最近の僕が取り組もうとしている課題は、「安全な自分のわがまま小宇宙」を抜け出すことである。
「安全な自分のわがまま小宇宙」とは、自分が本当に傷つかないように(多くの場合無意識に)出来上がっている安全に過ごせる小さな虚構世界のことだ。
例えばとある小説家志望の世界。彼は小説を新人賞に送り、落選し、また書き、という生活を繰り返し、芯からは傷つかずに生活することができている。落選はただ自分が新人賞発表の雑誌にのっていないだけで、大して傷つかない。それでいて自分は「小説家という夢」に向かっているのだと、自分の今の生活を正当化できる。
それは親への経済的依存という犠牲の上に創り上げられた、社会と正面からぶつかることのない「わがまま小宇宙」、虚構の世界である。親に依存するクリエイターは気をつけなくてはならないだろう。
「わがまま小宇宙」には、自分を傷つけるような「他者」はいない。他者の代表として自分を拒絶するかもしれない「社会」もいない。他者がいないからこそ、自分のわがままでいくらでも自由に好き勝手ができるのだ。うまくできた「わがまま小宇宙」は、その虚構性を隠蔽してくれる。良心のやましさなしに、わがままに過ごさせてくれる。
これは自立していない人だけに限られた話ではない。社会的に成功した人であっても、周りの人がその人の顔色を伺ってその人の「わがまま小宇宙」という虚構世界を守ってあげているだけということがあるだろう。そのお偉いさんにとっての他者を排除し、対立者を隠蔽し、仲間内だけで囲ってしまう。そんなヨイショマンはそうすることで権力の一端に預かることができているのかもしれない。
いま自分のいるところが「わがまま小宇宙」となってはいないか。他者を認めない世界を創り上げてはいないか。反省すべしである。一つの指標は、「拒絶や対立をもたらしそうな人を恐れてはいないか」、である。自分を批判しそうな人、反対の活動をしている人と向き合いたくないのなら、その世界は「わがまま小宇宙」かもしれない。
どんな人に対しても胸を張って自分の人生、生活を主張できるか。
自分の世界を固めて囲って守ったときから、「わがまま小宇宙」は形成される。自分の生を、世界をみんなに対して開いて、誰でも意見を言ってくださいと言えるかどうか。
本当に自分と自分の人生に自信があるなら、「わがまま小宇宙」なんて要らないはずだ。誰がなんと言おうとわが道を行く、むしろ参考にしたいから批判ご意見を募集したいくらいのはずだ。自分に本当は自信がないからこそ、傷つくのを恐れて「わがまま小宇宙」を無意識にでも作ってしまう。
そして本当に自分に自信を持てない生き方をしているのだったら、その生き方を変えてみるべきではないか。
自分の「わがまま小宇宙」を出て、自分に心から自信の持てる人生、心から納得のいく人生を送り、四方から無限の風が吹き付けてくる世界に堂々と立って見れば良い。
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