「人間のものさし」を受け容れること.「神のものさし」を目指すこと.

「神が創った世界になぜ悪があるのか」という古典的な問いには、
古典的な答え「その部分だけ切り取ったら悪に見えるだけで、全知全能の神の視点からしたらそれは決して悪ではない。この世界は全て善である。一見悪に見えるものも、神は善用なさる。天地を創造されるほどの神の知恵を人間が図ることは不可能だ」というものがあります。神の全知に対する人間の知恵・判断の、あまりの小ささ、愚かさ。
しかし、この古典的な答えに対し、人が容易に納得できないことは、『カラマーゾフの兄弟』で長男イワンがこの問いを「大審問官」の前座に引きずり出していることからも、明らかです。(なぜ神は抵抗できない子どもの虐殺を赦しているのか)
今回は、この古典的問いと答えを通して、「宗教的人間」に典型的と見える2つの生き方について考えてみます。

「人間のものさし」ではなく「神のものさし」によって世界は動いている。

先の古典的解答でテーマとなっているのは「人間のものさし」「神(絶対的善)のものさし」の対立です。
前者「人間のものさし」とは、知識・感情・意志あらゆる点において限定された1個人の、自己愛に満ちた、「歪んだ」ものさしです。
後者「神のものさし」は、自己愛による曇りが一点もない「絶対的善」のものさしです(そんなものは想定に過ぎないのかもしれませんが)。一切の邪念なしに「正しいこと」を判断できるのが、「神のものさし」です。
先の古典的回答の立場からしますと、世界は「人間のものさし」・視点に合わせて「正しく」創られたわけでありません。
世界は全知全能の「神のものさし」によって正しく測られ、神にとって「善い!」とされた上で、今も存在し続けているのです。
だから「不合理だ!非道い!」といくら言ったって、それは「人間のものさし」からの「歪んだ」判断にしか過ぎません。愚かな間違いです。
「ふりかかる全てを受け容れろ。神は人間には測り難き善のためにこの苦難を与えているのだから、この運命を信じて自分がなすべきことをしよう」というのが、キリスト教の信仰の立場であると言えましょう。(これはまさに、神さまの善や愛、ひいては世界の働きそのものを信じるのか、それとも信じないのか、「信仰の問題」です。

では、どう生きるのか。宗教的人間の2パターン

さて、大切なのはここからです。「神のものさし」「人間のものさし」があるとして、「私」はそこからどう生きようとするのか。ここで立場が2つに分かれるのです。

1,不完全な人間であるけれども、どうにかして「自分のものさし」を「神のものさし」に近づけたい。少しでも「正しいこと・神にとって善であること」を想い、行えるようになりたいという立場。
優等生的に、神に喜ばれる存在へと自分を何とか近付こうとします。(これが「自力」的になると、危険な香りがしますね)
(「神のものさしに近付こうとする」と言うよりも、「神のみ旨(願い)を我が身に受け入れる」と言うべきであったかもしれません。
「近付こう」という言葉自体が、自力的で、神よりも自分が先に出てきてしまっています。それよりも、「み旨を受け容れさせて下さい」と祈るのかもしれません)

2,「神のものさし」と「人間のものさし」との間には絶対的な違い・距離がある。「人間のものさし」がちょびっと伸びたところで、結局「神のものさし」からしたら何も変わらないという立場。
人間(私)は結局「人間(私)のものさし」を用いて、決定的に間違えながら生きていき、神に赦しを請うのみ、という立場。

1の立場の人間は、
なぜ私はこんなに醜いのか。正しいことを知りつつも誤ったことを求め、自己愛に満ちた想いを無限に沸かせ続けるのか」との嘆き苦しみを生み出しうると思います。また、自分がうまく行っているときには、「自力」を頼って傲慢になりがちかもしれません。
一方、2の立場の人間は、
「あぁ、また間違ったことをしたな。でも、それが人間だ。憐れみ深い神さまに、今日も赦しをお祈りしよう」と、悩みをすぱっとすり抜けられるのかもしれません。こちらのほうが「赦しの宗教」キリスト教の論理がうまく機能しているような気もします。「悪しき」現状肯定が続き全然反省しないという危険もありそうですが(果たしてそれが問題なのかはわかりません)。

2つの立場の優劣なんて、どうでも良いのですが、ぼくは「宗教に向かうような人間」はこのどちらかの立場に振り切っているように思うのです。
1,「善」・「神のものさし」に近付こうと死力を尽す人間。(そしてときに、「人間のものさし」自己愛を直視して悩む苦しむ。)
2,「人間のものさし」の愚かさに対して諦め、徹底的に受け容れている人間。

禅宗でいったら、1,は「はしご禅」と揶揄されることもある臨済宗の、「悟りへの道」を強調する立場。2,は、悟りという目的もなしに、ただ坐る「只管打坐」曹洞宗の立場
この記事でぼくの意見をどうのこうの言うつもりはなく、みなさまにぜひ考えるきっかけを提供したいのですが、この12の立場を両立させて、バランスよく生きていくことが大事なのかな、と思ったのです。
「神のものさし」・「善」・「自己愛・我執からの解放」を死力を尽くして目指しつつも、
「人間のものさし」・不完全さ・弱さ・悟れ無さ・空しさ、に対しては「あきらめている」、焦らず厭わず受け容れる。
自分が不完全で弱い人間であるということを足場として、そこに両足を突っ立てた上で、「神」「善」への道を一歩一歩焦らずに歩むということです。

キリスト教・死後の「神の国」という希望。

キリスト教の論理では、死後に神の支配(国)が訪れます。(現世においても神の国は働くようですが)
死後の神の国においては、人間は現世における「不完全さ・弱さ」から解き放たれます。この神の国においては、もう「神」「善」と「自己愛」との間での矛盾はありえないということです。「人間のものさし」を棄てて、「神のものさし」と一致するということです。
これが、希望でなくてなんでしょうか!死後のこの安らぎ、矛盾・苦悩からの解放があるからこその「現世での不完全さ」。それなら、今生でもなんとか頑張る気も起こってくるというものではないかと、思ったのです。
死後の救いが「希望」であることの意味に少し触れた気がします。
死後の「完全さ」・神の完全さ、があるからこそ、現世の「不完全さ」・人間の弱さを受け容れられる。
ここで不条理が条理になり、苦悩が希望になります。

(この「救いの論理」を深めるきっかけになったのが、クレルヴォーのベルナルドゥス『恩寵と自由意志』です。
楽園でのアダムと、現世を生きる私たちと、神の国における永遠のいのちとが、どのように違うのかを論じています。⇩の中世思想集成に所収です。)
(また、神による創造と悪の問題については、山田晶さんの⇩が「生きねば」という視点からは素晴らしいと思います。)


キリスト教入門記[4]「自己内矛盾の苦悩」を通して私を導く神

2019年4月1日

西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

2019年2月1日

矛盾する欲望を乱立させる人間の悪(カラマーゾフ長男の叫びから)

2018年9月5日

2 件のコメント

  • 二つの立場は、テーマを鋭く理解させる区別ですね。
    完全に第一タイプの者としては、第二という信仰は興味深いです。
    「決定的に間違えながら生きて」いく。第一も間違いますが、間違いたくない欲がある。対して第二には潔い諦念がある。(臨済宗と曹洞宗、にへええ、です)
    第二タイプにも、というか第二タイプにこそ、神の超越性への徹底した敬虔な信仰がありますね。諦念が居直りに転換しうるのか、ここがとくに興味あるところです。居直りつつ信仰が保たれうるのか。

    主のはからいに対して人の命はあまりにも短すぎます。ばさばささんが、ものさしの話から神の国、希望へとつなげたのは、必然だと思います。「神さまの善や愛、ひいては世界の働きそのものを信じる」ならば、おのずと神の国を信じ、希望を抱く。
    まったく無意味で理不尽な不幸が数あまたあり、そこにある善い意味は、個々の人間が生きている間に解らない。その解らなさにおいて、「有限の人間にはわからないだけ」という無限性を前提する言明を信じることは、人間としては体験不可能なものを信じることです。さらに、そこには善性がある。
    神様は、人間に「有限なのだ、あきらめなさい」と言われるのではない、「善いようにするから安心しなさい」と言われている。
    信じることと希望があることは、切り離せないですね。

    • いつもコメント有難うございます!
      「間違いたくない欲」まさにそうですね。自分に対するプライドというか、要求の高さというか。
      その要求の高さが、「不完全で弱く過ちに満ちた人間」であるレベルを超えてしまうと、それはやはり傲慢になってしまうのだと思います。正しく「自分の姿・弱さ」を見留めることができていれば、傲慢ではないのかもしれません。(それが良いのかはわかりませんが)
      「居直りつつ信仰は保たれるのか」。気になる思いもありますが、それはやっぱり、気にしてもしょうがない、主とその当人におまかせするべきであることのようにも思います。
      「有限の人間にはわからないだけという無限性を前提する言明を信じることは、人間としては体験不可能なものを信じることです。」
      素晴らしい視点ですね!人間と神との絶対的なギャップを(体験不可能なものであるのだけれども)前提として信じるということ。veronicaさんのおっしゃるこの「信仰」には、大切な「信仰」観があると思います。
      「言葉にして網羅することのできる一つの体系」を信じることと、「無限性を含むものを信じること」は、信仰の在り方として全然違うように思います。神を信頼するからこそ、神の内にある「不可知性・無限の余韻・余白」をそのまま飲み込むことができるのでしょうか。
      「わからないのだけど」神のはからいは善であると信じて、「信仰する」のが大切な信仰であるように思います。ここに、網羅された「律法」を守ることに心血を注ぐ律法主義的な信仰との違いもありそうです。
      「善いようにするから、あなたに理解できなくとも、信じて任せなさい」ということですね!
      ステキなコメントありがとうございました!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。