人生記①大学生、哲学への挫折と絶望。普遍的真理なんてどうでも良かった。

こんにちは!いつもお読みいただき有難うございます!ばさばさです。
いつも偉そうなこと言ってるコイツは何なんだ、なんて思っていらっしゃる方も多いと思います。たまにはぼくの迷いに満ち溢れた人生を記して、反面教師にでもして頂きたいと思います。
また、コイツと会って話してみたいな、なんて思ってくれる方がいたら嬉しいです。(ぼくは、「生きることに悩んでいる人たち」と直接あってお話を聞きたいという気持ちを強くをもって、こうした発信を行っています。

大学入学後のニーチェ=ショック。「我は何を欲すれば良いの?…」

一浪して早稲田大学に入学したぼくは、じめじめした浪人生活・受験勉強から解放されて、天にも昇らんとの気持ちでした。そしてそのまま地には降りずに、天の知識、「本当」の知恵を求め、「ぼくは(人は)どう生きるべきか」という問いに正面から向かいます。
それで哲学書を読み始めました。はじめはやはり、ギリシャから。でもギリシャの「まともさ」に面白さを感じられず、みんなだいすき実存主義の方面に向かっていきました。(今回は哲学についての記事ではないので、さらっと流しちゃいます。)

一つの転機になった本はニーチェの『道徳の系譜』でした。別の記事にも書きましたが、ぼくはこの本を読んで、「真理がないこと・道徳の無意味さ」に、まともにぶつかってしまったのです。
「この世に真理なんてない」とはよく言われることです。しかし「正しいなんてものは存在しない」ということを肚の底に落とし込んだとき、「じゃあなんで生きるんだろうか」という重たい問いが現れます。
(始めから「正しさ」なんて求めずに、自分の満足のために生きる人にはこんな悩みは生まれないでしょう。
ぼくは「正しさ」あるいは「何かあるはずだ」という希望を胸に生きていたのでしょう。)
それなりに「倫理道徳」を大事にして生きてきたぼくにとって、「正しいことなんてない」とは…。
これまでの生の基礎・エネルギーを否定された気持ちでした。「何の意味もないのに、我慢してきた」というか、「裏切られた!ちくしょうが!」という気持ちです。
「道徳は弱者のルサンチマン」「隣人愛なんて、傷を舐め合う畜群道徳だ」などなど、そんな言葉をぶつぶつ言って、早稲田の下町を徘徊していた記憶もあります。
じゃあ何が正しいのか、ニーチェは「価値創造せよ!自分自身が世界を解釈し、この無意味な世界にお前の正義を打ち建てろ!」と言います。
ニーチェ大先生の弟子となったぼくは、「はい!先生!ぼくは『趣味』を!『身体の理性』によってこの無意味な人生に、ぼく自身で真理を打ち建てます!」と鼻息荒く意気込みました。
哲学なんぞに興味のない方に簡単に説明しますと、「世界に客観的な真理も正義もありえない。世界を解釈し、世界に意味を与え、世界に真理をもたらすのは他ならぬお前自身で、お前の魂から湧き出す、お前にとっての真理を掲げて生きろ!」てな感じです。
「自分にとっての真理」といってもマチマチですが、例えば苦しい暮らしの中にこそ、本当の生きる喜びがある!」という世界観を持っているのなら、安楽な暮らしにつながりうる一切の物事を拒否する人もいるでしょうし、
幸福な家庭を築き子孫を残すことが、われわれ人間がなしうる唯一の善だ!」と言う人は、「幸福な家庭」という真理のために、全力を注ぎ込むでしょう。

しかし、それでは「自分は何を真理とするか」となると、ぼくには全くわかりませんでした。
一言で言えば、「他律的に、言われるがまま、流されるがままに生きてきた」ということです。世間の常識を背負うラクダを卒業して、「我欲す!」と叫ぶ獅子にならねばならぬとニーチェは言いますが「我、何を欲していいかわからぬ!!」でした。
「先生!何を欲すればいいのでしょう?」それじゃあ結局、ラクダ以下です。「我欲す!」がないとは、まさに去勢された人間、超人の種(たね)すらもっていない畜群です。
「愛する人を守りたい!」とライダーポーズをしても、当の愛する人がいないようなもので、スタート地点にすら立てていない。「自分にとっての人生」を始めるための道具すら揃っていないというわけです。

人はなぜ宗教を求めるのか④神さま!カミサマ!俺にはどうにもなんねぇ!助けてけろ!

2019年3月9日

ニーチェ『道徳の系譜』を読む①ー哲学の入門書、倫理学の必読書

2019年2月17日

他人の思想で現実を傍観するだけの者たち、己が身で現実を生きよ!-ツァラトゥストラ

2018年9月24日

全てが無意味な深淵の上で、サルになるか、超人を目指すか。(ニーチェ=ツァラトゥストラ))

2018年9月4日

カントがうつの引き金を引いた。

それからまぁいろいろあって、ぼくは哲学で大学院を目指そうと思いました。自分にとっての真理がわからなかったし、生涯、本を読んで考え続けたかったという想いもあるでしょう。。
そうしてぼくは、「哲学専攻で大学院に行き、研究者として生きる!」という「真理」を掲げて生きることにしたわけです。
どう生きたら良いか、何が正しいのかもわからない。ぼくに残されていたのは「哲学」だけでした。今にして思えば、とんでもない視野狭窄ですが、もうあとのないぼくは哲学に飛び乗り、そこにすべてをかけようとしたのでしょう。
それで、王道とされる哲学書を読み、それを片っ端からレジュメにまとめまくるという「夢に向かった希望に溢れた道」(しかし地獄の作業)を歩み始めました。
それで、同じように哲学が好きな友達がカントの『純粋理性批判』を読み始めたと聞いて、ぼくもそろそろアイツにチャレンジしようと、いよいよ『純粋理性批判』を読み始めました。大学二年の夏休みを、朝から晩まで丸きり使って…。
さぁ、そうしてぼくは、地獄の底まで叩き落とされることとなりました。なぜって、全然おもしろくないのです!いくら読み進め、まとめても、カント先生は次から次へと全く新しい分野に進んで行くのです。
「もうやめてくれ!これ以上話を進めないでくれ!」と何度叫んでも、カントはぼくを置き去りにして進み、次から次へと、人の認識のメカニズムを暴いて行きます。
それどころか自己意識の後ろに回り込んで、「統覚」がどうのうこうのとやり始めます。俺の後ろに誰かいるのか!「あなたのもとは統覚なのです」とカントは言いました。
冗談はさておき、ぼくは「ほんとは自分は哲学が好きでもなんでもないこと」を思い知らされたのです。何のやりたいこともない、先の全く見えない人生の中で、とりあえず「哲学研究者になる」という枠組みを作ることで安心したかっただけではないか?
「何者でもないこと」に耐えられなかっただけなのではないか?
自分の人生のあらゆる「劣等感やマイナス」を、「哲学研究者」という「正義」でもって挽回し、「自分はどうしようもない人間ではない」と思いたかっただけなのではないか?

結局、弱くみじめで、孤独で人にも好かれぬ「どうしようもない自分」を受け入れることができないだけじゃないのか?
こうした「表舞台」では負けていて、ズタボロにされている人間が、「俺はそこでじゃなくて、もっと高尚な、もっと優れた舞台において戦っているのだ」思い込むとによって、「俺は負けていない、むしろお前らが負け組だ」とする態度は、
まさにニーチェが告発したルサンチマンです。
(俺はこの世のことなんかに興味はない、お前らに好かれなくとも良い、深遠無限なる哲学、「いかに生きるか」という問いの前に、お前らはくずだ。何も考えていないお前らはくずだ。俺は違う、俺は探求者だ!なんて具合だったでしょう。
(詳しくは『道徳の系譜』の記事をご参照ください。

ニーチェ『道徳の系譜』を読む①ー哲学の入門書、倫理学の必読書

2019年2月17日

ニーチェ『道徳の系譜』を読む②ー弱者のルサンチマンが生んだ道徳

2019年2月17日

「あぁ!人は己にすらダマされるのだ!!自分を自分に嘘をついて、そのことに気づきすらしない!あぁ!俺は愚かさそのものだ!」という、
「自己・人間不信」「自分が一切信じられない」ということに、引きずりこまれました。
「きっとまた適当な目標を立てて、自分で自分をごまかして生きて、それからその誤ちに気づいて……俺はこんなばかみたいなことを繰り返して、これから先も生き続けていくんじゃないか…」出口のない、絶望です。
「自分がどれだけ考えて、どれだけ反省したって無意味、結局俺は過ちそのものなのだ。過ちそのものがなにをどう決心したって、なんにもならない。あとで自分に『復讐』されるだけだ」と。
これについて、「人はなぜ宗教を求めるか」でバカみたいに繰り返し書きましたので、そちらをどうぞ。病んでも責任はとれません笑、というより、その病みをよいきっかけにして、自分自身の道へ向かって頂きたいと思います。

人はなぜ宗教を求めるのか④神さま!カミサマ!俺にはどうにもなんねぇ!助けてけろ!

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人はなぜ宗教を求めるのか①自己への不信・自意識の闇

2018年12月8日

人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

2018年11月24日

また、もう一つぼくの絶望に追い打ちをかけていたのは、日々の哲学の読書を完全にノルマとして捉え、それに死にそうなくらい追われていたことです。
これはぼくの悪い癖で、何か一つの目標を立てると、完全にそのヒエラルキイを自分の日常生活に持ち込んでしまい、生活をぐいぐい締め込んでしまうのです。
哲学書を読む以外はすべて「時間の無駄」であり、他のことをしている間は、「あぁ!この時間を読書にアテられていたら!どうやってこの無駄にした時間を取り戻そうか!」と、なってしまうのです。バランス感覚がないとも言えます。ブラック企業に入ったらまっすぐ自殺に向かってしまうタイプです。共感できる人もいると思います。
このぼくの傾向については、中高生のときの記事が参考になるかもしれません。

人生記③部活の引退という「神の死」。「無意味」の世界に放り出される。

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人生記②遊んでいても何か空しい小学生から、狂信的な部活少年へ。

2018年8月4日

自分が求めているのは哲学(普遍的真理)ではない

これらの経験を通じて、「ぼくが読むべきなのは、求めているのは哲学ではない」ということに思い至りました。(いや、もっと手付かずの、どうしようもなさだったでしょう。)
ぼくは、「自分が全身で信じられる一つの答え、一つの世界観」を求め、それに基づいて自分の人生を生きていくことを求めているのでした。
しかし哲学は理性や論理の力を通じて「誰もが認める(普遍的)な真理」を求めようとするものです。そこで求められているのは「証明」です。その「真理」がどのようにして導き出されていくのかという、「過程」です。
例えば「哲学」は、「なぜ人を殺してはいけないか」を、誰もが納得しうる形で説明しようとします。「そんなの当たり前だ!」と切り捨てるのは哲学ではありません。
「論理以前に、命を奪うことに抵抗を感じない人」にとっても、納得できるように説明するのが哲学の使命とも言えます。(あるいは「人を殺していけない、というのは論理的な問題ではない」ということを証明し、まわり道であれ殺人を否定します。)
この「いかに生きるか」を求めて哲学を学び始めるというのは、かなり日本独特な事情だと思います。哲学を求めて期待を裏切られるぼくみたいな人は、わりといるんじゃないかな。
欧米なら、それに応えるのは宗教です。だからこそ日本では「宗教哲学」という正直わけのわからない分野が栄え、人気を博したのでしょう。(明治時代に宗教の生命をぶっ殺された日本は、ぼくよりずっと迷走しているのです。)
一言でいえば、「ぼくは自分が全身で信じ、全身で追求できる思想・世界観」を求めているのであって、論理的証明なんてどうでも良かったのです。論理ではなく、感情的に、直感的に「魂を揺さぶる一文・思想」に邂逅できればよかったのです。
そしてその「全身で信じられる思想」を自分が生きていくときの「拠り所・判断基準」として、自分は何をすべきかを判断し、実践していくのです。
これは「ぼくにとって」の真理で良かったのです。それは哲学に求めるべきことではありません。(論理の権化的な人間はそれを哲学に求めるのかもしれません。)
人間は理性だけ、論理だけを通して生きるものではありません。むしろ「理性や論理」を超えて、全身で感じることこそが、人生にとっては大事なことだと思います。
その筆頭は、「愛」です。自分のことも忘れて相手を大切に思う愛は、はたから見ると「不合理」そのものでありえます。
なぜ親は我が子だけを特別に想い、目に入れても痛くないのか、なぜ「他の子」と我が子は「違うのか」。わけがわかりません。
(もちろん、愛を理性的・論理的に証明し、根拠付け、権威付けることも哲学の大切な仕事であり、そうした著作も多いでしょう)

なお、当ブログ[愛・倫理]カテゴリーの記事は、論理や合理性を超えた愛について書いています。

西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方様(安泰寺)「why(なぜ生きるか,生きる意味)を徹底してこそのhow(いかに生きるか)」

2019年3月16日

殺人犯の苦悩を見つめる。『罪と罰』ソーニャのまなざし。

2019年2月8日

頭の中では隣人を愛し、現実では憎む…人間の愛の矛盾。『カラマーゾフの兄弟』から。

2018年9月13日

小さな一つの慈悲が人を救う。『カラマーゾフの兄弟』一本の葱に寄せて

2018年9月9日

だいぶ、わけのわからない、筋の入り乱れた話になりました。しかし、筋なんてある意味虚構です。より良い虚構のために整理して、現実を殺すよりは、ごちゃごちゃのままが良いとぼくは思っています。人生なんて、語るたびに変わるもんです。むしろ変わらなくなったとき、それはもう、「自分についての虚構」でしかないでしょう。
次回は文学・宗教哲学・臨済禅の修行開始、といった話になりそうです。お楽しみに!
期間が空いてしまったせいか、同じノリで細かく書くことができなくなってしまったため、前後編の2つの記事にて新しく語り直しました。すみません。

人生記前編「生きることに悩み禅道場へ。一杯の味噌汁に涙する」

2020年1月5日

あの頃〈Ⅰ〉さきには何の希望もみえなかった

2018年4月23日

おすすめ哲学入門書など

哲学の大きな流れについては木田元の『反哲学入門』が名著です。近代までの「真理探求の哲学」と、近代以降の「真理を解体する哲学」とを対比させ、後者を「反哲学」として捉えます。哲学の歴史超大の枠を掴むのに適していると思います。
「自分が求めているのは哲学か、反哲学か、あるいはそもそも哲学(普遍的真理)なんて求めていないのか」を考えてみると良いでしょう。(随時追加していきます。)

12 件のコメント

  • 自分も哲学→宗教ですが、ばさばささんのような高性能の頭脳とそれゆえの軽快さがなく、ずるずると地続きで移行したように思います。カントやスピノザのような、しつこく論理に誠実であろうとする思考自体に愛おしさと真理を感じる傾向もあり、ばさばささんは反対にそこに退屈さを感じられるのかもしれません。それゆえの軽快さで、思考に風のような自由を感じます。
    豪快で徹底したニーチェも大好きで、実存主義にはやはり心を掴まれました。無根拠な世界で、「自由」なのに不自由な在り方しかできない息苦しさのなか、「時空間を超えたい」と本気で思っていました。体験としてではなく生として。その可能性の芽は哲学にあるとし、とくにウィトゲンシュタインの著作には感じるものがありました。いつでも懐疑的であることから離れませんでした。
    今もそのまま頭でっかちな信仰でもがいてもいますが、哲学なんて、と言われるばさばささんもまた、確実に理性的であると感じます。理解が迅速で徹底さがあるため、じりじりと論理で詰めていくような哲学書からからは得るところなしと感じられたのかななど思いました。たしかに近代哲学の著作には、(うん、それはもうわかった)というよなうことがらがしつこく書かれてたりしますね、論駁が必要な世論や権力があったのでしょうが。
    「ぼくにとっての」真理といっても、けっして主観的な視点にとどまってはいないですね。明晰に言語化し、広く知らしめ、普遍性を備えていると思います。

    • コメントありがとうございます!
      ご自身の体験を教えていただき嬉しいです。
      ぼくは「論理・積み上げ」によってではなく、「直観的・感覚的」に、人に様々のことを訴えかけたいのだなと、再確認しました。
      一度は「物語小説」にチャレンジをして折れましたが、これは「物語による感動・共感」によって何かを伝えたいわけでもなかったということかもしれません。
      「直観的・感覚的」に伝えたいとは、生の現実の、リアリティを通して伝えたいということかもしれません。
      京都学派の宗教哲学にハマったのも、いわゆる「脚下照顧」、視界よりも手前にある生のリアルな実感を根拠に、大胆に生の大問題に切り込んでいくところが好きだったのかなぁなんて、思いました。永井均さんや古東哲明さんにもこのあたりで惹かれているのかな。
      ぼくの小説の読み方も、きっと物語よりも、リアリティに強く反応してるのだと思いました。
      様々な気づきをありがとうございます!

  • 私もばさばささんにかなり似た道筋を通ったように思います。

    なぜか哲学=人生論みたいなもの、と勘違いしていたんですね。

    私も今では、「自分が求めるのは誰もが納得するロジックじゃねえ!自分だけが納得できるものを求めているんだ!そこに理屈は必要ねぇ!」という感じです。

    • 宗教がほぼ死にかけている、日本ならではの現象な気もします。笑
      真理ではなく、どう生きるかを求めるという…
      良い感じですね!笑
      もうすぐアップする信仰についての記事も、まさにその論点です。よければどうぞ。
      コメントや質問などもお気軽に!

  • 何故か突然画面がかわってしまったけど、少し前に書いた私の言葉は届いたのかな?
    哲学に人を殺してはならないなどということは無いと思うよ。
    生物は人以外にも沢山居るのだから。

  • 人とは何か?
    単純です。
    獣です。判りやすく言うと動物です。一般的にはanimalと言った方が判りやすいが。
    それ以上でも、それ以下でもない。
    ニーチェが、「神は死んだ」と語った時点で人としての歴史は終わったのです。
    これからの人の社会を考えると、動物である人の知能が、システマチックなものが価値と利益をもたらす世の中に成ってきている事を考えると、ひょっとするとAIに人という動物が知らないうちに従うという………。

    • 麦島 三子夫 さん
      コメントありがとうございます。
      参考文献にamazonリンクを貼らせていたがいた『何故人を殺してはいけないのか』において、永井均と小泉義之が議論しています。メタ倫理学と言ったほうが良いのかもしれませんが。
      「人とは何か?
      単純です。
      獣です。判りやすく言うと動物です。一般的にはanimalと言った方が判りやすいが。
      それ以上でも、それ以下でもない。
      ニーチェが、「神は死んだ」と語った時点で人としての歴史は終わったのです。」
      言っている内容は理解できますが、ぼくはこの意見に賛同できないと思います。
      人間は、「超越に向かう傾向を持った、超越的存在である」と思うからです。カール・ラーナーや、K・リーゼンフーバーの宗教哲学の立場を参考にしています。
      外側から見たとき、人は確かに動物です。
      しかし実存の奥へ、意識の源へと遡って行ったとき、そこには「私=世界そのもの」でもありえるような世界があると思います。

  • 自分の中に何もないと生きる意味を必死に探すふりをすると楽になりますよね。哲学はそういった人間の言い訳にも使われるので本気で哲学に取り組む人と哲学に取り組むふりをする人で全然違うなと思うことがありました。
    前者は実践をし自分が傷つくことも許容しますが後者は哲学を使って自分の身を守り他者を傷つけて良い理由に利用するのです。自分の実感にばさばさ様がどう思われるかご意見をうかがいたくなりました。よろしくお願いいたします。

    • めるとさん

      コメントありがとうございます。
      めるとさんの上記の実感には僕も共感します。

      本気で取り組むとは、自分の感情に振り回されず、対象に即して取り組むということだと捉えると、
      哲学に限らず仕事,趣味,ペットの飼育など何に対しても,
      本気で取り組むか,
      自分の感情、エゴのために取り組むかの違いは、ありえることだなと思いました。
      そして、エゴのために何かに取り組んでいることは,
      対象の側(他者)からのフィードバックによって、自分にも明らかになり、反省の機縁になると思います。

      シンプルに言えば,自分をわきに置いて、考えることができるのか、ということです。簡単なようで困難です。

      そこで哲学(思索)が自分ひとりの頭の中だけで行われた場合、
      その歪みが正される機会なしに、どんどん独善的になってしまうことがあると、自分の体験も含めて思いました。

      なにに取り組むにせよ
      世界との関わりとともに行われなければいけないな、
      そして、世界(対象)からの応答に開かれた柔らかい心でなくてはならないな、
      と改めて感じました。
      考えるきっかけを、どうもありがとうございます。

      ばさばさ 拝

      • ばさばさ様 返信ありがとうございました。世界からの応答に開かれた柔らかい心でなくてはという言葉、とても良いと思いましたのでメモさせていただきました。
        反省せずに歪み続け独善的になると孤立してしまいますよね。自分のせいなのに世界が嫌いになり生きる意味がないと嘆いたり分かってくれない他人を責める人ではなく自分のせいだからどうにかしようと苦しくても世界を愛するために立ち上がる人になりたい。このブログで勉強させていただきます。

        • めるとさま

          世界自体、どんどん歪んでおかしな方向に向かっているように思えるこの現代で、どうしたらバランスを保ちつつ狂わずに生きることができるのか、どこに身をおいたらよいのか、とてもむずかしいです。ぼくもわからずにいます。
          真剣に物事を考える人、正義感の強い人の方が悩むことの多いような気がして、そんな世界には本当に参ってしまいます。
          ぜひ、立ち上がって生きねばする人になってください。応援しています。
          この拙いブログがすこしでも参考になれば嬉しいです。ぜひまたご意見もお聞かせください。ぼくも毎日、すこしでも前向きに、生きねばをがんばります。

            ばさばさ 拝

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。