全てが無意味な深淵の上で、サルになるか、超人を目指すか。(ニーチェ=ツァラトゥストラ))

人はサルにも超人にもなれる。(ツァラトゥストラ)

わたしはきみたちに超人を教える。人間は、超克されるべきところの、何ものかである。きみたちは、人間を超克するために、何をなしたか。(中略)
きみたちは虫から人間への道程を成就した。ところが、きみたちの身のなかの多くの点はなお虫である。
かつてきみたちはサルであった。ところが、いまもなお人間は、いかなるサルよりも、より多くサルである。
(『ツァラトゥストラ 上』(ニーチェ全集9)吉沢伝三郎訳。ちくま学芸文庫、1993年p.22。「ツァラトゥストラの序説」より)

ニーチェ=ツァラトゥストラの超人思想の根本を示す有名な言葉である。
地球に虫が誕生し、サルが誕生し、そして人間が誕生した。歴史は人間へと進化した。
しかし、いまもなお多くの人間は虫けらやサルに過ぎないとツァラトゥストラは語る。
なぜだろう。人間は人間ではないのか。
虫やサルは主に本能によって行動する。当然ひとつひとつの命に個性はあるけれども、その行動の本質は変わらない。虫やサルの本質は唯一つである。
一方で人間は、この本能を著しく弱め、代わりに理性や意識を持つことになった。
そのため人によって考え方や感じ方が違い、行動も大きく異なる。
自分が勝ち上がるために人を傷つけることさえ厭わない人間もいる。
ひとりで自分のからに閉じこもって何もやる気が起きないという人間もいる。
サルのように情欲に人生を捧げるものもいる。
宗教的信念を持って自己犠牲を厭わず、ひたすらの精進を続ける人間もいる。
たとえ同じ人間とはいえ、千差万別、上から下まで十人十色である。

つまり人間は、サルとして生きることも、虫として生きることも、自己を超克し続けて生きることもできる。
いくらでも高みを目指すことができるし、いくらでも堕落することができる。
だからニーチェ=ツァラトゥストラは、「人間は超克されるべきところのなにものか」であると高らかに叫ぶのだ。
人間は自分で歩みを止めればそこに落ち着く。歩きつづければどこまでも高みへと登ってゆく。
前向きに高みを目指し、それまでの自分を超え続けて生きていくのか、
それとも下を向いて後ろ向きに生きていくのか、
自分がどんな人間であるのかは自分で決めるのだ。
ニーチェは学会や周囲からの冷たい評価にも負けず、自分の思想を叫び続け、発狂した。
あなたはどんな人間になりたいのか。決めるのはあなたである。

「一切が許されている」からこそ、自由がある。

ニーチェは「神の死」を告げた哲学者として名高い。
「神の死」とは「一切が許されていること」に人間が気づき始めたことを含んでいる。
今やこの認識は現代社会を生きていく上でもはや意識すらされていないかもしれない。
どんな手を使って金を儲けても、どんな悪いことをしても、見つからなければなにもない。
自分を犠牲にして人にどんな善行を行っても、そのことによって絶対自分に幸せが帰ってくると信じている人も少ないだろう。
「神が生きていた時代」、人は罪を恐れていた。罪はいつか(死後も含め)神によって罰せられると信じたからである。
現代では、「罪は見つからなければ罪ではない」。うまくいけば罪は罰せられない。
「一切が許されている」。情欲に溺れようと、人を傷つけようと、悪徳を蓄えようと、「自己の良心」の痛みを感じない・振り切れるのであれば、何も起こらないのである。
これは、日頃から善い行いを心がけている人にとっては目を背けたい事実であるかもしれない。
しかし!この点にこそ自由があるのだ!
「一切が許されている」とは、すべての価値がフラット・平等であるということだ。
いわゆる善い行いも、悪い行いも、審判を行い罰を与える神がいない以上、別に何も変わらない。
しかしそのようにどんな行為も価値もフラットであるからこそ、人はそれを「自分の意志で」選択することができる!
神様や、世間様が後で褒めてくれるから、罰を与えないでくれるから選ばれる行為とは、本当の意味で自分が選び取った行為ではない。
それらは報酬を求めた行為、罰を喰らわないための行為でしかない。
しかし「一切の価値・行為はフラットである」というところから選び取られた行為とは、まさしく「自分が自分の選択によって選び取った行為」なのである。
「何の報酬も罰も無いけれども、俺は俺のためにやるのだ!」と叫んでの行為なのだ

「後で褒められるから、得をするから、責められない」ための行為なら、誰だってしたいし、誰だってやろうとする。
一方で、「意味も価値も何もないのだが、俺がしたいから俺はする!」という行為は、「この俺にしかできない」自分が選択するからこそ価値がある行為ではないだろうか!

なんの報いも期待しない。ただ自己を超克し続けたいから、超人を目指す!

人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。
一つの深淵の上にかかる一本の綱である。
一個の危険な渡り行き、一個の危険な途上、一個の危険な回顧、一個の危険な戦慄と停止、である。
(同書、p.26)

人間は「一つの深淵の上にかかる一本の綱」だ。
この「深淵」を、僕は「神の死」によってすべての価値がフラット・平等であることの意味に取りたい。
善も悪もない。全ては平等、その意味では無意味だ。
だがその一切が無意味な「深淵」の上において、人間は自分の生を選び取る。
自分で自分の行為を選択し続けるのである。
「動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱」
動物として生理的欲求だけをだらだら満足させて死んでいくのか。
自分を「超克」し続け、「一個の危険な途上」の上を激烈に歩き続けるのか。
「超人」を目指し続けることに、別に客観的な価値や意味があるわけじゃない。何か報われるわけでもない。
「別に何を期待するわけでもない、俺はただ自分が目指したいから、超人に向かって戦い続けるのだ」
僕はそんな言葉を言える人を、かっこいいなと思う。

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。