坂口安吾の太宰治への異議―「暗黒面」でなく、生きる踏ん張り。

坂口安吾―コメディアンになりきれない太宰

僕も「文学青年」の例に漏れず、19の頃には太宰治にジットリとはまり込んだ。
しかし「結局この現実を生きるしかない」といった気持ちが強くなるにつれ、その魅力も薄れていった。(文章のなめらかさは今でも大好き)
そんな折に坂口安吾の太宰治論「不良少年とキリスト」を読み、自分の「太宰離れ」を理解するとともに現実を生きる勇気をもらったから、それについて書く。
以下のセクションは、「不良少年とキリスト』角川文庫の『堕落論』(1996,改版67版)より引用、要約しました。


坂口が言う太宰治のだめなところは、M・C(マイ・コメディアン)を自称し、コメディアンとして現実を笑い飛ばす優れた作品を残しながら、結局コメディアンになりきれなかったことだ。
太宰はフツカヨイ的な、自責や自分のみじめさを述懐する苦しさ、切なさ、(太宰流大サービスをやらかしたあとの後悔)、
そして虚無と孤独とを、文学と人生の問題にしてしまった、というのが坂口安吾からの批判である。私たちの虚無や孤独の苦しみは人間そのものに付属した生理的な精神内容であって、決して思想でなく、文学でもない
フツカヨイの時に直面するこれらの苦しみは、フツカヨイの中でだけ処理すべきものであって、人に見せちゃいけないもの。
自分の一生を大切に、よりよく生きようとして工夫をこらし、必死にあみだしたバカなものが思想であり、文学であるべきである。太宰の多くの著作は単に万人が感じる虚無や孤独を扱った人間通な文学でしかなく、人間性の原本的な問題のみを取り扱っているだけだから、人がなんとかこの現実を生きていくための、思想がない。

フツカヨイ的自虐、人間への自虐はわかりやすいものだから、深刻ずきな青年の喝采を博すのは当然であるが、人間は生きることが全部である。
太宰は時々本物のコメディアンになって光り輝く作品を書く(安吾によれば、斜陽・魚服記など)人間の置かれた孤独で虚無的な現実をコメディにしてみせる。一方でそのコメディが持続できず、ただただ自虐的なフツカヨイ小説に戻ってしまう、
そこに弱さがある。
太宰は現世を突っぱねていればもっと歴史的な小説が書けたろうに、コメディアンになり切る強さを持っていなかったから、現世的なファンにサービスしてその弱さを補ってしまい、フツカヨイのまま最後は支離滅裂な遺書を書き、死んでしまった。


この孤独や虚無を笑い飛ばし、どう生き続けるか

坂口の批判は、この現実以外には決して生きられない僕らを力強く応援してくれるように思う。フツカヨイの太宰が描いたのは人間のやり切れない面、孤独な暗黒面だ。そしてそれだけでしかない。
問題は、この時折爆発する孤独を抱えたまま、その孤独を時には笑い飛ばし、どうぼくたちが生き続けるかである。
万人が抱えている孤独、虚無を肯定していたって仕方がない。自慢したって仕方ない。みんな同じだ。それでも生きている。この人間の暗黒面を見つめた上で、どうやって生きていくのか、そこからがスタート、戦いだ。
暗黒面をいくら見つめていたって仕方ない。どうにかこうにか生きていくための、エネルギーにはならない。もちろん、何年も、あるいは何十年も、暗黒面を抜け出せないこともあるだろう。生命を断ってしまう人もあるだろう。
しかし、生きるにはどこかで暗黒面から立ち上がり、抜け出そうと試みなくちゃいけない。
それがどんなときなのかは、その人の人生の縁が決めることだろう。しかるべきときにしかるべきことが起こり、しかるべくして虚無と絶望を抜け出し、生きるために立ち上がるのだと思う。「生きねば」と呟くときが。

生きるか、死ぬか、2つしか、ありゃせぬ。
おまけに、死ぬ方は、ただなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。
生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。
いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。いつでもできることなんか、やるもんじゃないよ。(中略)
ただ生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。(中略)
戦い抜く、言うはやすく、疲れるね。
しかし、度胸は、決めている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ、そして、戦うよ。
決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。
戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。
勝てるはずが、ないじゃないか。
誰に、何者に、勝つつもりなんだ。(pp.243-244)

と、坂口は言ってのける。
こんな言葉にこそ、現実を生きていこうという僕らは励まされる。ここでなんとか、踏ん張って、先は見えずとも、生きていこうと思えるのだ。
太宰治のフツカヨイ小説では、自己陶酔的に落ち込んでゆくだけ。そりゃあ気持ちがいいが、下手すりゃ、抜け出せなくなっちゃう。結局生きて、戦い続けることしかない。
それじゃあ、どうやったら生きていけるか、一人の人間の戦いを見るために、小説を読みたい。
なんとか生きてやろうと戦っている人の小説を、ぼくは読みたい。現世、我が身への呪いの言葉に陶酔したいわけじゃないのだ。そんなことが悠々とできる甘い時間は、幼いうちだけ、いつかは一人で踏ん張らなくちゃいけない。

ヘッセの『荒野のおおかみ』『知と愛』やクンデラの『存在の耐えられない軽さ』、ドストエフスキーの小説群は、そんな戦いを感じさせ、また頑張って生きようと思わせてくれる。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。