西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

自己の愚と矛盾とを知りつつも自分では何もできない。だから神・仏の中に自己を投げ出し、棄て去る

西田幾多郎、晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」は彼の宗教に対する考え方を、他の著作の何倍もわかりやすく描いています。(西田幾多郎は卒論を書き、臨済禅の修行を始めるきっかけとなったぼくにとってご縁の深い人物であります。)
この論文の引用をもとに「宗教とは何か、なぜ宗教を求めるのか」を考えてみます。
結論を簡単にまとめますと、「自己の矛盾を知り、自己の愚と無力とを知りつつも、自己の力ではそれをどうにもできないがゆえに、父なる神、母なる仏に対して自己を投げ出し、棄て去る」
西田が語る「宗教」と「道徳」との違いの説明を紹介することで、宗教を求める人とそうでない人との間で、相互に理解し合うきっかけとなればと思います。
この記事は、安泰寺ご住職で、著書も何冊か出していらっしゃる「ネルケ無方さま」からメールでご感想を頂くことができました。⇩の記事を御覧くださいませ。

西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方様(安泰寺)「why(なぜ生きるか,生きる意味)を徹底してこそのhow(いかに生きるか)」

2019年3月16日

「自己の在処迷うこと」。道徳と宗教のちがい。

宗教の問題は、我々の自己が、働くものとして、如何にあるべきか、如何に働くべきかにあるのではなくして、我々の自己とは如何なる存在であるか、何であるかにあるのである。
宗教的関係というのは、完全なるものと不完全なるものとの対立に於てあるのではない。完全なるものと不完全なるものとは、その間に如何に無限の距離があるにしても、同じ目的を有った進行的過程の両端に立つものである、一つの直線上にあるものである。我々の宗教的意識というのは、かかる立場において現れるのではない。[…] 宗教的に迷ということは、自己の目的に迷うことではなくして、自己の在処に迷うことである。道徳的といっても、対象的に考えられた道徳的善に対する自己の無力感からだけでは、如何にそれが深刻なものであっても、その根柢に道徳的力への自身の存するかぎり、それは宗教心ではない。
懺悔といっても、それが道徳的立場においてであるならば、それは宗教的懺悔ではない。普通に懺悔といっても、それは自己の悪に対する後悔に過ぎない。自力というものが残されているのである。[1]

この一連の文章には2つの要素が読み取れます。(説明を深めずに何度も言葉をなすりつけていく、小林秀雄や安良岡康作らにボロクソにけなされる西田独特の難解な文章ですが…言文一致や口語体が未だ未熟で未整理ななか我流で新しい文体を見つけていかねばならなかったことに注意を喚起させて頂きます。[5])

1つ目。宗教的な迷いとは、「自己の在処に迷うこと」であり、「自己とは何か、如何なる存在であるのか」の問題であることです。
わかりやすく言うと、「どうしたら少しでも人に親切に生きられるか」とか、「いかにして生きるべきか」等の問題は宗教の問題でありません。そもそもの根本、「自己」にまでさかのぼり、
「この矛盾に満ちた、善を知りつつも悪を為す自分とは何か」
「この自分というものは一体なんなのか」といった問いに迷うのが「宗教的な迷い」です。
「いかに」「どうしたら」といった「方法・生き方」よりも前のところ、あるいは根本のところにある「自己」を見つめて悩むのが宗教的な迷いだと西田は言います。
「私は無力だ、そんな私がどうしたらもっと善い人間になれるだろう」との言葉は自分の無力を想いつつも、その延長線上の一番果てには「完全な自分」が透かして夢見られているから、それは宗教の立場ではない、と。
「真の宗教」を探求する西田なりの、厳しく鋭い視点であります。

2つ目。道徳(心)と宗教(心)とのちがいです。

道徳とは、道徳的な善を自分が行えないこと、自己の無力さ、不完全さに対する嘆きの立場であります。これは「完全」なものに対して、自分は「不完全」であり、無力であるという立場です。
しかし「完全-不完全」という一直線上のどこかにいる限りは、「その根柢に道徳的力への自信」、平易に言えば、「それでも頑張って自分でどうにかしよう、少しずつ改善できるはずだ、一歩一歩すすもう」といった意識がわずかにでもある限りは、それは宗教ではなく、道徳(心)の立場であると。
これまた厳しい、しかしめちゃめちゃ大事な視点です。「自分の力」を信じることのできる人にとっては「宗教」は必要なく、「道徳」で十分だ、とあえて言うこともできます。あとで出てきますが、「宗教」とは「自分の力」を諦め、「自力を棄て去ること」だからです。

これ以後は2つ目の視点「道徳(心)と宗教(心)のちがい」という流れで「宗教とは何か」を語っていきます。
「懺悔」(自分の罪を認め告白すること)も、宗教の立場と道徳の立場とでは全然ちがうと西田は言います。道徳の立場では、「自分は悪をなしてしまった、これからは悪をなさないように(自分の力で)しよう」というわけです。
では、宗教的な懺悔(真の懺悔)ではどうなるのか。

宗教的懺悔とは、自己自身を神・仏に投げ出し棄て去ること

真の懺悔というものには、恥ということが含まれていなければならない。恥ということは他に対することである。道徳的にいっても懺悔するということは、客観的自己に対して、即ち自己の道徳心に対して恥ずることである。そこには自己が投げ出される、棄てられるということがなければならない。道徳の場合には、それが人に対してであり、社会に対してである。
宗教的懺悔即ち真の懺悔においては、それは自己の根源に対してでなければならない、父なる神、母なる仏に対してでなければならない。
自己の根源に対して自己自身を投げ出す、自己自身を棄て、自己自身の存在を恥じるということでなければならない。[…] 何故に我々の自己は、その根柢において宗教的であり、自己自身の底に深く反省するに従って、即ち自覚するに従って、宗教的要求というものが現れ、宗教的問題に苦まねばならないのであるか。上にいった如く、我々の自己は、絶対に自己矛盾的存在なるが故である。絶対的自己矛盾そのことが、自己の存在理由なるが故である。[2]

懺悔には「恥」が含まれていなければなりません。他に対して、自己自身の存在、無力さ、矛盾を恥じるのです。道徳的懺悔はそれを自己の道徳心に対して恥じます。自分に反省し改善する力があると根本的には信じているが故に、自己に対して恥じてみる。社会に対して、他者に対して「私は恥ずかしい人間です、自分はもうこんなことはしません」と。ここに見られるのも、「自分の力でどうにかする」という自力へのかすかな自信です。

一方宗教的懺悔においては、「自己の根源」たる神や仏に対して自己を恥じ、自己を投げ出す、自己自身を棄てます。そこに、「自力への信」は微塵もありません。心の底から、自分の力ではどうしようもない、故に、神・仏に自己自身を投げ出す。すがるのです。自分によってはどうしようもないからこそ、自己を超えた存在、人間を超えた存在によりたのむ。
何と鮮やかな説明でしょうか!自力を頼めるものは自己を頼んで「道徳」の立場にたち、自力を頼めぬものは神・仏を頼んで「宗教」の立場にたつ。ここには明確な違いがあります。

では何故、自己自身の底に深く反省し自覚するに従って「宗教的問題」(自分の力を一切信じられなくなる問題)に苦しまなくてはならないのでしょうか。
「我々の自己は、絶対に自己矛盾的存在なるが故である。」であると西田は言います。

道徳的立場の前提である「自己・自力」を疑うのが宗教の立場

くどいですが、もう一度「道徳と宗教の違い」について

道徳の立場からは、自己の存在ということは問題とならない。如何に鋭敏なる良心といえども、自己そのものを問題となせない。何となれば、如何に自己を罪悪深重と考えても、道徳は自己の存在からであるが故である。
これを否定することは、道徳そのものを否定することにほかならない。道徳と宗教との立場が、斯くも明らかに区別すべきであるにもかかわらず、多くの人に意識せられていないのである。[3]

道徳の立場では「自分が自分の行為をコントロールし、意識的に行為している」という「自力・自己」を前提とした上で、「自分は罪と汚れにまみれている、反省すべし!」と語ります。自己の存在と力は絶対的な前提です。
「そもそも、自分を自分でコントロールすることなんてできるのか…?この矛盾に満ちた自分とは何者…?自力による反省に意味はあるのかしらん…」といった「宗教的問い」が始まると、この道徳の立場の足元はガラガラと崩れていきます。
こうして「自分の力が過ちを犯しているのだから、自分の力で反省し、自分の力で改善する」という道徳の立場は根本のところから否定されうることになります。
道徳の立場が前提としている「自己(の行為)への信」を疑い始めたところに道徳的立場の根本にいる「自己の存在」に疑いの目を向けたところに、宗教的立場が開けてきます。道徳の木の根本を掘り進むと、自力のパラダイム(枠組み・世界観)を超えた新しい世界が見えてくるのです。それが宗教の世界であり、「自己・自力」を神や仏に投げ棄てた世界です。

自己を疑う宗教の世界は如何にして現れるのか。

宗教心というものは、如何なる場合に、意識せられるのであるか。宗教の問題は、価値の問題ではない。
我々が、自己の根柢に、深き自己矛盾を意識した時我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時我々の自己の存在そのものが問題となるのである。人生の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言旧された常套語である。
しかし多くの人は深くこの事実を見詰めていない。何処までもこの事実を見詰めて行く時、我々に宗教の問題というものが起って来なければならないのである。[…] 我々の欲求の自己矛盾的たることは、厭世哲学者の言を竢つまでもない。我々の自己は常に欲求に翻弄せられているのである。自律的といわれる道徳というものでも、果たしてそれ自身において十全なのであろうか。
道徳の極地は、道徳そのものを否定するにあるのであろう。
道徳的意志というものは、自己自身の中に自己矛盾を含んでいるものである。ダンテの神曲において、ギリシアの哲人も、リムボに彷徨う所以である。[4]

自分自身の奥底に、徹底的に矛盾した自分のあり方、腐りきって本当に救いようのない自分の愚かなあり方を見つめたとき宗教の世界が現れてきます。「多くの人は深くこの事実を見詰めていない」とすら西田は言い切ります。
「道徳の極地は道徳そのものを否定するにある」とは、道徳の立場を徹底し、自分の力によっては決して善人になることができないことを何百回も何千回も突きつけられ、道徳の極地に至って道徳そのものを否定することと言えます。(ニーチェも、砂漠でラクダとして重荷を真に背負ってこそ、「獅子の咆哮」へ至ると言っていたことが思い出されます。
自己の根柢の自己矛盾、自己そのもの矛盾なあり方について、西田は哲学的にあらゆる説明をしていますが、今回はとても触れられません。ご興味のある方は『絶対矛盾的自己同一』を中心にお読み下さい。)
いずれにしても、人が道徳の立場を掘り崩し、自己への疑いに徹底し切って自己を棄て去るのは、つまり宗教の世界に入っていくのは、自分の根柢に絶対的な矛盾、人生の悲哀、でたらめな欲求を自覚したときです。
善を想い願った30秒後には悪を欲望し、そのことに気づきすらしない。人間はまさに多面体であり、絶えざるメタモルフォーゼであり、好き勝手に溢れ出す液体のようです。そんな自己を、一体信じようなんてそれこそ、狂気の沙汰ではないか。そんな風に思うときもあります。

以上、自己の力を基礎とする「道徳」の立場と、自己を棄て去る「宗教」の立場の違いについて、西田幾多郎から考えてみました。
宗教的な人間と、非宗教的な人間(実存主義的人間)、それぞれがそれぞれ自分の道を歩むのが良いと思いますが、この間に少しでも相互理解の橋がかかることを祈っています。

最後に、臨在禅の修行から、カトリックのキリスト教に改宗し、フランスのカルメル会に入会された奥村一郎さんの著作から。

いつか禅のお坊さんとお話していましたときに[…]「宗教には2種類あるようですね」と言われました。
一つは、その宗教に入ると、自分がピカピカに見えてきて、周りの人がボケて見えるようになる宗教。自分は救われるが、他人は救われないということですね。
もう一つは、そこに入るとまわりの人がピカピカに見えてきて、そして自分はダメだなと思う宗教だと言うのです。そこで、「あなたの宗教はどっちですか」と聞かれたのです。
こっちは頭をポカンとたたかれたといった調子で、ああそうかといったところだったのですが、禅のお坊さんらしい問いかけだったと思いますね。
こっちもやっぱり一番目だったかなと思ったりするわけです。しかし、一番じゃない二番でもあろうか、一もニもごちゃごちゃになったりして、そこに何か問題を突かれたと思いますね。[6]

[1]『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』上田閑照編,岩波文庫,1989,所収「場所的論理と宗教的世界観」2章
[2][3][4] 前提書、同章
[5]『西田幾多郎の憂鬱』小林敏明,2011,岩波現代文庫,9章「哲学的言文一致」をご参照下さい。
なお「場所的論理と宗教的世界観」は[1]の論集Ⅲにありますが、小坂国継の『西田哲学を読む1』⇩は丁寧な解説・注解でこの著作だけ読みたい方には非常におすすめです。
[6]『奥村一郎選集第5巻 現代人と宗教』オリエンス研究所,2008,第7章「人間の闇と宗教の闇」より

当ブログとぼくの活動についてはぜひこちらを御覧ください!

キリスト教入門記[2]自由意志への信頼と内輪争いのしょぼさ

2019年3月16日

非信徒から見たキリスト教の魅力①人の孤独を慰める神

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人はなぜ宗教を求めるのか②改善不能な自己への絶望

2018年12月20日

人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

2018年11月24日

頭の中では隣人を愛し、現実では憎む…人間の愛の矛盾。『カラマーゾフの兄弟』から。

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3 件のコメント

  • 今日初めてここに来て読ませてもらっています。西田の言う「絶対矛盾的自己同一」は、「神と存在の関係」をまず第一としていると思っています。ここの所をつきつめて考えないと「神と人間」の関係・問題には近づけないのでは、と思っています。物質中心の世界観がまかり通っていますが、私の意志ではなく、神の意志のままに、しかも私の願いとして、世界の豊かである方向へ、一歩進めることを、あなたとともに願います。

    • お読み頂き、ありがとうございます!
      「神と存在との関係」が第一,なるほどです。
      西田が「場所的論理と宗教的世界観」で、神と人間とは「逆対応」的に関わっている、との話があります。

      私の意志を神の意志に委ね、
      逆対応的,矛盾的でありつつもなお、
      二つの意志が一つであるように、
      生きられたら良いのかもしれません。
      このとき「神の意志」は「世界自身(天地万物)の意志」に近いようにも思えます。
      世界を我意にねじまげて、人を傷つけてばかりの日々ですが、半歩でも進めたらと思います。
      坂本さまのご活躍を祈ります。

      合掌 ばさばさ

  • ≪…宗教的な人間と、非宗教的な人間(実存主義的人間)、それぞれがそれぞれ自分の道を歩むのが良いと思いますが、この間に少しでも相互理解の橋…≫を、前者は、歎異抄の【摂取不捨の利益】の[南無阿弥陀仏]に相当するモノに数の言葉の[ヒフミヨ(1234)]に、後者は、数学からの送りモノとしてチョット数学共同体からパラダイムシフトして、静なる『自然比矩形』と動なる『ヒフミヨ矩形』『ヒフミヨ渦巻』に、オモイ 端としたい・・・

     この源流は、3冊の絵本で・・・
     絵本「哲学してみる」
     絵本「わのくにのひふみよ」
     絵本「もろはのつるぎ」
      

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    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。