飛ぼうとしなかった自分…

同じ正法眼蔵には「生死」の巻があります。

最後に近いところで、「わが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われ、力をも入れず、おころを費やさずして・・・」という有名なくだりがありますね。まさに、宗教の極秘です。禅と真宗の接点もここにあります。
ところが、そのあとに道元は「仏になるいとやすきみち」なるものを説いています。それはなんと、「悪いことをしないこと」「一切衆生をいつくしむこと」「上を敬い、下を憐れむ」など、世俗的な道徳にしか聞こえません!

なぜ、道元は宗教の極秘の後に、道徳の常識を付け加える必要を感じたのでしょうか? それは、宗教と無縁に生きていて、「身心脱落」など到底できないよう憐れむべき庶民のための、大いなる慈悲心からの「方便」でしょうか? 私には、そう思えません。詳しくは、最近
http://www.bdk.or.jp/read/muhou_prescription05.html

に書きましたが、両者には恋(宗教体験)と愛(他者に向けた実践)のような関係があると思います。

「宗教」と「道徳」は次元の違うベクトルのはもちろんですが、本当の宗教には「道徳」のとうな広がりが必要だと思いますし、道徳には「宗教」の深さが欲しいと思います。

ある日、講演の後の質疑応答の際、ある方から聞かれたことがあります。

「このどうしようもない私が、はたして仏になれるのだろうか」

真剣に思い悩んだ結果の問いのようでした。

私はこう答えました。

「あなたは自分のことを「どうしようもない」というが、その「どうしようもなさ」をなぜわかったのか?」

私の言いたかったことはつまり、自分をどうしようもないやつ、自力では到底仏になれない凡夫と「自覚」したときこそ、「覚」です。この「覚」をもたらせている力が、自分の中に働いていなければ、自分の「どうしようもない凡夫」として自覚できるわけがない… 「松影の くらきは月の 明かりかな」。

ところが、この話をすると、私の「その「どうしようもなさ」をなぜわかったのか?」という発言を、まったく違う仕方で理解する人が出てきます。つまり、こういう理解です:

「しようもないか、それともしようがあるか、それは努力してみないとわからない。『どうしようもない私』… この思いをもう一度疑ってみて、一歩前に踏み出す。仏にも菩薩にも慣れないかもしれないが、その方向に向かって歩むことくらい、できなくはないのだ!」

私がもともと言わんとしてことは宗教でしたが、それを道徳の戒めとして理解することもできます。そして私が思うのは、この両者はそんなに厳密に切り離さなくてもよいのではないか、ということです。自分の無力さを自覚し、その「覚」をもたらせている力へ自分を投げ出してこそ、そこで踏みとどまらないで、その「覚」の力に背中を抑えてもらいながら道徳(愛)への一歩を踏み出すこと…

私はこれころ本当の宗教だと思っています。

Why?には結局のところ、答えがないということに深くうなずいた時には、How?という新たな問題意識がわきます。How?を十分に発揮させるためには、Why?という底の知れない深さが必要です。

以上、私の雑な感想です。乗り継ぎの合間、飛行機の待合室で書いていることをお許しください。

互いに、より深く掘り下げるきっかけになれればと思い、これを送り付けておきます。

合掌

ネルケ無方

以上までが引用です。以下はばさばさのコメントです。

ネルケ無方さんからは、「宗教と倫理との連続性」についてのご指摘を頂きました。特に素晴らしいと思ったのは、以下です。
Why?には結局のところ、答えがないということに深くうなずいた時には、How?という新たな問題意識がわきます。
How?
を十分に発揮させるためには、Why?という底の知れない深さが必要です。」
なぜ私は生きるのか?なぜ人は人を愛するのか?なぜ私はこんなに醜いのか?…etc」これら「WHY」の問いは、人に世界の深淵を覗き込ませます。
「なぜ?なぜ?なぜ?」と問い続ける限り、人は一歩も前には進めません。すべては謎・謎・なぞ…謎に包まれて、世界も生も居心地が悪い。
しかし人は、その「わけのわからない」世界にいつの間にか投げ込まれていて、「わけもわからず」生きざるをえません。
「わけがわからなくとも」、食って寝るために稼ぎ、食べ、休み、生きなくてはなりません。現実は待ってくれず、自分の命も刻一刻と短くなっていきます。
「生きねば!」とは言っても、
「わけがわからないけど生きている。わけがわからないけど、少しでも善く生きねばならぬ!」というある種の「納得/悟り」にたどり着くには、
「なぜ?」を全力で掘り進み、掘り抜いて、この「なぜ?」という問いをぶち破らねばなりません。
そうして「なぜ?」の世界を突き抜けたとき、そこには「HOW(どう生きるか?)」の世界が待っています。新しい世界、新しい生に入ります。
「なぜ生きる?」(WHY
「わけはわからないが生きている」「生きねば!」
「この思い通りにならぬ現実の中で、自分はどう生き、何をするのか」(HOWというわけです。
ネルケさんの言葉にもある通り、「WHY」の問いを底知れぬ深さまで問い続け、その人なりに徹底的に「納得」しない限り、「HOW」(どう生きるか、過ごすか、暮らすか)という新しい問いは、切実には現れてきません。
「理由はよくわかんないんだけど、とにかく、生きるしかないんだよなぁ…いやだなぁ…」なんて、不承不承に思ったって、また何かの機会に「WHY?」の問いが復活してくるように思います。
「よくわからんけど、とりあえず人のために生きようか…」といった中途半端な「納得」じゃ、ちょっとした苦難に見舞われてさえ、
「はぁ!なんで人のために生きにゃならんのだ!くそくらえ!」となるわけです。
決して思い通りにはならない、不条理な現実のなかで「生きねば!」と強く想い続けるには、「WHY?」の問いと徹底的に戦い抜く修行期間が必要なのだと思います。

どんな苦難に見舞われようと「答えはわかってるのだ、この現実で自分ができることをやるしかないのだ」と踏ん張る力です。
(クリスチャンの方々にとっては、「神が世界を創造したから、すべては善なのだ!」ということを、本当に本当に骨身にわたって浸透させることなのでしょう。

「なぜこんなことが?(why)キリスト教の世界観自分の血肉とする」→人間には計り知れない神の叡智からすれば、この現実は善なのだ。「私はわたしのなすべきことをしよう(HOW)」という流れなのかなと思います。

以上、ぼくなりに倫理と宗教との連続性、というか、「WHYとHOWのつながり」を書いてみました。

人生記①大学生、哲学への挫折と絶望。普遍的真理なんてどうでも良かった。

2019年4月6日

人はなぜ宗教を求めるのか④神さま!カミサマ!俺にはどうにもなんねぇ!助けてけろ!

2019年3月9日

人はなぜ宗教を求めるのか②改善不能な自己への絶望

2018年12月20日

人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

2018年11月24日

坂口安吾の太宰治への異議―「暗黒面」でなく、生きる踏ん張り。

2018年8月9日

永井均ファンとしては、内山興正さんの著作も気になるところです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。