人生記前編「生きることに悩み禅道場へ。一杯の味噌汁に涙する」

こんにちは、ばさばさ(海野つばさ/あいづち兄さん)です

あいづち兄さんやらこのブログやらをやっているぼくを「一体何者なんだ?」とあやしく思っている方も多いと思いますから、今回は自己紹介記事を書いてみます。
自分がどうして今のような活動を行っているかが少しでもお伝えできたら嬉しく思います。
(以前「人生記」と称して気持ち悪いくらい細かく書いていましたが、なんだか同じノリで続けられなくなってしまいましたので、もう少しシンプルに書き直します。)

かえってもっとあやしいヤツに見えてくる人もいるでしょうが、きっとそれもひとつの事実なので、仕方のないことかもしれません。

浪人し悩み始める。俺はこれから何をして生きていこう。

今のぼくが歩んでいる「ちょっと変わった道」は、大学受験のために浪人したところから始まっているように思います。
現役受験で、「スベリ止め」の大学に1校だけ受かってはいたのですが、
「一体自分はこれからの人生、何をしたいのだろう。」
「というか、人はなんでこんなにつらいのに生き続けているんだろう」
「なんで素直で優しい人が傷つけられ切り捨てられていくんだろう」とか、
とにかくいろいろとじっくり考えなくちゃいけないという気がして、バイトをして受験費用を稼ぐことを親に約束し、浪人してもう少し自分の道についてかんがえることにしました。

さて浪人生活が始まって、朝はコンビニでバイト、それから帰って受験勉強、その合間に小説を読み、ひたすら自分のこれからの人生について紙に書きまくる日々。

孤独な日々に、暗い小説と、時間のある限り延々と続くもの思い。
こころの闇を深くする結果になったことは言うまでもありません。もうあとには引けないほどに。
結局一年間考えても、人間の生きる理由も、自分のやりたいこともわからず仕舞い。
とにかく大学に入ってからも考え続けようと思い、早稲田の文学部を第一志望に勉強していました。(当時ハマっていたのは、太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石あたりの近代文学です。)

大学入学後、哲学の泥沼へ

さて、結果的に文学部は落ちて、早稲田の政経に進むこととなりました。(谷崎の『陰翳礼讚』が国語の試験でたから、まぐれで受かったのだと思います。)
政経の授業は卒業までほとんど興味をもてず、なかなかつらかった…(そもそも政治を担う「人間とは何か」がわからないのに、民主主義やら経済やらを考えたくなかったです。)
それはさておき、「さぁ!思う存分、人生の大問題に取り組むぞ!」と思って哲学に手を出したことで、心の闇は更に深まりました
自分の絶望やこの世に対する疑問を、哲学がより鮮やかに証明してしまったようなところがあります。笑

それでまぁいろいろあって(このあたりの詳細はコチラ)、
「あぁ!わかったぞ!人は永遠に孤独のまま、そのつど何か分かった気でいて、実は何もわからず、死んでゆくのだ!」とかいろいろ思って、家の近くのお寺で臨済禅の修行(法脈は円覚寺)を始めることとなりました。
かなり参っていました。つらくて死にたいとか、そういうんじゃなくて、ただ生きることに絶望したのです。
(当時絶望的な気分で鎌倉を徘徊し、長谷寺の観音さまに祈り、砂浜で江ノ島を眺めて過ごした夕暮れは、一生忘れられません。)

人はなぜ宗教を求めるのか④神さま!カミサマ!俺にはどうにもなんねぇ!助けてけろ!

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2018年12月8日

大学に通いバイトをしながら、月の3分の1くらいをお寺で寝泊まりして、修行に励みました。
当時はそれ以外になんの希望もありませんでしたから、必死でした。
「禅で解決できなかったらどうしよう、いや、そんな、とにかく命がけでやるしかない」と。
不安と修行への興奮で眠りにつくこともできず、極限に疲れるまで坐り続けた夜が何度もあります。今となっては大切な思い出です。
今でも過去の自分に
「あのときの切実な、純粋な探求を思い出せ!今の自分は、本当に『納得』しているのか?」と、問いかけられている気がします。

坐禅道場での一つの悟り。味噌汁を前に涙が止まらない

興味のない方も多いでしょうが、臨済禅の修行は座禅を組んで作務(掃除など)の修行をするだけではなく、老師という師匠に付いて「禅問答」をやります。
坐禅で澄み切った心で、仏法(真理)を悟っている(はずの)老師に全力でぶつかることで、自分の心を鍛え直し、悟りを目指すわけです。
それで1年半くらい修行を続けたときに、自分の中で大きな変化がありました。こんなかんじです。
くそじめに書いてみるとほんとにバカみたいで、カルトにハマった人の体験談みたいでとてつもなく怪しいですが(笑)、他に書き方がなくて、ごめんなさい。

10度目くらいの摂心修行(泊まり込みで日々老師に参じながら過ごす、集中的な修行期間)、第5日目くらいのときのことです。
前夜は深夜3時頃まで「本来の面目如何」(本当の自分とは?)という老師から与えられた問い(公案と言います)に、坐禅でもって必死に取り組んでいました。
それで、次の日の早朝、老師との禅問答のとき、ぼくは突然、自分がここに生きているという奇跡にハッと気づきました。(詳しくは言葉にできませんし、しても意味がありません)
それで、老師の部屋から坐禅堂にはだしで帰ってくるとき、
うっすら白くなり始めた空の下で、庭の草花が風に吹かれていて、ほんとうにきれいで、みんながいのちをもって生きていると知りました。
草花の輝きが、ぼくという暗闇を照らしてくれているような気がしました。草花は「向こう」にあるのではなくって、「ぼくの内側」で咲いている、というような。
それで、他の人の禅問答も終わるとすぐに、朝食です。
座について、飯と汁を受け取り、席についてお経をとなえてから、無言で頂きます。
ぼくはあたたかいお味噌汁を一口すすり、箸でお椀の底をすくったとき、だしに使った煮干しを拾いました。
その煮干し、そのちいさないのちは、口を恐ろしいほど大きく開けて、首の根っこが少しまがった形で、かたまっていました。
ぼくは箸でつまんだそのいのちを見てぼろぼろ泣きました。
食べてごめんね、ありがとうね、きみのぶんまでがんばって生きるからね、という想いがあふれてきました。
かたじけない。生きていることは、ほんとうに、かたじけないことなのだ。
無言で食べる大衆(修行者)たちのなかで、ぼくひとり涙を止められずに、むしゃむしゃ食べました。
お米の一つぶずつ、白菜のつけもの、小ちゃなうめぼしに、しそ、すべてが宝石のように、いのちを目一杯に輝かせていました。
いのちを輝き放っていました。

生きて、息をして、世界を感じられることはすばらしい

その体験以降、ぼくの中で大きな変化がありました。
言葉にはなかなか表現できませんが、
「生きて、ここに存在して、世界を感じられること、呼吸をできることって、なんてありがたいことなんだろう
流れてゆく世界、生きている時間と、私がつながって在るということは、すごいこと。ありえないことだ
そんな感じでしょうか。
生きて存在していることがそのままに、祝福なのだと思いました。
(こうした心持ちには今でもよっぽど心が澄んだときでないと、感じられません。こころは毎日、一分一秒と曇っていきます。
坐禅をしたり、お祈りをしてもおっつかないくらいに、雑念はこんこんと湧いて、自分に振り回されます。)

それからは、人にどう思われるかとか、世間体とか、これまで気にして不安だったことが色々、かなりどうでもよくなりました。
自分がここに生きて存在していることに対してとても安心するというか、それで十分だというか。
「生きて存在していること」こそが、絶対にダントツで大切なことなんだと気づきました。
年収、社会的地位、人からの尊敬などは全部、くだらない。
生き生きと咲く花を心に映し、原っぱで芝といっしょに風に吹かれ、あますところなく光を放っているこの世界を感じられることに比べたら、
他のすべてはまったくどうでも良いことだ、そんなふうに思えました。
もちろん、普段はこの世のあれこれに想い悩み、世間体やら、評価やら、お金やらに思い煩ってばかりです。
でも、ゆっくり時間をとって坐禅をしたり、自然の中をドライブしたり、あいづちやコーチングを終え、一人で自分の家に変える道のりで、ふと、思い出します
あぁ、おれは、もう、大丈夫だったのだ。なんにも焦ることも、頑張ることもないのだ。生きているのだ。ここに生きているのだ。風を感じることができるし、何かを食べ、味わうことができる。
ここに息をしつづけているのだ。

禅の修行の目的は「己事究明」、己を徹底的に追求することと言います。「本来の面目」(=本当の自分)を自分の内に発見し、それをモノにするために修行するわけです。
あのとき、ぼくはその本当の自分の端っこに、ちょっとだけでも触れることができたのかもしれません。
それはこの時空、想い悩みの一切を越えて、永遠にここに存在し続けている自分に触れたということです。
何も持っていない、なんの執着も必要ない。なんにも要らないはずの、本来の自分です。世界と全くひとつである、自分の内にしずかに、世界をただ曇りなく映し続けている自分です。
なんだか、あやしい感じにも見えますが(笑)、とにかく、自分のいのちに納得がいったのです。

さて結局少し長くなってしまいました。
次回後編では、小説を書き始め、挫折し、「生きねば活動」を始め、「人と直接会って関わること」に自分の役割を見るところまでです。(キリスト教との出会いについても書くかもしれません)

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2 件のコメント

  • こんにちは。いつも楽しく拝見しております。
    ばさばささんの記事を読んで、勉強させていただいていますし、また、とても考えさせられています。
    いつもありがとうございます。
    後編の更新もを楽しみにお待ちしております!

    • サイレントリスナー?さん
      コメントありがとうございます!
      とても嬉しいです。
      ぼくも書くことや、コメントをいただくことで考えるきっかけをたくさん頂いております。
      「購読」なさるとと、ブログの更新がメールでご案内されるようになります。良ければご活用くださいませ。
      またコメントお待ちしております。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。