非信徒から見たキリスト教の魅力①人の孤独を慰める神

「自分の苦しみと苦悩を、神に語りかけることができる」

キリスト教、すてきだなぁと思うところはたくさんありますが、
今回は「自分の苦悩を語りかける相手がいること」に注目してみます。
生きる苦しみ・悩みが自分独りだけのものではなくなるということです。

信仰とは①自分の幸せへと自分を賭けた決断。

2019年6月22日

「沈黙の鉄の扉」としての東洋的宗教・運命・因果応報

さっそくですが、『神の痛みの神学』という独自の神学思想をお持ちの北森嘉蔵にご登壇いただきます。
北森は、キリスト教を説明するために、比較対象として東洋的宗教、運命論、因果応報を提示して、それら思想の冷たさについて語ります。
東洋的な運命・因果応報の考え方は「耐え忍べ!それが真理だ」というに過ぎず、冷たいものだと…。

偶然や運命は、いずれも徹底的に非人格的なものであり、たとえていえば、鉄の扉のようなものである。呼んでも問うても、完全沈黙、一言の答もない。押しても突いても、微動だにしない。
偶然にしても運命にしても、「そう成ったから成った」というにすぎない。そこにあるものは徹底した非人格性である。こちらが何を言っても、受けとめてくれない。のれんに腕押しである。(中略)
要するに、偶然にしても運命にしても因果応報にしても、訴えようがないという点では共通している。東洋的なものとか日本的なものとか呼ばれる解決法では、むしろ偶然や運命や因果応報を甘受することによって、問題を解消させていくといえるかもしれない。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」というわけである。
これも確かに一つの打開策ではある。それを選びとるのも自由である。しかし、聖書の示す道は異なる。[1]

「偶然」も「運命」も「因果応報」も、究極的には「どこにも苦しみを訴える相手がいない」という世界です。
またもし、「神」がいたにしてもそれが「因果応報」を徹底する「神」ならば、彼は自らを「悪人」とする者に罰を与えるだけ。
罪を自覚する人間にとってそんな神は、ただ恐ろしいだけ。脅しにはなってもなんの慰めにもなりません。
つまり、自分が過ちを犯したとき、自分の罪を深く自覚したとき、これら東洋の諸思想によっては「誰にも訴えようがない、語りかけることができない」わけです。(同じ東洋でも浄土系思想についてはぼくは違うと思います。)

ぼくは臨済禅の修行を三年ほど続けておりましたが、禅宗は基本的に徹底した「自力」であり、この世に自分を救ってくれる神も仏もいないのだから、自分を何度でも奮い立たせ、厳しい修行を積み、お釈迦様が悟ったように自分もこの身で自分を救う(悟る)のだ、と言えます。
(曹洞宗の禅やテーラワーダ仏教では、悟りを目指すというよりただ「あるがまま」になり切るといった方向が強くなるかもしれません。)
しかしいずれにしろ、そこに「自分の苦しみを訴える相手」はいません。
世界は沈黙しており、私は孤独です。
だからこそ、自分が頑張らなくてはいけない。無神論者や不可知論者もこの点は共通かと思います。広い意味での自力です。
こんな自力の立場に立つ限り、ふとしたとき、人は絶対の孤独に立っている自分を見出します
しかもその自分は、みじめでどうしようもない。
だからなんとか自分で、叩き上げなくてはならない。修行をせねばらならない。

この立場も当然一つの打開策です。
この自分こそが、このどうしようもない自分を少しでもマシなものにする、それしかない。いたってシンプルで、わかりやすいです。現実的です。

(ただの印象ですが、東洋においては徹底的に自分をみつめ、自分の罪と向き合うという伝統があまりないのではなかったのではないかと思います。
自分と徹底的に向き合ったとき初めて、自力すらも諦めざるを得なくなるのではないでしょうか。
禅道場でも、世間でも、そんな印象を受けます。巨大なキリスト教文化が、自分の罪に向き合わせる伝統を生み出したといったほうが良いのかもしれませんが。)

「自分の苦しみや苦悩を語りかけられる」神がいるキリスト教

ではこれに対して、聖書(人格的な、愛の赦しの神)の立場はどうでしょうか。

聖書は、「訴えようのある神」を示すのである。「罪を天に得ても、訴うるところあり」である。「たたけよ、さらば開かれん」である。
聖書に示される神は、問えば答える神なのである。[…] この神こそ、真実の意味において人格的な神なのである。[2]

「訴えようのある神」この北森の言葉は、キリスト教の魅力を鋭く提示しています。
この聖書の神は、世界を作り、今も成り立たせ続けている神です。全てを作り、いまも全てにおいて働いている神であります。この私を、心の底まで、すべて見通している神であります。
だから私は、自分のすべてを神に訴えることができます。この苦しみも、悩みも、孤独も、すべてをご存知なはずの神には、語りかけることができます。
これを読んで私は、「え!じゃあ神を信じているものって、孤独じゃないんだ!」という大発見を致しました。
こりゃ、すごい。驚くべきことです。ぼくにとって人間は、己の罪を背負い、己の孤独を背負い、己に対する世間の不理解を背負い、しかし、死なずに一人で踏ん張って、生きていかなくてはならないものでした。
一人で何とかやっていく。これが生きていく上での「大前提」でした。
しかし、なんと!
これは一つの仮定でしかなかった!もしも神の存在を信じるのならば、人間は一人で生きていくのではない。いつでも語りかけることのできる神とともに、神に自分のすべてを語りかけつつ、生きていくことができるのです!

しかもこの人格的な神とは、(ここでは細かいところは端折りますが)人間の愚かさ醜さを知り、それでも人間を支配せず、自由意志を与え続けてくださっている愛の神です。
人間の罪を許すために自分の息子をイエス・キリストとして世界に送り込み、反抗しかしてこない人間の代わりに犠牲にしてあげた、とてつもなくお優しい神なのです。

すべてを赦してくれる神がそばにいてくださる。これは自分のすべてを見続けているスーパー優しい友達にいつでも語りかけることができるということ、いやその何百倍です。(「永遠の女性」でも良いでしょう。あぁ!我らが愛しのソーネチカ!)
絶対の孤独が約束されていた険しい険しいこの人生という道に、生まれてから土に還るまでまで付き添ってくれるひと(神)がいるわけです。それだけでもう、景色は一変するように思われます。

これは生きることに苦しむ人にとっては、巨大な打開策でしょう。もちろんキリスト教はもっともっとたくさんの要素を持っていますが、「語りかけることのできる神がいる」ということだけでも、素晴らしいことだと思います。

ぼくは、臨済禅の修行を行じていました。自己以外一切頼るものはない、!という超マッチョな世界です。自分の外から与えられたものなんて、何の役にも立たない、自分が自分でつかみとったもの以外に真理はない、清々しいほどに厳しい世界なのです。
だからこの「赦しと愛の神」が心に沁みるのでしょう。それはまさに「救い主」であります。

「我も汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」ヨハネ福音書。聖書入門

赦しと愛の神と言いました。じゃあそれはどんな神なのか。今回はヨハネ福音書から引用するのみで終わりたいと思います。

イエスはオリーブ山に行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとに寄って来たので、座って教えられ始めた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」[3]

彼女の罪を赦し、彼女を愛し、もう罪を犯すなよと、彼女を優しく支えるイエスがここにはいます。
こんな優しく頼れる神様が、いつもそばにいるのだとしたら……。

ジョージ・ハーバートの祈り

せっかくなので、素敵な祈りも一つご紹介させていただきます。

愛の主がわたしを歓迎してくださったのにわたしの魂は怯んだ、
汚辱と罪のために。
しかし目ざとく愛の主は、戸口でまず二の足を踏んだ
わたしを見てとって、
近くに来られ、やさしく尋ねられた、
なにか不足なのかと。

わたしは答えた、「ここに客となる資格がありません」と。
「お前がその客なのだよ」と主は言われた。
「不実で恩知らずのわたしがですか。ああ、とてもわたしには
あなたを見上げることはできません」
主はわたしの手をとって、微笑みながら言われた、
「その目はわたしの他の誰が造ったと言うのか」と。

「まことに主よ、あなたです、けれどもわたしが汚しました。
ですから恥は負わせてください」
すると愛の主は言われる「その恥を負ったのは誰か、知らないのか」
「ああ主よ、いまこそわたしはお仕えします」
「席につくのだ、そしてわが肉をあじわうがいい」と主。
だからわたしは、座って、食したのです。

______ジョージ・ハーバート_____[4]

北森嘉蔵さんの『聖書の読み方』『聖書百話』は知識ゼロから読めるキリスト教入門書としてめちゃくちゃおすすめできます。
『聖書の読み方』はタイトルどおり、聖書をいかに読めば良いのか、聖書を読ませるために書かれています。(今回の引用はこの本からです。)
『聖書百話』はキリスト教の諸概念を、両開きで一つずつ、簡潔かつ感動的に説明しています。辞書的な使い方もできるすばらしい著作です。
『キリスト教は役に立つか』は、「イエスとともに歩く人生・生活」という視点からキリスト教信仰を紹介する格好の入門書です。amzonレビューも書いてみました。

補足
・メルアド無しでコメントを残せますので、一言でも感想を頂けると励みになります。
・特にクリスチャンの方、もし重大な誤解等がありましたらお伝え下さい。対応します。
[1]『聖書の読み方』北森嘉蔵、講談社、1971、第2部2章「詩篇第107篇」より
[2]前提書、同章
[3]『聖書教会共同訳聖書』ヨハネ福音書8章1節以降。
[4]『祈りのポシェット』小塩トシ子訳,日本キリスト教団出版局,1997年,第5章「聖餐」より。←本書はキリスト教に限らず、古今東西の祈りの文言を集めた本。すてきです。

ちなみに、kindleですと新旧約聖書の古い訳ならワンコインで買えてしまいます。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。