ディズニーランドで本気で悩んでるみたいーセブ旅行記

フィリピン、セブのマクタン島に4泊5日行って帰って来てから、これまでの自分との大きな断絶を感じます。
自分のこれまでの悩み、不安とは一体何だったのか。「悩むために悩んでいたのではないか」とすら思うのです。ぼくにとっては初の海外旅行、そして初の、貧困・格差との直面でした。

マクタンでは、いかにもなリゾートホテルに滞在しました。安全安心のプライベートビーチで、海を眺めながらお酒を飲んで、音楽隊の生演奏にうっとりとする、まさに天国です。

しかしこの天国、まるっきりの嘘です。ホテルのゲートは警備員が固く守り、外部からは誰も入ることができないように高い塀で囲まれています。一歩ホテルの外に出れば、そこは貧しい現実のマクタンです。

スーパーマーケットの入り口でも警備員が荷物検査をしています。安全のためです。
ちょっと奥まったところにいけば、板を張り合わせただけの暗がりからこちらを見ている人がいます。
瓦礫の影に、死んだ目をした男が横になっていました。ぼくは死んだ目を初めてみました。見入ってしまいました。何の考えも想いも浮かばずに、目を合わせたままぼくは通り過ぎました。通り過ぎたあと、「助けなくって良かったのか?」と、そのあとすぐ「いや、助けようとしたら襲われたんじゃないか。きっと彼はこちらを恨んでいる」と、打ち消しました。

ホテルに帰ればまた天国です。

この「インスタ映え」するまっしろなビーチだって、観光客のカメラの中以外には何の価値もありません。ただ暑くて死にそうなだけです。観光客はみんな、タオルを羽織ったり、日焼け止めのジャンパーみたいなのを着て砂浜に出て行き、ぱっとそれを脱いでぱぱっと写真をとって、またすぐに日陰に戻るのです。
屋根のある日陰では、ツアーガイドがスマホでゲームをやっています。現地の人は、旅客に日傘をさし掲げて日陰を作ったり、食べ物にたかる虫を追い払うぴらぴらのついた棒を振り回して、旅客からチップをもらおうとしています。

すべてが、すべてが嘘で、旅客は現実を隠して嘘を演じるために、ここに来ている。一体、この嘘に何の価値があるのでしょうか。このビーチのある島まで来る船のクルーの一人は、ふくらはぎが緑色に壊死していました。きっとツアーガイドが旅客からの金をかっさらっていくのでしょう。旅客の嘘を演じるためのお金が、なぜ彼の足の治療費とならないのか。
くそうまい朝の食べ放題ビュッフェを食べている500m先、塀の外では、なぜ変色した魚が売られているのか。こっちは無理矢理にでもうまいものをたくさん食べようとして逆に苦しんでいるのに。

そんなこんなで、ホテルの外ではマクタンの貧しい現実と、醜い現実を隠し嘘だけを写真に収める旅行客たちを見ます。ホテルに帰れば、また天国です。まさかこの天国の一歩外が……と、不思議で複雑な気持ちになるのです。ぼくはなんでこんな天国みたいなところにいられて、彼らは抜け出す見込みのない貧しさの中にいるのだろうか。
もちろん経済的に貧しい生活=より不幸な生活だなんて思いません。
↓地に足のついた彼らの生活はかっこいいです。現実を離れたところがない、今を離れたところがないのです。

ただただ、宗教だとか哲学だとか言って、悩んでいる自分の様々な問いなんて、ここでは何の役にもたたない、糞以下の価値もないものだと、知ったのです。豊かな階層の内側だけでしか、自分は考えていないのだと気づいたのです。
そう思ってみると、何だかこれまでのすべてが馬鹿らしくなります。
ディズニーランドの中で、「今日一日をどう過ごそうか」と真剣に悩んでいるようなものだと思いました。
恵まれた恵まれた、時間にも金にも余裕のある生活のなかで、日本というリゾート地帯の中で勝手に悩んでいるだけじゃないか。「人間を知りたい」なんて言って、ディズニーランドの中の人間たちを相手にあれこれ考えているだけじゃないか。

「いかに生きるか」なんて問いも馬鹿らしいです。「偉くなりたい」とか「昇進したい」「年収1千万を超えたい」ぜんぶ馬鹿らしいです。
そもそも、安心安全の暮らしの中で、十分に食って十分に寝て生きることができている自分が、それ以上に何かを求めるということ自体が、馬鹿みたいだと思ったのです。
結局そんなのは、「暇つぶし」に過ぎないじゃないか。本気でやっているようで、「暇つぶし」、嘘に過ぎない。一部の豊かな人たちが思考をこねくりまわして遊んでいるに過ぎないのだと。
「宗教とは何か、宗教的回心とは何か、真の宗教とは?」そんな問いは、ただの暇つぶしでしょう。
世界には、「食って寝るための生活を送るだけで忙しい人たち(あるいは食って寝ることすらままならない人たち)」
と、「食って寝る生活をラクにできて時間が余っているから、何らかの暇つぶしに興じるものたち」の2種類しかいないように思えてきます。
そしてきっと、イエスも、ブッダも、その他多くの宗教家たちが現代に現れたなら、
「食って寝ることができていることに感謝しろ。ふざけるな」としか言わないのではないかと、今は思うのです。
彼らの思想を、恵まれた現代人たちが云々すること自体が、間違いなのかもしれません。
「生きること」が何を意味しているのかが、全く違うと思うのです。
そんな、行く前と行った後では何かが変わってしまった、フィリピン旅行でした。
(人の悩みを否定するわけではありません。
ただ、ぼく自身の悩みが、現実の生活からくる地に足の着いた悩みではなかった、暇つぶしにすぎなかった、ということだと思います。)

坂口安吾「文学のふるさと」-芥川が突き放された生活に根ざした不条理

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ディズニーランドで本気で悩んでるみたいーセブ旅行記

2018年12月1日

8 件のコメント

  • 初めまして。
    なんとなくTwitterのタイムラインに流れてきたブログを見てみるか、程度の気持ちで読み始めましたが、ものすごく引き込まれました。
    宗教についての部分とても面白いです。
    他の記事も読ませていただこうと思います。
    ありがとうございました。

    • 千咲さん
      お読みいただきありがとうございます。
      ブログ初のコメントです。嬉しいです!
      ブログの方向性がまだあまり定まっていないので、カテゴリー分けはあまり当てにならなかったりと、
      まだまだ不便なサイトですが、
      基本的に趣味で素直に記事を書いています。
      おヒマなときにどうぞ覗いてくださいー!

      • 早速のご返信ありがとうございます!
        カラマーゾフの兄弟についての記事もたいへん励まされました(実は高2の時に読み始めたものの7年経った今でも下の最初で止まっているのです笑)。またお正月にでも読んでみようと思います。笑

        普段から、なんで宗教ってあるんだろうとか、宗教をすごく必要としているひととそうでない人がいるのはなぜだろうとか、ぼーっと考えることがあるのですが、考えの助けになるかもです。
        また来ますー(*’ω’*)

        • カラマーゾフの記事もお読みなのですね。
          ドストエフスキーは最近更新止まってますが、また書きたいと思ってます。

          千咲さんは、宗教を必要とするか否か違いをどのように感じているでしょうか?
          宗教はこのブログのメインテーマです。ぜひご意見ご感想頂けると、参考になります。
          記事のリクエストも受け付けてます!笑

          • そもそも私が何を疑問に思っているかというと、
            自分は今まで生きてきて、宗教心を持ったりだとか、宗教に救われただとか、そのように意識したことがありません。
            ですが、世界レベルではでなにかの宗教を信じていないほうが珍しいと思います。信じるの定義も難しいですが、全然熱心でなくとも「自分はキリスト教徒である」などといった自覚を持っていたり、少なくとも自分よりは宗教が身近なところにあって世界観の一部となった暮らしをしているひとが多いと認識しています。
            そして宗教は仏教キリスト教イスラム教などになると相当に古く、とても多くの人が信じています。
            それだけ人々に支持されるような何かがあるのだろうと思います。
            そういう事実だけを見ていると、宗教って人間に無くてはならない根源的なものなのかもしれないと思うのですが、自分は何かの宗教を信じている意識はありません。
            単純に、なんでや?と思います。笑

            なぜ宗教を必要とするひととしない人がいるのかは、色々考えられますし、それに宗教の定義もよくわかりませんが、
            ・実は自分が宗教と意識していないだけで人間の共通項として宗教(と呼べる何か)がある
            ・単純に生きていくうえで便利(同じ世界観を持った人と暮らすのはそうでない場合より円滑にいくことが多いと思います。食事の規律など)。つまりご近所付き合いの延長、慣習的な側面が大きい
            ・人生が辛いか辛くないか。←辛い時のほうが宗教が必要そう

            私が思いつくのはこんなところです。
            なぜ人間の歴史と共にあるように見え、今でもほとんどの人が何かしらの宗教を信じているらしいのに、自分はそうでないんだろう。
            というところから始まっています(‘ω’)

          • 千咲さん、わかりやすい説明どうもありがとうございます。(文章お上手ですね。)
            今のぼくがぱっと答えるとすると、以下のようになります。

            ・実は自分が宗教と意識していないだけで人間の共通項として宗教(と呼べる何か)がある
            ・人生が辛いか辛くないか。←辛い時のほうが宗教が必要そう
            ・単純に生きていくうえで便利(同じ世界観を持った人と暮らすのはそうでない場合より円滑にいくことが多いと思います。食事の規律など)。つまりご近所付き合いの延長、慣習的な側面が大きい

            宗教の定義と答え方は無限にありえますが、千咲さんの文脈に対してのぼくの応答では、以下のように答えます。
            まず、「宗教」については(「神とは何か」も同様)、一人ひとりがこの「宗教」という言葉に好き勝手な意味を込めていると思います。
            ある人にとってそれは、迫害されないため、身の回りの人との関係を円滑にするための面倒なもの、ただの建て前でしょうし、
            別の人にとっては、現実の生活、出来事、獲得、経験では決して満たしてくれない部分を満たしてくれる、次元の違うものであると思います。後者のこちらの意味においては、人間の共通項のようなものを見て取れるかもしません。
            「宗教」が日常とは「異質」なものと見られることが多い「日本」と、宗教が当たり前にある外国では、「宗教」という言葉はまったく別のものです。
            全く現実の日常生活の一つの要素に過ぎない「宗教」(慣習的など)と、全く現実の生活を超越した次元の異なる喜びを与えうるものとしての「宗教」では、まったく捉えようとしているところが違います。

            ですので、千咲さんの持っていらっしゃる疑問については、「宗教」という一つの言葉で「宗教と呼びうる無数の人間の事柄」を包括してしまっているところから、解きほぐしていくべきではないかと思います。
            つまり「宗教」という言葉で、自分が本当に知りたいと思っている事柄はなんなのか。
            慣習としての宗教なのか、人生の苦しさを和らげることと関わっている宗教なのか、それとも「宗教」という大きなくくり自体に、何かの手がかりを求めようとしているのか。などなど。

            拍子抜けしてしまったらすみません。またご意見ご感想お待ちしています!

            「宗教」という言葉自体が、ややこしい面もあります。代わりに「宗教的救済(安心)」でしたら、この記事に書いています。

  • わかりやすいご説明ありがとうございます!
    そうですね、私は「宗教」という言葉を使うときに、メインは、人生の苦しさを和らげることに関わっている宗教のことを
    思い浮かべながら話しています。よりよく生きるためにやっているというか。比較的真剣に取り組んでいる人のことをイメージしています。

    自己啓発本という種類の本があります。よく買う人が知り合いに何人かいますが、本の(著者の)考え方が良いな、自分の生活にその考え方を少しでも取り入れよう、と思うから買うんだと想像しています。宗教はそれの延長なのだろうと安易に考えたい気分の時もありますが、それにしては多くの人間を巻き込んでいくエネルギーが段違いです。←※自己啓発本には体系的な教義が無いので宗教と完全におなじだとは考えていません。

    また別の話になりますが、古代の芸術ってどの文化圏でもだいたい宗教がモチーフだし制作のモチベーションになっています。絵や彫刻、宗教音楽(ミサ曲などなど?)、宗教的な建築物(寺とか神社とか、聖堂、教会、モスク、ミスル、などなど)もありますよね。
    だいたいが昔の人の作ったものですが、ああいうのもそこに注ぎ込まれたエネルギーがすごいと思います。

    つまり、そもそもある人(達)が考え出した「考え方」にすぎないもの、水や食べ物のように実体のないもの、がどんどん大きくなって体系を構築して、理論的になっていること自体が不思議やなー(暇なのかなー)と思うのと、
    その人間の生命を維持するためには必要なさそうなものが実際には多くの人を救っていたり、あるいは戦争の原因になったりすることが不思議やなーと。
    抽象的なもののためによくそこまで頑張れるな、人間って不思議だな、としみじみ感じます。

    とりあえずそんな感じですね(‘ω’)

    • 丁寧なご返信ありがとうございます。
      宗教と自己啓発本との違いとしては、「目的」に違いがあると思っています。
      宗教の目的は「心の平安を得たいということ」で、ときにはその過程で社会的成功への努力を諦めることもありうると思います。社会的な成功や、物質的な豊かさよりも「心の平穏」を優先するのであり、この両者が矛盾した場合は後者を選ぶことが多いでしょう。
      一方「自己啓発本」は、宗教に近いものもあるでしょうが、多くは「社会的成功や人間関係の成功」を目的とし、優先することが多いと思います。目に見える世界の環境を整えることによる「心の平穏」はありえますが。
      宗教の場合は、目に見えないところー心の持ちようや、信仰によって世界を絶対的に肯定するなどーの環境を整えることによって「心の平穏」を目指している場合が多いと思います。(現世ご利益を求めるものをぼくは宗教とは考えていません。)
      このとき、物質的に豊かになろうという一般的な考え方から自分の身をひきはがしていく際に巨大なエネルギー・努力がいると思います。
      一般的な考え方を離れてまで追い求める時点で、それなりのエネルギーをもって人は宗教に向かうと思います

      古代の人々の場合ですと、そもそも「自分」を「一人の個人」として考え、「個人の時間」「個人の所有」といった概念を前提としている現代の私たちとはまったく違う世界を生きていると思います。
      さらに言えば、「私」という自己意識や、それに対する執着の度合いもも全く違うのではないかとぼくは推測します。
      こんど、宗教へ向かう人の気持ちについて、記事で書いてみようと思います。よかったらどうぞ!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。