【信仰は自分の意志ではどうにもならないみたい】らしい散文[3]

【ぼくを中心点として創造され続ける世界。ぼくのビッグバン】「らしい」散文[2]

2019年1月2日

宗教にまつわる本を読んでいて、大きな罪を犯すことなく生きてきた自分を残念におもったことが、ぼくにはあったらしい。

自分のあまりの罪、汚らしさに真っ正面からぶちあたったことで、そこから一気に宗教の道を突き進んで行った人たちが、多いみたいだったからでしょう。

なんだか自分は、汚い罪悪の沼をうまく避けて足を汚すことなしに、うまいことこの世の甘い蜜を吸ってきたみたい。先生に怒られるまえに、じぶんだけこっそりいたずらの場を抜け出してしまっている子どもみたいな。実際そんな子どもだったと思う。

「優れた」汚さは、良心の警備の目から隠れたところで、じわじわ人の目を曇らせ、罪に慣らさせ、傲慢な人間へと腐らせていく。ぼくは「罪がなくって残念だ!」とうそぶいてみるほどに、自分の罪を見ない、腐りかけトマトだったのだろう。

いっそ大きな罪を犯していたら、宗教の自己放棄のひかりに飛び込んで、ぼくは全然ちがう人間になれていたのかもしれない、と思い浮かべてみた記憶もある。

でも悪というか、人の醜さは、行為の有る無しではないと、今ぼくは思っているらしい。そう言いたいらしい。

こころの悪の重さと軽さ、どちらの人間がより悪人か、善人か、そんな話をしたくなって、しそうになってしまうのだけども、「悪人であることの証明」に何の意味があるだろう。

自分はとんでもない、どうしようもなく汚らしい、エゴイズムに染まりに染まり切った汚物だと「自覚」してはじめて、宗教に自らを投げ込むことができるとでも言うのか。

「自分は宗教を歩むべき人間なのだ」とか、「自分には宗教の道しかないのだ」とか、そう思いたくなる気持ち。外堀を埋めて、「ぼくはこの道を進むしかない」と自分で自分に強制しようとする気持ちは、なんだろう。

なんで自分で自分を説得しようとするのか、自分で自分を弁護するのか?一体誰に向かって自分を弁護するのか?自分の中に「世間」でも居るのか?俺を責めるやつが一体どこにいるのか?

それはさておき、自分の意志でどうこうしようとする「宗教」なんか、「信仰」なんか、人間の側からの「信仰」に過ぎないと思う。自分の努力で獲得できる信仰。

そんなの信仰なんかじゃない。そんな「信仰」なんてどこまでいっても信用に値しない、人間の、一つの思い込みでしかないと、ぼくは熱く語り出したいらしい。つばを飛ばしまくって、息を吸う暇がなくて顔がまっかになるくらいに、弁論したいらしい。

信仰は、神さま、仏さまの側からくるものだ。

来る、与えられる、浴びせられ、飲まされるもので、人はそれをふり払わずに、浸されるのを待てるか、手のひらでやさしく受け取れるか、浴びせられるままに静かに立っていられるか、ごっくりと飲み干せるか。掴んでいるものから手を放し、両手を広げて、おまかせしますと言えるのか、否か。神さまから来るんだから、基本的に不可逆で、もどらないもんだ。戻ったとしても、それは自分ではなく、神さまの気まぐれだから、意味のある後退で。

人間の側の、「みじめなままの協力」によって、神や仏こそが果たすものが信仰なのだとしたら、宗教なのだとしたら、人はじたばたせず、余計なことはなんにもしないで、人間を超えた処から、天から、地から、風から、しずかに降りて来る恵みをただ待っているべきなのだと、言いたくなってくる。

これ以上、何も言うまい。

そうだ、聖書にしろ、禅の公案にしろ・・・いや、ぼくは今知識をひけらかそうとしているのではないか?そんなのは止めだ。ぼくは生きるために生きているのだからでもそれって、生きるためにならないものを追求することを、ぼくは無価値なものとみなしたいということなのだろうか。ええい、今はどうでもいいやい!

信仰は、人間がどうこうするもんじゃなくて、どうこうできるもんでもなくて、人間を超えたところで、神さまやら仏さまやらがおいでなすって、何とか致すもんでありましょう。

私たちはただ、神さまの愛に期待して待っていりゃあ良いのです。じたばたせずに、しずかに日々を生きて、待っていりゃあいいのです。

なんて勉強になるんだ!ありがとうぼくの言葉よ!ぼくもじたばたせずに待ちたいよ!もう不安になりたくない!余計な思い煩いは嫌なんだい。

「信仰」は、向こうからやってくるからこそ、信仰として有り難いものであって。向こうからやってくるからこそ、人間を超えたものなのであって。人間にはどうこうできないもんだからこそ、神さまからの恵み、仏様の慈悲なのだ。

向こうから降ってくるものが、気づいたら、人の内側に芽生えていて、気づいたら与えられている。気づいたら「もっている」んだろう。

突然青空から降ってきたものを、何も意識しないうちに両手で受け取ってしまうみたいに、ふいに、ぼくにも信仰がやってこないかと、ぼくは待ち続けたいものです。

完全に蛇足なのだけど、「生きる意味の探求」もおんなじだと思う。(いや、この散文じたい、蛇足に蛇足を重ねるだけの蛇テーマパークだ)

「あぁ!どうやって生きていったらいいんだ!俺は何のために生きているのだ!」と悩んで、探して、苦しんでいる内に、いつの間にかあるところで、

「あれ、俺って何に悩んでいたんだっけ?生きる意味?いやいや、俺は生きているのだぞ」なんて。

「なぜ生きるのか」という問いが、とけてなくなっちゃってるんだ。それは、気づいたら、溶けている。問うている内に、なくなってる。

だから、「なぜ生きるのか」ってやつに関しても、あんまりじたばたする必要はないと思います。全力で問うていって良いのだけども、無理に解決したり、忘れたり、諦めたりする必要はない。いつか、なくなっている。

自然に降り注ぐ太陽が溶かしたのか、アツい自分の探求が溶かしたのか、そんんなことはわからないしどうでも良いのですが、「なるようになるはずだ」という気持ちで、いたら良いのではないか。

でも実際にその問いに苦しんでいるときには、そんな余裕なんて、とても無い。それもぼくの実感なのだけれども、こればっかりは、自分には見えないところで進んでいくものなんでしょう。きっと、人間にとって大事なことは、いつも見えないところで、無意識のうちに、解決されていくのでしょう。

これも、人間のこころのわからなさ。意識的に考えてみることの無意味さだと思う。自分の思想や考えなんか信じないで、自分のうちに自然に働いている力に、お任せしちゃう方が、良いのではないかなぁ。こころの傷も病も、絶望も、体の傷とおんなじで、自然に癒やされていくものなのではないか。

うさんくさい「文学」は、自分の力で「超克しよう!」なんていうけれど、そんなことは時間に余裕のあるおぼっちゃま達のお遊びなんじゃないかなぁ。

日々、生きていかなくちゃいけない人たちにとって、実存主義ちっくな、根性論は、あまりにつらすぎると、ぼくは感じます。そんなのは、ただでさえ生きていくのにつらい私たちの尻を、さらに叩いて叩いて真っ赤にして、おしりの痛みに追われて走り続けるみたいな、なかなか狂った生き方ではないか。「いや、人間にはこの道しかない、これこそが、人間の偉大な生き方なのだ!」だなんて、言いなさんな。無理しなさんな。意地を張ったって仕方がないじゃないですか。

「私は病人を招くために来た」というイエス様の言葉が、ここで光る気がします。現実を生きるぼくらは慰めを、癒やしを、治療を必要としている。現実にいやというほど、痛みつけられているのに、どうして更に自分の尻を叩いてやらなくちゃならんのでしょうか。病人万歳、イエス万歳。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。