「変人大学生」は学生のうちに自分の幸せとは何かを探求すべき!

「大学時代にすべきこと」といったテーマの本やネット記事が世間には溢れています。こうした類の記事は、「~はやっておいたほうが良い」といった論調ばかり、ただ「即席の安心」を与えるだけな気がして、ぼくはあまり好きではありません。
けれども、需要はあるのだと思います。
だからぼくも、「変人」大学生の方々(サークルと旅行ばっかしのマジョリティ大学生たちとは噛み合わない感覚を持つ大学生)に向けて書いてみます。(由緒正しい変人はそもそも自分の頭で考えるので、この記事は、自らが変人であることを自覚していない「隠れ変人・潜在的変人」向けかもしれません。笑)
マジョリティ・周りに合わせていても幸せになれない「変人」の方々は、大学生の間にこれでもかこれでもかと、「自分にとって幸せとは何か」を考えて「自分自身の生き方」を試行錯誤しておいた方が良い、という話です。
でないと、あっという間に流れに乗って社会人となり、いったい何のために働いているのかもわからないのに、忙しくて考える暇もない、という「最新モデルの牢獄」に入所することになります。

なお、「どうすれば食っていけるか」なんてぼくにはわからないし、そんな一般論は「安定に見える道」を教えて安心させ、問題を先送りにするだけだと思いますから、書きません。
(そもそも「食いっぱぐれないか」どうかは、その人が何に喜びを見出し、どこまで「金に頼るのか」によって全然違います。だからまず考えるべきは、「自分にとって何が幸せ」かです。そうしてから初めて、「手段としての金」の話が始まります。)
(本記事では「マジョリティ大学生」と言ってあまりに薄すぎるイメージで切り捨てていますが、実際に生きる大学生はもっと多様で、「マジョリティ」に見えてめちゃめちゃ自分の人生プランを持っていたり、フッと生きる方向性を180度転換して行く方もいます。とにかく、「変人大学生」諸氏におかれましては、「自分の道とは何か」に徹底的に集中すべきと思います。
結局のところ、持って生まれた思い通りにならないこの身、能力、思考で、精一杯に考えて生きるしかないのです…。)
今回の記事は「死に物狂いで考え、実践しなくちゃいけないよ!!」という姿勢の話です。

「みんなと一緒」でも全然楽しくない「変人」たち

世の中には、「みんなとだいたい一緒に生きて、だいたい一緒のことをして、楽しくやれれば幸せだ」と言い、実際にそう感じている人々がいます。彼らは「何が自分にとって幸せか」なんて考えなくとも、幸せに生きていけるのかもしれません。
言わばマジョリティ人間深く考え抜かずとも、幸せを感じて生きていける、恵まれた人たちです。彼らこそ、真に時代に愛された者たちなのかもしれません!
なんて冗談はさておき、彼らにとっては「何が幸せか」なんて問いは時間の無駄で、「そんなことよりバイトで稼いで旅行行こー!」ってな感じかもしれません。別にそれで良いのです。各人には各人の生きるべき道があり、そこに優劣はないとぼくは信じています。

しかし幸か不幸か「変人」は「だいたい一緒」のことに幸せを感じませんし、そんなことには納得できません
第一、「常識的意見」がこれまでアテになったことがあるでしょうか!
ぼくの経験を話しますと、現役のときは早慶を目指し、MARCHのとある大学一つに受かって「浪人して学力が落ちる場合だってあるのだから、とにかく受かったところに入れ」と言われました。でもぼくは自分がこれから何をしたいのか(何を専攻したいか)さっぱりわかりませんでしたから、アルバイトをして学費を稼ぐことを条件に浪人しました。
浪人中も、「俺は文学や哲学をやりたい、人間とは何なのか、考えたい!」と言っては、親や兄弟に、「そんなの今だけだよ、だから就職が良い学部を目指したほうが良い!みんな理想をもって大学に入るけど、入った後は結局勉強なんてしないで遊びまくるだけ、今だからそんなこと言ってるんだよ。お目出たき人ね!!」と冷笑され続けました。
「子どもだから、現実を知らないんだ」とか、「そのうち自分が間違ってたと思うよ」という言葉は、無責任で非常によろしくないと思います。そんなこと言われても、「いや!別に自分で責任をもって自分の道を生きるから、俺には構わないでくれ!別にあとで後悔しても、あなたたちを責めなんてしません。自分で選んだ道なので」と言ってやればいいと思います)

そんで、一浪の末早稲田の文学部は落ちて、過去問もロクにやらずに不承不承で受けた政経に受かり(国語試験で谷崎の『陰翳礼讃』を既読だったからラッキーで受かった)、教育学部か、政経か、というところで、政経を選んだのです。
しかし政経で政治科学・政治哲学をガンガン勉強してみても、やっぱり面白くない。「人間とは何か(近代的自己意識の課題)」がわからないまま、政治について考えて何の意味があるのだろうか、と思いました。それで結局哲学と文学を自分で学び続けました。やたらに厳しい政経の必修単位も両立して取らねばならないのが非常に辛かった。
しかし、政経の単位をしっかり納めつつ、依然として文学や哲学を趣味で読みまくるぼくを見ても、別に周りは「お前本当に文学・哲学が好きだったのか!すまなかった!」なんて言いません。そんな発言、誰も覚えていないでしょう。ていうか、ぼくの大学生活になんて誰も注目していません。笑。
そう、「常識的意見」なんてこんなもんなのです。
「コイツ、なんかおめでたいことほざいてやがるな、とりあえず現実を叩きつけておこ~」てなノリで目についたから言葉を投げつけておいただけなのです。そんな無責任な言葉を信じて、自分のかけがえのない人生、限られた時を浪費するのは、自分を大切にしていないと思います。

さて、「変人」の方々は、おそらくこんな
「他人のアドバイスが一ミリもアテにならなかった経験」を持っているではないかと思います。(あるいは、今まさに、「常識的アドバイス」に違和感を感じつつも、「とりあえず」常識的アドバイスに従っているのかもしれません。それも良いですが、「本当にそれで自分は幸せなのか、与えられたこの生を愛していると言えるのか」は見極めた方が良いとは思います。)
こんな経験をした記憶のある「変人大学生」のみなさまには、自信を持って自分の道を歩んで欲しいなと思います。(次回の記事で書こうと思いますが、「自分の道」を歩むのに必要なのは知識でも思考力でもなく自信と希望だと思います。)⇩はぼくの大学生のときの記事です。

人生記①大学生、哲学への挫折と絶望。普遍的真理なんてどうでも良かった。

2019年4月6日

「自分にとっての幸せ」は自分で感じ、考える

したがって、変人の方々は自分で「自分にとっての幸せとは何か」を、時間に余裕のある大学生のうちに試行錯誤しつつ、考えておくべきなのです。
マジョリティ人間にとっては、考える必要のないことかもしれません。しかしそんなマジョリティ人間の間にいると、気づけば自分の幸せとは何かわからないまま、就職活動が始まっています
「何でその業界を選んだの?」なんて聞いてみても「福利厚生が良いから」とか「スキルを磨けるから」とか、「マスコミに興味があったから」「金が稼げる」「休日が多いから」とか、そんな理由で違和感なく納得しているのです。
別に彼らが悪いとか、そんな話では全然ありませんただ「自分は納得できるのか」「『みんなとおなじ』道を歩んで、これから先、自分は幸せなのか」という話です。
この「自分は何をしたら幸せなんだろうか」という問いは、本格的に仕事が始まってから片手間で考えられるものではないし、「これだ!」と思ったことを実際にやって、「こんなはずじゃない!違う!」と思い至ってはまた別の道を試す、
そんな繰り返しのなかで、少しずつ少しずつ、わかってくるものだということが、最大の問題です。だから大学時代にガッツリ試行錯誤をした方が良いと、ぼくは思うのです。
「いつかわかる」とか言って、先延ばしにしてはいけないと思います。「いつかわかるはずだ!」と信じながら、全力でいろいろ考え、やってみたって、そうやすやすとわかるものでもないのですから。(また、経験を重ねることで変化し続けるものでもあります。)

以上、今回は「変人大学生よ、流れに乗っていてもお前は幸せになれぬ!
自分の身体と心で、思う存分『自分にとっての幸せとはなにか』を考え、自分が本当に幸福を感じることのできそうな『自分自身の生き方』を試行錯誤されたし!」という記事でした。

また、当「生きねば研究室」の他の多くの記事は、世間的な社会的マジョリティとは異なる考え方や感じ方を打ち出しています。

「大学生向け」というタグで、大学生におすすめできると個人的に考えている記事がありますので、そちらもご参考くださいませ。

ディズニーランドで本気で悩んでるみたいーセブ旅行記

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人生記①大学生、哲学への挫折と絶望。普遍的真理なんてどうでも良かった。

2019年4月6日

人はなぜ宗教を求めるのか①自己への不信・自意識の闇

2018年12月8日

人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

2018年11月24日

 

なお、本記事のアイキャッチ画像は、ぼくが初めて水彩画にチャレンジしたときの絵です。「やってみなければわからんのだ」と右上に描いてあります。実際にやってみて、自分は水彩画に向いていないということがわかりました。

4 件のコメント

  • 19歳の大学2年生です。
    中学生の時に日記をつけ始めてからずっと、自分って何だ、俺って何だ、俺結局何が好きなの?俺何考えてんの?みたいなことをぐちゃぐちゃ考えていて、自分の胸のうちに深く手を突っ込んではよく分からないものばかりが出てきて悩んでいました。

    そんなこんなで出来心に「自分の幸せ」みたいなワードで検索をかけて、くだらないキュレーションサイトやら物事を簡潔に、ポジティブの一点で通そうとするなんだかよく分からないブロガーの記事しか出てこなかったところにこのブログを見つけ、
    「あ、俺と同じ人種の人がいる…しかも俺の2000倍くらいすげぇしっかりした考え持ってる…」と思い、テンション上がりました、同時に悔しくもなりました。笑

    幸福や人生に対する考え、具体的に何をすべきかというものは自分で考えついてこそ自分にフィットすると考えているので、僕はばさばささんのブログの意見を丸呑みすることは無いと思います。もちろんこれは、いい意味で。

    ですが、ばさばささんの、”もうちょっと具体性を持たせたアドバイス”を知りたい、とも思いました。
    ショーペンハウエルの「読書について」を読んでからというものの、自分の頭で考えることのみが正しいという強迫観念にも似た価値観が頭にチラ付くので、人生について、幸福については他人の考えを一切入れることが無いようにしていました。(完全にはじき出すというのは無理ですが…)
    ですがばさばささんの考えは非常に興味があります。回りくどいコメントになってしまい申し訳ありませんが、是非ばさばささんの、自分の幸せを考える時の具体的なアドバイスを少しでも拝見したいです。

    • 匿名さま

      コメント、楽しく拝見しました。ありがとうございます。
      大学生の若い情熱を感じる、すてきなコメントですね!
      ぜひ、思う存分試行錯誤されて、匿名さんの道をずんずん歩んでください。

      さて、「自分の幸せを考える時の具体的なアドバイスを次の記事で書く」とこの記事に書いてはいましたが、そんなことはまるっきり忘れていました。

      いま考えてみても、記事なるようなアイデアは思いつかないです。ごめんなさい。
      なので、いま考えながら思うことを書いてみます。ご参考になることを祈ります。

      まず、「自分の幸せ」を感じ、考えるとき、
      「自分のエゴの満足による幸福感」と、「自分の存在をも忘れるほどの純粋な喜び」をはっきり識別することが大切な気がします。
      前者の「エゴの満足による幸福感」は、「エゴ」と言う如く、「他者との比較」の上での満足感であり、他律的なものです。
      評価や成果によって、他者から評価されたり、自分の頭の中で「自分は優れた人間だ」と考えることによる満足感です。こちらの「他者に依存した満足」は、「幸福」という名には値しないものだと思います。
      結局、他者と自分の能力・認識によるもので、ただの思い込み・ラッキーに過ぎないと思うからです。

      このブログ記事で「探求すべき」と言っているのは後者の意味での幸福です。
      それは、自分の心の内側から溢れ出すものです。頭でいちいち考えずとも、意識せずとも、自ずからこころが満たされているようなことです。
      こうした「幸福を行っている」ときは、むしろ「自分がいま幸せか」なんて考える必要もないくらいに、満たされているのではないかと思います。
      「生きる喜び」です。「それを生きる」こと自体が、そのままに幸せなのです。

      以上の識別がなぜ大切なのかと言えば「自分の幸せはこれだ!」と思っていることが、じつはただの「エゴの満足」に過ぎないと気づくことが、ぼく自身にもあったし、きっと陥りやすい罠だと思うからです。
      自分の良心に対してどこまでも誠実に「誰がなんと言おうと、どう評価されようと、全くの無意味であろうと、私には『これ』が幸せなのです。」と言えるかどうか、ということだと思います。

      せめて一つだけでも具体的なアイデアを書くとしたら、
      「なにが自分にとって幸せか」なんて先回りしてあんまり考えないで、とにかくいろいろなことにチャレンジしていくということだと思います。
      世界は全くの無限です。人間の頭は「既に知っていること」を組み合わせて考えることしかできません。
      自分ひとりが経験し、知っていることなんて、無限の果てから無限の果てへと続いてゆくこの四次元宇宙からしたら、塵一粒の粒子のさらに塵一粒の粒子みたいなものです。
      そんな小ちゃな素材だけで、足したり引いたりして人生を考えているのが私たちです。
      ところがどっこい、現実の世界のうちには、「自分の頭の中の足し引き算からは永遠に生まれないこと」が無数に眠っています。
      まったく考えることすらできないことが、現実のうちにはあります。(ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にはこの点、感動しました!)
      聡明な匿名さんにはもうこれ以上言葉を費やす必要はないでしょう。

      また何か思うことがありましたら、他の記事でも、コメントを頂けるととても嬉しいです。
      SKYPEで相談・雑談などもやっていますので、もしご興味ありましたらどうぞ。
      今後ともよろしくです!良い学生生活を!

      海野つばさ

      • 匿名です、名前を設定し忘れておりました。。。。
        返信本当にありがとうございます。何度も読んでスクショしてお気に入りに入れております。。。。

        私は今まで頭の中に答えがあるような、考えればその先に自分なりの「何か」が待っているという考え方でしたが、ばさばささんのコメントを読んで自分の中で「”考えること”と”生きること”を螺旋階段のようにしてこなすことがいちばん大事なのかもしれないな」という小さな気づきを得ました。

        特に自分はこの流行病のこともあり家にこもって本を読んだり考えたりしていても、どうにも空ぶかし感が否めない毎日を送っていましたが、社会が少しずつ元に戻りつつある中で外に出て友達と会い、話し、ということをしていたら自分の考えることにもハリがでるというか、気持ちのいい感覚を少しだけ覚えました。

        もしかしたら、これが、ばさばささんの「生きねば」という言葉の意味の一つなのかもしれないなと思いました。(勝手ながら….m(_ _)m)三島由紀夫がなにかの本で「若い身分で書斎にこもっていてはいけない、外に出ろ」というようなことを言っていたのをいつだか読み、その時は「ほーん」としか思いませんでしたが、少し腹落ちしたような感じです。

        >「なにが自分にとって幸せか」なんて先回りしてあんまり考えないで、とにかくいろいろなことにチャレンジしていくということだと思います。

        大事なところを見落としていたように思います。確かに、幸せな時にそれをラベリングするというか、「幸せだ~~」と自分に強調することなどないかもしれないな。。。。。と。

        まとまりのない文章になってしまいましたが、自分の拙いコメントに対して非常に厚みのあるコメントを頂き本当にありがとうございました。
        また、コメントをさせていただきます。SKYPEについてなのですが、興味があります。
        ばさばささんのアドレスにメールを送ればよいでしょうか?

        • 港さん

          ご返信ありがとうございます。
          ちょっと押し付けがましくコメントし過ぎてしまったかなという想いもあったので、
          安心しました。嬉しいです。
          螺旋階段を降りながら、考える。歩きながら、生きながら。
          とても的を得た象徴ですね!
          やはりぐるぐる、迷いながら、行ったり来たりして、死の際まで生を深めていく、生きていく、そんな思いも湧いてきます。

          コロナ禍による生活の変化に、ぼくもたくさんのことを学ばされました。
          ぼくは大学生の頃なんて、世間・社会とは全く遊離したところで考え、生きていました。
          港さんはきっとこれからも多くのことを学ばれるんでしょうね。どうぞ学生生活、大切になさってください。

          「生きねば」はやはり実存的な、
          その人にとっての「生きねば」だと思いますから、港さんの「生きねば」が即、
          港さんにとっての代え難い「生きねば」だと思います。

          三島由紀夫、理想を本当に現実化しようとした人という気がします。
          自決というのも、1つの「生きねば」なのかもしれないなと思い浮かびました。
          1つの死に様を提供するという「生きねば」…少なくとも、現実へ正面から向かって生きていた方だろうと思います。

          ごちゃごちゃしてしまいましたが、Skype通話、ぜひさせて頂ければと思います。
          Skypeをダウンロードして、アカウントを作って頂き、live:basabasaikineba で検索して、
          チャットを送っていただけたら、そちらで時間などを合わせて通話致しましょう!

          コメントも、もしお時間ありましたら頂けると嬉しいです!
          ぼく自身も読者の方のコメントのおかげでたくさんのことを考えられますし、ブログ運営の励みになります。

          ではまた、通話で!

          海野つばさ

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。