いつか手帳に記した絶望的なメモから、絶望に差し込む光としての神・信仰を描いてみました。
「あいづち兄さん」や「生きねば活動」をやっている身ではあれ、ぼく自身も思い悩んでばかりです。
でも、日々自分自身の心の闇に触れるからこそ、他の人の心の闇を少しでもやわらげたい、とも思えます。
とても暗い記事なってしまいましたが、最後にキリスト教とは関係なしに「人は孤独だが、おなじ時間をすごすことができる」を書きました。また後日、別の記事で詳しく書きます。
ある日の思い煩い
一人の人間が、もうひとりの別の人間を本当の意味で慰めることなんて、できるんですか。
一個の魂と、もう一個の魂とは、触れ合うことなんて決してできずに、
どこまでも、どこまでも、どこまで行っても一緒になることはできません。
言葉を交わし、身体をこすりあわせても、永遠に、永遠に、摩擦とともに、宇宙にひとりきりの魂が、ふせっています。
私の主である神へ、主へ向かって垂直に。
だって、横には誰もいないのです。わたしひとりだけなのです。
独りに、独りになりきって、世界の底に、世界の底に降り切って、ほかには誰もいないのだとわかって、
それでかみさまは急に、ありがたい。
目の前のこの人生には、わたしと、わたしの心の底まで知っておられるかみさましかいない。
神に祈り、神に語り、神の前に憩う。
それ以外のすべては、結局映画の中の話みたいに、ほんとうの意味では、この一個の私の生命とは関わりがないこと。どうでもよいこと。
この世の一切は、わたしになんの慰めも与えないこと。
昼すぎの陽光がさし込む電車のなか、ぼくはゴトゴトゆられながら、思い巡らしています。
真っ暗でなんにも見えない闇。
その暗闇に射す光だからこそ、ほんとうに、ありがたい。
(「あなた大丈夫ですか?」とお思いになるかもしれませんが、
「生きねば活動」と言っているぼく自身も、こんな思い煩いの闇にくりかえし沈み込んでは、「生きねば…。」と何度も生きなおしては、活動を続けています。)
この世の被造物のうちに、一体なんの喜びを求められるというのか。
人は永遠に孤独です。私の人生には、いつも私しかいません。
「分かり合う」ことなんてありえない。たとえぼくにとっての「ミューズ(理想の伴侶)」とこの現実に寄り添えたとしても、結局はぼくと同じ人間。
人と人とは、無限の隔たりの向こう、永遠に触れることのできない向こう側に生きる、別の世界の人間同士です。
たとえ家庭をもち、こどもができたって、変わらない、別の人間、別の世界です。ぼくの世界には、死に至るまで、永遠にぼくひとり。
だからぼくは、孤独の底にまで降りてきて、ともにいてくれるかみさまを望みます。
人はいつでも「なにか」を求めます。
金、地位、女、評価、物、娯楽…。でもそんなの、結局いっときの気休めに過ぎません。手に入れればまた別のもの、より多くの、より良いものを求める。
欲望には際限がありません。そして、欲望を満たし続けられることもありません。
ぼくは、これらのまやかしを知っています。ぜんぶクソです。
時間を、感情を、嵐のように激しくして、心の底を流れる虚無から目を逸らし、冷静に己を振り返っては、むなしさの深淵がこわくなり、心も身体もふるえてくる。
被造物とは次元の違う、神を求める。
この世のものとは全く違うものに、神さまを信じ目的とすることのうちに、自分の生きる喜びはあるのだと、賭けるのです。だから神を信じ、神をよりどころとして生きようと、願うのです。
自分の想いの果てには、苦悩しかない
ぼくは生きていて、日々様々な想い・欲望を頭の中に浮かべます。
これからどう生きようか。どうしたらぼくは幸せか。「あれかこれか」どちらを取るべきか。
頭では「こっちが正しい、それはだめだ。」と考えてはいても、矛盾する欲望は決して消えません。「ああしたら、もっと得をする、おれのものになる」と同時に思います。
二心です。それどころか、無限の欲望が無秩序に、あれも、これも、と欲します。
あっちへこっちへ言ったり来たり、結局「自分の想い」だって、一つじゃないのだから、「自分の想い」に従ったって、行き着くところは後悔に迷いに、絶望です。
だからもう、「自分の想い」は「肉の声」として無視し続け、ただただ「神のみこころ」と思われることを行おうとするしかない。そう決断するのです。
自分の意志をすてて、かみさまに委ねてしまう。
だからといって、行動がすぐに変わるわけでもないけど、とにかく、神に、み心に委ねようとします。
思い煩うな。ただ神の国と義とを求めよ。
空の鳥をみなさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。(…)
あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。
だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは、明日自らが思い煩う。
その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ福音書6:26-6:34)
ぼくには、主なる神により頼む以外に、希望はありません。
まいにちまいにち、罪と欲にまみれ目移りがして、「神さまなんてクソ喰らえ、俺にはこの目の前の、全てを忘れさせてくれる快楽しかないのだ」なんて思いますが、しずかに深く考えてみたとき、残るのは主をより頼む道のみです。
それ以外にはない。
人によってこの世、この生の何に対して絶望するのかはまちまちでしょう。
しかし、「あぁ、この道しかないのだ…」としずかに、喜びをもって思えたとき、その人は何かを信じ、それを希望に生きていくのでしょう。
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところにいきましょう。
行きましょう、主の平和の内に。
神に感謝
この言葉で教会のミサは締めくくられます。
この世と自分自身に対する絶望の穴の中で、他ならぬこの自分に注がれる神の恵みを受けてまた腰を上げ、同じように苦しんでいる隣人のいる現実の中へと戻ってゆくこと。
宗教は「この現実」へ戻らせ、「この現実」を強く生きさせてくれるものでなくちゃいけないと、ぼくは思います。
自分自身に課された永遠の孤独は、ふとしたときに、吹き荒れます。誰にでも、そうだと思います。
そんな永遠の孤独が本当に癒やされて、自分の孤独を肚の底から受け入れられて、癒やされて、初めて人は、正しく隣人の前に立てる、人と関わることができるのだと思います。
人にはそれぞれの闇があると思います。ぼくにとってそれは孤独です。
しかし、そんな人それぞれの闇の中にこそ、神様は救いに降りて来られるのだと思います。闇を通して、近づいて来られるのだともいます。
そして、自分自身の闇が慰められたからこそ、人の闇に対しても何かできることをしたいと、思うだと思います。
闇を知るからこそ、闇の苦しさや絶望の痛みに共感することができるのだと思います。
そうしたとき、闇は恵みになり、闇は生かすべきものになるでしょう。
ぼくも自分自身の闇を、生かしてこの生涯を歩んでいきたいと思います。闇を通して神に近づくことについては下の著作が素晴らしいです。『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』はかなり詩的な本です。『うめきーローマ信徒への手紙』戸田伊助は、ローマ書もとに、イエス・キリストの救いとは何か、希望とは何か、とてもわかりやすく語っています。
人は孤独だが、同じ時を過ごすことができる。
このまま記事が終わると、「キリスト教信仰によってしか救われない」みたいな感じだし、絶望してしまう方を増やす結果になるかもしれないと危惧しますので、キリスト教関係なく、希望を描きます。
人は確かに孤独です。永遠に孤独です。自分の心は自分にしかわからず、相手の心はわからない。いつか別れが来る。人の心は変わる。人は去ってゆきます。自分だけ取り残されたように感じることもあるでしょう。自分だけ弾き出されたように感じることもあるでしょう。
こうした孤独を、「人と人とは決してわかり合えないこと」と言いましょう。
私の円と、あなたの円は、決して交わることはありません。私の世界と、あなたの世界は、決して一致することはありません。
しかし、代わりに、「人と人とは同じ時を共有し、お互いの世界に思いを馳せ、お互いの世界を応援し合い、支え合うことができる」。
一切をあなたと同じように理解し感じることはできませんが、「あなたの世界やこころ」に想いを寄せることはできます。
あなたの心の重荷を代わりに背負うことはできませんが、それについて想いを寄せ、癒そうとすることはできます。
永遠に一緒にいることはできませんが、限られた短いときを、共有することはできます。
「孤独であることへの絶望」は、他の多くの悩みと同じく、「ないものねだり」です。世界はずっとそうあり続けてきたし、これからもそうです。
初めからありえないものを、夢見ているだけです。現実を見ずに、「夢が現実化しないこと」を嘆いている立場です。
確かに、甘い夢は叶いません。しかし、甘い夢を見る代わりにできることが現実にはあります。その現実の方に目を向け、「生きねば…」と言う以外にはないのです。
また次回別の記事で、詳しく書こうと思います。今回はぼくの心配な気持ちから、簡単に記してみました。ごめんなさい。
こうした希望については堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読んで感じました。ぜひお読みください。ぼくが日本文学で一番好きな小説です。
「人と人が正面から向き合って、お互いの心を理解し合い、満たされる」
そんなことは不可能だと思います。
人間の限界です。
「二人で横に並んで、同じ方向を見て、同じ時間を共有すること」
これが人間同士の最も美しい関わりだと思います。
「同じ時間の流れ」に、ともいられる瞬間は奇跡です。— 海野つばさ@生きねば活動 (@basabasatti) November 29, 2019
人間
というか魂の
孤独な存在の仕方そのものに対して、
絶望的な気分になることもあるけれど
こればっかりは仕方がない
魂と魂が直接触れ合うことは永遠になく
独りで生まれ、独りで生き、独りで自らの生を味わい、独りで死んでゆく
でも嘆いてたって、どうしようもない。
生きねばならないことです。— 海野つばさ@生きねば活動 (@basabasatti) October 22, 2019
今年一番に素晴らしい本に出会いました⇩。リーゼンフーバー『信仰と幸い』
主の祈り、使徒信条、キリスト者の幸いについて、深くしずかに、あざやかに教えてくれます。とてもおすすめです。
恐れるな、たじろぐな、うろたえることはない。わたしはあなたとともにいる。
そういわれる主を絶対的に信頼し、神の国の実現のために働きます。
この世ではここの存在は本質的に孤立していますね。それは嘆く類いのものではない事実ですね。
神の国はどうでしょうか。
他人とともに祈るとき、それが実現してると感じることがあります。また、同じように垂直を見上げる他人とともに働くとき。
しかし、絶対的に信頼、シンプルなことなのにむずかしい。生活しているとたいていは、恐れと疑いが自分のなかにあるようです。
Veronicaさん
「他人とともに祈るとき、それが実現してると感じることがあります。
また、同じように垂直を見上げる他人とともに働くとき。」
ぼくもいつかそんなことを考えたことがありましたが、忘れていました。
自分の中で本当の実感として、それが感じられていないのだと思います。
頭では理解できますが、本当に体験したことはないのだと思います。たぶん。
そんなご縁が訪れたら良いなと思います。
コメントありがとうございます。