聖書黙想③私の宝はどこにあるか(マタイ福音書6章1-24節,二回目)

聖書本文

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6:1汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。
6:2さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。
6:3汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。 6:4是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。
6:5なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。
6:6なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。 6:7また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。 6:8さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。
6:9この故に汝らは斯く祈れ。
「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。
6:10御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。
6:11我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
6:12我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給へ。
6:13我らを嘗試に遇はせず、惡より救ひ出したまへ」6:14汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん。 6:15もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給はじ。
6:16なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。
6:17なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ。 6:18これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。
6:19なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。
6:20なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。 6:21なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし。
6:22身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。 6:23されど汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや。
6:24人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。

二回目

6:21なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし。」

私の宝は、心は、どこにあるか。
主よ、私が求める宝は、負い目なき富であるように思えます。自己の良心と、富との二兎を追う、紛うこと無き二心です。一番のぜいたくなのです。神と富とを二つながらに求めているのです。
主よ、私は主を、この世の富・評価に優先させねばなりません。
ぼくにとってそれは、小遣い程度のものなのですが、そんなちっぽけなこの世のものを、後生大事に抱えているところに、私の小心な卑しさが現れているような気もします。
富が無くとも、この世からの報いがなくとも、主の御心を行なうこと。

6:9この故に汝らは斯く祈れ。
天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。
6:10御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を」

主の祈りは御名の栄光をはじめに置いています。日用の糧よりも先に、です。私も御名の栄光のために働き、僕とならねば。

6:18これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。」

この世の罪びとたち、小さくされた、悩みくるしむ人たちは世からは隠れています。世からは目も向けられずに、暗やみへと追いやられています。
世にあって、世から価値を認められる人たちは、世人が自身の栄光を求めて、助けにも行くでしょう。
しかし、私たち神の僕らは、報いの有無に関わらず、隠れたところで苦しんでいる人びとのもとへ行き、兄弟となることを求められています。他ならぬ主イエスが示したようにです。
徴税人のマタイを見つめ、木の上に登った小さきザアカイに声をかけ、姦淫によって石打にされていた女をゆるしました。
私たちもならわねばなりません。主の後を追わねばなりません。それは、世からでなく、隠れたるに見給う主を見上げてのことです。

主よ、私が与えられてきた恵みと務めに応えて来なかったことをおゆるしください。
私は今の仕事をしていて、今は全くお金に困っている訳ではないのです。与えられた時間全てを、主のため、兄弟たちのためにお捧げする時間があるはずなのです。

この身は私のものではありません。主のものです。私が与えられたこのすべては、私のものではありません。主のために使うべく、貸し与えられたものです。

それなのに私は、あたかも自分の持ち物、資源であるかのように、自分で自分の道を計画しようとしています。すべてはあなたの御心のままに動いて行くというのに。主よ、あわれみたまえ。

私は、報い、何らか将来性、つながりのありそうなことばかりに目を向け、隠れたところで苦しんでいる兄弟たちを見つけようともしません。

汝らは世の光であると示された主よ、光は暗やみでこそ輝き、人の沈んだ顔こそを照らすものであるはずです。
光の子らは、世ではなく、世から価値無きもの醜いもの怠惰なものとして追いやられた暗やみにこそ、旅に出ていかなくてはなりません。
主よ、それはあなたが他ならぬ私の暗やみをお引き受けになったからです。私の内で、私からも厭われてきた罪、醜さ、どうしようもなさを優しく照らし、お認めになられたからです。
あなたは善人にも悪人にも隔てなく陽のひかりをお与えになります。それが御心だからです。
御心だからと、甲斐なく見える、苦しく見える十字架をも背負って行けるような勇気と、覚悟とを私にお与えください。
私を世にではなく、あなたに仕えさせてください。あなたを主とさせてください。
この世の富を味わうのではなく、あなたがこの世にお与えになった愛を味わって、日々歩んでいくことができますように。
主よ、私をきよめてください。私の秩序なき多欲を刈り込んでください。
主よ、私にはこの身、この生命とがあります。
この恵みを、主と、兄弟たちとのために用いさせてください。私を導いてください。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。