クリスチャンの内輪争いのショボさ。人を信頼して自由意志を与えてくださっている神。
もう2ヶ月くらい近くのカトリック教会の入門講座、聖書講座に参加させて頂いている。神父サマの考え方とぼくはとても相性が良い気がしていて、いつも感動する。本なんか読むより、この人の教えを聞きまくりたいとおもうくらい。正直できれいごとなしの人。ご利益宗教とちがって、甘いことを言わない人なのだ。声もすてき。
今日も入門講座で、すてきな教えが。
自分はこの自分の与えられた生において頑張る。人には何もできぬ。
マタイ25:1「十人のおとめ」の話。ともしびの油を持っていた人と、もっていなかった人のたとえ話だ。
油をわけてあげりゃあいいじゃないかと思うけれども、違うと。あれは神からの恵みとしての自分の存在みたいなもんで、自分は自分のことしかできないのだと。自分の人生、行いは自分がどうこうするもので、自分が頑張るから、その頑張りをあの人にも分けてあげる、というわけには行かないのだ、と。
自分は自分で頑張るしかない、人に人を救うことはできない。お祈りしたって、それによって誰かを救えるわけじゃない。そんなのは人間の傲慢で、人を救うかどうかは神さまが決めること。ただ祈ることは大事だが、それで「ロザリオ一連で、一人死者を救える」とか、ミッションスクールではやらされたけど、馬鹿らしいことだ。みんなを救おうとしているイエスを信じて任せるべきだ、と。
自分のことは、自分でやる。このあたりは、人間に自由意志を与えてくださった神の望むところである気がする。他の人の批判や文句やおせっかいではなくって、この与えられた恵みとしての自分自身に目を向けて、がんばって日々生きていくべきだ。これは毎日を生きる力を与えてくれると思う。
神が信頼して私に任せてくれているからこそ、堂々と。
マタイ25:14 タラントンのたとえ。ぼくはさっぱりわからなかったところ。
大切なのは、信じる気持ちらしい。神が自分に任せた1タラントン。失敗を責められることを恐れてそれを土に埋めて怯えているのがいけないみたい。
神が私を信頼して任せてくれたもの(自分の命)を、失敗もおそれずに、神を信じて、勇気を持って自分で活用していくべきとのこと。「裁き」に目を向けるのではなくて、神が私を信頼してくれていることに目を向けるのである。めっちゃいい話だ。
2つの話とも、自由意志を与えてくださったことへの信頼でつながる気がする。自分の自由さに怯えていたらだめなのだ。むしろのその神の信頼に自信をもって、勇気をもって、縦横無尽に駆け回るべき、そんな感じがする。
Twitterのクリスチャンアカウントの中に、他人の信仰のあり方に対してめちゃめちゃ「裁きまくってる」人をみかけることがあるが、それじゃあ神の愛の有り難みがないと思う。裁きまくる人は、きっと自分に対しても裁きまくってると思うからだ。裁きの神ならキリスト教じゃないんじゃないか。
メテオをふらしたりして世界に介入するのでなく、人間たちの自由意志にお任せしたもうてくださるのだから、気持ちとしては自由に堂々と神を愛し隣人愛に打って出ていくべきだと思う。それなのに、人の信仰にあれこれといちゃもんをつけて裁こうというのは、しょぼい。きっと自分でもとても不安なのだと思う。自分が不安だから、他人と一緒に自分の中の嫌な面を否定し、切り離して、自分が安心して納得できる状態になりたいのではないかと思う。そんなことよりも、神の愛をベースにして、もっと外に向かって自分がなすべきことを考えて世界に尽くしていった方がいいんじゃないか。
だから自由意志の尊重は大切だと思う。神が信じてくれて任せてくれているのだから、裁きなんてあんまり考えずに、自由闊達に働こうではないか、と思う。イエスさまも、ワイルドな人なのだし。クリスチャンという日本ではくっそ狭い領域の中で、「理想的な信仰」を云々するなんて、ぜったいイエスはやらないでしょう。そんなことよりも、強欲の固まりであり続けている日本の政治や、娯楽資本主義を徹底的に批判すると思う。人間の命を尊重せずに踏みにじる悪い奴らにこそ、抗議のエネルギーを使っていくべきだと思うのです。
もし気を悪くした人がいたら、ごめんなさい。でもぼくの中では、自己愛と欲望バンザイの現代社会のなかで、「欲望と自己愛」に対してプロテストしながら生きようとしている人はみんな仲間だと思いますし、ぼくはそういった発言をしていくべき役割なのだと勝手に思っています。
(ぼくはこういう役割を感じる。しかし、「正しい信仰」を追求してクリスチャン内の自浄作用として、批判を行う人も欠かせない一つの役割を果たしているのだと思います。この立場でも、自分の個人的な感情を混じえずに、細心の注意を払った上での批判であるべきでしょうが。)
(この「それぞれの役割」については、別の記事で書かなくちゃと思っています。絶対悪はないということです。悪い人(あるのは悪いと解釈される行為だけですが)も悪い人として、世界を「全体として正しく」働かせる不可欠の存在であるということ。善用されるべき存在、うまく生かしていくべき存在)
北森嘉蔵が、聖書は福音的な「おおらかな信仰」において読まれるべきだと言っていました。これと同じで、「裁き」にびくびくするのは、なんだか違う気がします。
神さまは、イエスさまはみんなを救おうとされている、どんな罪をも悔い改めれば許してくれるということ。そこを全面的に信頼する。そこから生きることに希望が生まれてくる。神の愛という堅固な土台を得ることができるのではないか、そう思います。
裁きでなく、愛の方に注目することで、信仰・希望・愛という無敵のトライアングルをフラフープみたいに回してこのしみったれた、あくどい偽善と騙し合いに渦巻く世間を、自信満々に渡り歩いていけるのではないか。
神さまが禁止していることや、神さまの「裁き」を確認するために、おそるおそる聖書を読んだりするのではない。それは「びくびくした不安」において神を求めることだ。(ここでは結局、自分と神との間に緊張関係がある。イエスは愛に満ちた親子関係を強調していたはずだ。放蕩息子のたとえのように、ひたすらに私のために待っていてくださる神。)
「おおらかな信仰」において神を求めるとは、神さまは私を救うために、安心させるためにいらっしゃっているのだという根本的な信頼のうえに、聖書を読んだり、祈ったりすること。(内省や悔い改めも、神を信頼していればいるほど、徹底的にできると思う)
これは世界に対する疑いをベースに、びくびくしながら富や地位を築き上げて自分を守ろうとする生き方と、世界に対する信頼をベースに、楽観的にのびのびと、自由な生き方とのちがいにもつながっているだろう。
だいぶでかい話になってきちゃったけど、そう思います。そんなふうになれるなら、もっともっと信じたいと思う。
そんな「条件付き」で信じたいなんて、恐れ多い、と思ったりするが、ここでこそ、裁きの神のよりも、神の愛を信頼して、申し訳ないですがそうなんです、と謝りつつ、言わせていただけばよいのかも知れない。
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