『ゼロ年代の想像力』後編 同質的で安全な世界を出て他者と向き合う

 「世界が物語を与えてくれない」ことを嘆く受け身の生

先の記事に見たように、アニメ版『エヴァンゲリオン』の碇シンジやセカイ系は「世界が物語(意味)」を与えてくれないことを嘆き引きこもりたいあるいは美少女から肯定されたいという態度を表現したものだった。
この態度は今まで与えられていた「大きな物語」が取り上げられたことへの絶望、代わりのものをよこせという、受け身の態度である。
当時この受け身の態度は「よくある」ものだったのかどうかはわからないが、僕もようやくこの受け身の態度から腰を上げてみようというところである。

「おや、どうやらこのまま受け身のまま生きていても何も起きないみたいだと、背筋に寒気を感じつつ気づいた
ここまで遅くなってからでは失うものが多くとも、自分で動かない限りは何も起きないのだと、知った。それでブログを始めたのでもある。

様々に化ける受け身の態度。例えば「小説家志望」という心地よい受け身の安心

社会から「生きる意味」や物語を与えられないということは事実として共有されている。
しかしその事実に対して「受け身の態度」のままアクロバティックに自分の生に意味や物語を与えて生きている人も、実は多いのではないか。

「受け身の態度のまま」「自分に意味を与える」とはどういうことか。僕は「小説家志望」として日々小説を書いては応募する生活を送っていた。だがこれは心地の良い受け身の安心を得る態度であったとも言える。
なぜなら「新人賞」という与えられた枠組みに、自分で好きなように書いた小説を送り、選考に任せるというだけだからである。新人賞発表号の雑誌で自分のペンネームがないことを確認し、「見る目のないやつめ。僕はしかし納得のいくまで書き切り成長できた。次は賞をとってやる」と思って、おしまいである。送った小説について何かコメントをもらえるわけでもない。
つまり応募は僕にとって心地よい、安全な、「社会への行為」であり、安全に自分の生に意味や物語を感じられる手段ともなっていた(僕と違って、社会と関わりつつ真剣に作品をみつめ新人賞への応募を繰り返している方々には全く関係のない話であるが。)
こうした受け身の態度のままに、意味や物語を安全に自分に与えるという生き方は、小説家志望に限らず様々な形で行われているのではないかと思う
社会と正面からぶつかる、拒絶されうる機会がない「安全」な形で、自分に意味や物語が感じられる道をこっそりと(心の中では両手を振って堂々と)歩む生
である。
いや、僕はどうしたってすぐこの道に戻ろうとする自分を感じる。この道の誘惑には本当に注意深く避けねばならない。だから外に出て活動を続ける。小説を書きながらも、社会と関わり人と関わり続ける。

「生きる意味」を各自が試行錯誤する、「冷たいが自由な時代」

 現代では超越性を公共性が保証することありえない。
「生きる意味」も「承認欲求」もすべてはひとりひとりが、コミュニケーションを重ね試行錯誤を繰り返し
共同体を獲得する(あるいは移動する)ことで補給していくしかない
それは一見、冷たい世の中に見えるかもしれない。何が正しいのか、何に価値があるのか、もはや歴史も国家も教えてくれない。
でもその代わり、私たちは自由な世の中を手に入れた(中略)
自分で考え、試行錯誤を続けるための環境は、むしろ整いつつあると言えるだろう。
ついでに言うと、私はこの(冷たいかもしれないが)自由な世の中が、たまらなく好きだ。(p.388)(『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛著、早川文庫、2011年))

「冷たいが自由な世の中」が好きだと宇野は述べてみせる。
僕はとてもそんなことを言えない。しかし、言えるようになりたい。莫大な自由を背負って正面から社会にぶつかって行く人生を歩みたい。社会(そんなものはないのだが)に拒絶されてもちっとも動じず「自由なる世、我にこそ正義あり」と言える人になりたい。
社会との対決自体を、拒絶の経験も含めて楽しめなくてはならないだろう。

容易な他者回避をせず、他者と向き合うこと

 現代における成熟とは他者回避を拒否して自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと
―自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙にへ手を伸ばすことに他ならない。(中略)
私たちは断片のような世界に生きている。
しかし、生きていくためには他の断片に手を伸ばさなくてはならない。
原理的に「降りる」ことができない学校の教室や、世界経済というシステムのこと考えれば余計にそうだ。(pp.384-385)

現代を生きる私たちは、容易に自分たちの島宇宙(もしくは自分ひとりの島)に閉じこもることができる
そこで「安全に」自分の生に意味や物語を感じることも可能だ。(小説家志望であるように)しかしそんな数々の正義、物語、意味を持った島宇宙が立っているところの社会は唯一つだけであるみなに共通で唯一の社会の上には無数の、多様な物語、人々、意味が乗っている
だから自分たちの島宇宙に閉じこもっていることは、その根底・前提である社会に対してどこかで無理をしているはずだ。引きこもっている人が避けた社会を親が経済的にも精神的にも引き受けるのと同じだ。

自分の代わりに無理をしてくれる誰かがふっといなくなったとき、いつかは自分自身が社会と向き合わなければなくなるときがやってくるのだと思う。

↓これと関連した話を動画でもアップしてみました。よければどうぞ。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。