人生記③部活の引退という「神の死」。「無意味」の世界に放り出される。

前回の記事を書いていて、一本の解釈スジから自分の過去をまとめあげ切り捨ててしまうことの暴力性が気になりますが、考える素材の提供ということで、思いきり切り捨てて行きます

一つの「神の死」としての部活引退。秩序世界からカオスへ抛り出される。

部活の引退は僕にとっての生きる意味の喪失でした。生の根拠、動力源の消滅でした。審判者=スポーツの神から捨てられたこと、と表現してみましょう。
神は大会の成績も含めた「自分の強さ」というご褒美によって、僕の生に基準(倫理)を与えました。そのスポーツの枠で世界を閉じ囲んだスポーツ神は、そのスポーツが強いか弱いかという秩序を与えました。その偽神の世界で、僕は生を練習に集約化すれば報われるのです。実力向上のために日々を生きる。(このあたり、業績のために生きる仕事人間と同じだと思います。)
それには大会の成績という、自分のそれまでの生活を認め称賛してくれるというご褒美が与えられる。「良いことをすれば救われる」ならぬ、「練習すれば報われる」です。スポーツ神の世界には堅い秩序があります

さぁ、部活の引退は「神の死」でした。
部活を引退すれば大会もない、つまりご褒美もない。ご褒美がなければ練習も意味がない。練習が無駄なら毎日の生活も無駄どうしたらよいかわからない。
僕は確固たる秩序を持ったスポーツ神の世界から放り出されてしまったのです。スポーツを失った僕は、生きる上での判断の基準を失いました。それまでは(息抜きも含めて)「そのスポーツの練習にどれだけ役立てるか」を判断の基準に毎日生きていけば良かった。
だが今や、毎日何をすれば良いのかもわからない。定年を迎えた仕事人間ももしかしたら同じように感じるのではないでしょうか。

「いままで何をやってきたのだろう」突然に無意味に曝される生

しかしその判断基準が失われた。スポーツ神の世界から放り出され、無秩序な世界へ
部活を引退した僕には、何の趣味も楽しみもありませんでした。僕はただ何をすればよいのかわからない日常の前に呆然と立っていました。
「一体これまでの人生は何だったのだろう」「今まで何をやってきたんだろう」
僕はスポーツ神が偽の神であったことを知りました。自分は今まで騙されていたと、自分が作り出し服従していった偽神なのに、たいそう呪いました。
大げさに言えば、「生きることのむなしさ」に触れた体験であったと思います。
「ふと我に帰って見れば、無意味無根拠の世界に放り出された自分を見つけ、自分の存在に意味はなく、何の要求もされず、何も求められていない」そんな、多くの人にふと訪れるむなしさ。
僕は一つの理論を徹底化して、自分の生の隅から隅まで秩序付けたいという脅迫、傾向をもっている人間だったと思います。それは「生の無意味」のむなしさを敏感に感じてしまうがゆえの、生き続けるための対抗手段と言えるかもしれません。
それだけ反動も大きいわけです。いままでスポーツ神が隠してくれていた「生のむなしさ」と僕は再び対面したのです。スポーツ神の甘い幻想の世界から解放されたは良いものの、ぼくは裸で、無常の風を受け、生身を切り裂かれることとなります。小学生の頃に受けたむなしさの風が、またぼくにそよいできました。

「意味の甘い蜜」なしには生きる希望がない。「意味がなくとも楽しい」遊戯がない。

今となっては「スポーツ神の死」だなんて大きな言葉で解釈してみせますが、当時はただひたすら途方に暮れていました。
毎日何をすればよいのかわからない。何をやってみても退屈で、何も楽しくない。楽しいことがないから、退屈と現実的な面倒しかないから、生きていくエネルギーもわかない。無気力。
せめて部活の他に楽しい趣味や笑い合う友人を持っていれば、カオスの世界にも足場があったでしょう。人生の中に部活ではなく、部活の中に人生があった僕にとって引退後の世界は、何の意味もない世界、初めて出会うカオスの世界です。
生に意味を与え充実させてくれる、「意味の甘い蜜」を吸って生きてきた僕は、「意味がなくともただ楽しい」という感覚を持ってこなかったと思います。
「意味がなくとも楽しい」遊戯の感覚を養って来なかった人は、「意味の追求、意味への服従」に明け暮れる人生を送るという危険があると思います。
楽しさではなく、「意味を与えてくれるもの」にしか価値を感じない人生です。
徹底的な「意味の追求」の形は、一つの信仰に入ることでも、仕事に生命をかけることでも、芸術に邁進することでも、いろいろな形であり得ると思います。
「やりたいから、楽しいから」やっているのか、「その目的の追求が人生に意味を与えてくれるから」やっているのかには、生きる姿勢として大きな違いがあると思います。
僕は後者でした。「やりたいから」ではなく、「毎日に意味を感じさせてくれるから」部活をやっていたわけです。
こうして僕は部活の引退によって大打撃を受けました。

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。