【世界を創造し続ける大地としてのぼくと、その上で嘆く小人のぼくたち】「らしい」散文[4]

「自分にはこの道しかないはずだ!」と自分で自分を説得する可笑しさと、「ぼくのビックバン」この2つをつなげたいのだ、ぼくは。

ぼくは「このぼく」であって、他のだれでもない。他の誰か、例えば田中さとしくんにとっては、「この田中さとし(おれ)」が「この田中さとし(おれ)」であって、ほかのだれでもない。

ぼくと、田中さとしさんは、それぞれがそれぞれに「自分のビックバン」によって生まれた、それぞれの「自分の世界」を生きているのである。そして、この文章を読んでいるあなたは、「あなたのビッグバン」によって生まれた「あなたの世界」で、この文章を受け取っている。

「意識」と言って良いのかもしれないが、この「意識」はとある一つの脳みその中に入っているというより、一つの魂という核から、世界をビッグバン的に切り開いているもので、世界を創造し、創造し続けることによって維持し続けている、世界の尽きることない源泉であり、すんげぇやつなのだ。

そんな、宇宙のビッグバンを無限に繰り返し続けている魂の核であるあなたへと、この文章が届いている。

他の誰でもない「あなたにとって唯一のあなたの世界のあなたに」へと、この文章が届いている。

あなたの「意識」に、ぼくの「意識」から、この文章が届いている。一つの魂から、もう一つの魂へ。一つの世界から、もう一つの世界へ。

ぼくもあなたもそれぞれに、それぞれの世界の中心点で、それぞれの世界をそれぞれにビッグバンして創造し続けてるんだけど、その超すごい宇宙ぜんぶを創造し続けている源泉どうしが、この文章を通して、世界(線)を超えて共鳴してるのだ!やべぇぞ!こいつは!

これは、神秘だ!奇跡にちがいない!私とあなたが、世界を跨いで響き合っているという奇跡!私とあなたの交信は、ひとつの宇宙ともうひとつ別の宇宙とのぶつかり合いなのです!ビッグバンを続ける世界の源泉どうしのぶつかり合いなのです!

話を戻します。自分で自分を説得しようとしているときの、「説得している自分」も、「説得されている自分」も、どちらも「小人のぼく」に過ぎないと、ここで名付けてみたいのです。「小人のぼく」と言うからには、そうです、「大きなぼく(大地としてのぼく)」がいると言いたいのです。

「小人のぼく」に対して、世界をビッグバンしつつ切り開いているぼく、文字通り「すべて」を容れることのできる「無限大のぼく」がいます。

「小人のぼく」と、その小人たちが立っている「大地としてのぼく(無限大のぼく)」という、2つの層で「わたし」は成立していると言いたいのです。「私」の構造について考えてみたいのです。

「小人のぼく」が無数にいて、「その小人のぼくたち」を大地として支え自らの上にのっけている「大地としてのぼく」がいる。この二重の構造で「ぼく」は成り立っていると捉えたらどうだ、そう言いたいわけです。わかりずらくて、ごめんなさい。

「小人のぼくたち」の下には、大地としての、無限大の「ぼく」がいます。どこまで歩いても、地平線には「むこう」があるように、無限です。果てがない、終わりがない、大地としてのぼくです。この大地としてのぼくが、ちっぽけな小人としてのぼくたちの両足を支え、存在させてあげています。

地球という惑星に自分たちが住んでいると、ぼくらはふだん感じることはありませんが、小人のぼくたち(日々暮らしの中で考え、行動したりしているときの「意識の断片」たち)も、自分たちは「大地としてのぼく」に支えられているなんて、大地としてのぼくがあってこそ存在できているだなんて感じませんし、考えませんし、気づきません。

説得したり説得されたがったりしている「小人のぼく」は、「大地としての無限大のぼく」の上でぴょんぴょんバカみたいに跳びはねている、たくさんの「小人たち」のなかの二人に過ぎないのです。その土台には無限に広い、「小人のぼく」たちを支える「大地としてのぼく」がいます。歩いても歩いても地平線は向こうにあるのと同じで、どこまで歩いても、走っても、世界の果てに行っても、いくら疲れて絶望しても、「大地としてのぼく」はここにあります。ぼくはここにいます。あなたはそこにいます。永遠に。「大地としてのぼく」こそ、ぼくの存在そのものです。

ぼくはまず、「大地としてのぼく」として、世界をビッグバンしつつ切り開き続けています。そうして切り開かれつつ在る「大地」の上に、無数の「小人のぼく」がいて、「神よ!」「信仰だ!」「罪だ!」「生きる意味が無い!」とか、各々好き勝手に喚いています。

ふだん何気なくものを考えたり、行動したりしているときのぼくたちは、たいていこの「小人のぼく」なのだと思います。湧き出しては消えていく雑念が、「小人のぼく」たちと考えたら良いのかもしれない。

ちっぽけなことに思い煩い、考えても仕方のないことを考え、悩み続ける、どうしようない、みじめな位相にいる人間が、小人としてのぼくたちです。色恋金名誉に幸せを見て、せっせとそれらを追い回し、思い悩んで苦しんでいる、むなしいぼくたち、それが「小人のぼくたち」です。

何が言いたいのかと言ったら、この「大地としてのぼく」こそが「信仰する」とき、初めてそれを信仰と言い、宗教と言うことができるではないか。「小人のぼくたち」がいくら「信仰」したって、前回の「らしい散文」で書いたように、ぜんぜん信仰じゃない、信用に値しない小人の戯れ言なのではないか。

神さまが天だとしたら、天と地(大地としてのぼく)との間で言葉なしにやりとりされ、そこから生まれてくるのが信仰であり、そこで「救い」も起こるのだという気がするのです。

あるいは、天から大地へと、恵みが十分にふり注ぐうちに、大地としてのぼくはいつの間にか信仰している。

小人たちは生活のなかであくせくかけずり回っていますが、その間ぢゅう、天と地とは落ち着いて語り合っている。

天と地の間で、小人のぼくたちが「信仰できない、絶望だ」なんだと、わんわんがんがん喚いても、天と地にとっては至ってどうでも良いことなのではないか。「信仰」の領域には大した影響もないのではないか。小人どもが、「善行」のはしごで天に近付こうとしたり、内省のシャベルで地を掘ったりしても、たぶん、あんまり意味はないのではないか。

小人のぼくたちにはわからないところで、小人のぼくたちとは全然違うところで、もっともっと大きなところで、天と地が無言で語り合っている。信仰はこの無言の対話の中からじんわりと広がって、成長してゆく。

小人のぼくたちの思い煩いとは関係のないところで、天と地が勝手にやってくれている。小人のぼくらはそれを信じてさえいれば良い。むしろ、むやみにやたらに思い煩うことで、天と地との対話を邪魔しない方が良いのではないか。黙ってた方が良いのではないか。

福音書のなかに、種まく人のたとえがあります。小人のぼくらは、大地としてのぼくに蒔かれた種について、あれこれ批評したり、心配したり、ときには焦って掘り返したりしてしまうかもしれません。

しかし、大地としてのぼくは小人のぼくらとは関係なしに、小人のぼくらにはわからないやり方で、種を成長させ、土を持ち上げて芽を出させ、実らせます。信仰は、小人のぼくたちによるのではなく、大地としてのぼくの仕事であり、小人としてのぼくたちには、それを見ることはできない。ただ芽が出て、実りができて初めて気づくことです。このあたりの働きを、神の計り知れない御業、叡智と言っても良いのでしょう。

この文章を書いたり、机の前や、公園のベンチで考えたりしている「小人のぼく」らは、「大地としてのぼく」、つまり世界を毎秒毎瞬ビッグバンしているぼくを、決して見ることはできないし、その声を聴くことはできません。地球に立っているぼくらが、地球を直接感じることができないように。

大地としてのぼくはいつでも無言で、この世界すべてを成立させ、支えています。〈このすべて!〉の根底そのもののようです。

これが、いつでも、絶対に、今、ここ、にいます。世界の創造の源は、見えないけれど、ここに絶対的に鎮座しているのです。(この奇跡を、神が人間に与えたものだと信じる道もある気がします。)

ふだんの「悩める小人のぼくたち」は、世界の根源である「大地としてのぼく」と、「天なる神さま」とのあいだに挟まれて、実はもう安心なのではないか。守られていて、包まれていて、実はもう、すべてが解決しているのではないか。導かれているのではないか。どうにも迷いようがない、絶望のしようがないのかもしれないと、考えてみることもできるようです。

「小人としてのぼく」は絶望し切っているように見えても、そんなのは天と地との狭間で交わされているちっぽけなつぶやきに過ぎないわけです。だって、ぼくは絶対的に存在し、絶対的に世界を創造しつつ在るのですから。

ふだん「これが自分だ」と意識している、「小人のぼく」たちを、実は一番いちばん大事なところで支えている、「大地としてのぼく」のヤバさ。このすごさ、神さまみたいなところを、人間はもっと生かしていかなくちゃいけないのだと、ぼくは言いたいみたいです。

「小人のぼく」は、色・恋・金・名誉を求め、それらの中に何か「しあわせ」や「まんぞく」があると思っているみたいです。だからこそ、この世のものを追い求め、それを失えば傷つくし、得られなければ不満になります。小人のぼくは、権力者を羨んで嫉妬をするし、美しい女性を見ればわき立ちます。

一方「大地としてのぼく」にとっちゃあそんなもの、どうでもよい、何の価値もない、それどころか、なんの意味もなしていない、まやかしでしょう。

金があろうが、名誉があろうが、美男美女を両腕の中におさめようが、そんなの関係ねぇ!そんなこととは一切かんけいなく、わたしは世界を成立させているのだ!というわけです。何かを手に入れたように思ったって、手に入るのはいつも一時の快楽。永遠に、満足することなんてありません。

わたしはいつでも絶対に、ここにいる。ここで世界をビッグバンしている。「目に見えるもの」が存在できるのも、「わたし」が世界を成立させているおかげ。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。