キリスト教入門記[3]私は主役ではなく神の道具・器。神の愛を感じなくとも、信じて主のもとへ何度も立ち返る。

自分は主役ではなく、神の道具。神の愛を感じなくても、主のもとへ何度でも帰る。

最近気づいたこと。いまのぼくにとっての「偶像崇拝」(神以外のものを崇めること)は、人からの賞賛であり、自分が他の人よりも優れた面を持つという優越感であること。
一言でいったら、名声だ。名声という偶像に向けて、ぼくはブログやSNSにて奉仕しようとしている。前は小説執筆という捧げ物だった。
なんだか、いつもブログやSNSのことを考えてしまうな、ちょっと依存しているな、と思った。その根っこには、人からすげぇと思われたい、よく考えているねと言われたい、イイねが欲しい、そんなことしかないと思う。この欲望を「世のため人のため」といって、美化・正当化するときもあるが、たいていの場合は褒められたいだけなんだと思う。

神よ、私をあなたの道具にして下さい

主よ、私をあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに愛をもたらす人に、
争いのあるところに許しを、
疑いあるところに信仰を、
絶望あるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びをもたらす人にしてください。
主よ、慰められるよりも慰めることを、
理解されることよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを
求めることができますように。
私たちは、人に与えることによって多くを受け、
許す時に許されるのですから。(アッシジの聖フランチェスコ)[1]

世界中で愛されているこの祈りにあるように、ぼくは神の平和の「道具」として生きるべきである。主の愛を溢れ出させる「器」であることにこそ全力を尽くすべきである。
「道具」も「器」も、決して目的ではない。道具が、器が、自らの栄光・評価・愛されることを求めるとは、愚かなことだ。道具も器も、奉仕「される」ものではなく、奉仕「する」ものである。「愛されるよりも愛すること」を求めるものだ。
自分の好みや欲望、評価にこだわっているようでは、神にとって決して良い道具・器とは言われない。自己主張が激しくて料理を台無しにしてしまう器、気取ったデザインのせいで使いづらい道具である。(「神」というところを、「人類」や「世界そのもの」と言い換えても良い。世界そのものにとって、自分なんてのは一つの構成要素に過ぎない。それを受け容れ、活かすことができなければ、生は空しいまま、摩擦だらけ。)

自分が愛されたい、注目されたい、というのは、神が私を愛してくださっていることを信じられない、感じられないところから来ている、と思う。逆から言えば、クリスチャンは神からの愛によって自分の渇望を満たすことができているから、隣人への奉仕に尽力することができるのではないか。「神への愛によって隣人を愛する」とはこうしたことを言いたいのではないかと思っている。以下引用はマザー・テレサの言葉です。

○「キリスト信者ってどういう人たち?」
誰かがヒンズー教徒に尋ねました。
「キリスト教の人たちは、もらうことより与えることを考える人たちだよ」というのが答えだったそうです。

自分のことへの思い煩いでいっぱいだと、他人のことを考える暇がなくなってしまいます。[1]「寛大さ」より

前回の求道記に書いたが、この「神が私を愛してくださっていること」をもっと深めたい。神からの愛を信じられてこそ、神を愛することができる。神を愛するからこそ、人間的な空しい世界ではなく、神を土台として生きることができる。神を土台として生きるからこそ、自分のためではなく、隣人に奉仕「する」ことに意識を向けることができる。のだと思う。(ミサ中の、「神は私のとりでー♪」が好きです。)

神と富とに兼ね仕えることはできない。世間の慰めを振り返らない。

○貧しくなりたいと願って、貧しい人と同じような生活をしながら、同時に高価なものを捨て切れないでいる人々がいます。これは、ぜいたくとしか言いようがありません。2つの世界の一番良いところを両方とも味わおうとしているのですから。
神の愛の宣教者の会員にこのようなぜいたくは許されません。これは会の精神と矛盾した生活です。
キリストは宮殿に住むこともおできになりました。しかしながら、私たちと同じ生活をなさりたかったので、罪を犯す以外は、私たちと同じにおなりになったのです。
私たちも貧しい人のようになるために、彼らが陥っている惨めな状態を除いては、すべてにおいて彼らと同じように生きたいと願っています。[1]「貧しい人々の中にいるキリスト」より

この引用で、マザー・テレサは、精神的「貧しさ」を求めるのに物質的貧しさを退ける人を厳しく批判します。自分は高い位置にいながら、貧しい人々へ奉仕しようというのは、「2つの世界の美味しいとこ取りをしようとしている」のだと。
神と隣人への献身を求めつつ、世間的な賞賛・富まで求めようということも、まさにこの「良いとこどり」でしょう。それは奇跡的な恵みによってのみもたらされるものでしょうし、いつ奪い去られても文句は言えないもの。期待し、求めてはいけないものだ。

どんな僕(しもべ)でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に尽くし、他方を軽んじるかである。
あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない(ルカによる福音書16:13,フランシスコ会訳)

「おいしいとこ取り」なんてできない。人はどちらかを優先して、もう振り返ってはいけない。指をくわえたくなっても、奥歯をぐっと噛んで、自分が選んだものの方に顔を向け直さなくてはいけない。

人は、節度なく何かを欲しがると、すぐその心が乱される。傲慢な人や欲張りな人は、安らぎを知らない。
一方、心の貧しい謙遜な人は、豊かな平和のうちに生きる。自分の内にある欲望の声をまだ消しきれない人はしばしば誘惑を受け、小さなことにも負けてしまう。[…] 心の真の平和は、欲望に従うことではなく、それに抵抗することによって得ることができる。肉の声を聞く人、外部のことだけに従っている人には平和がなく、熱心で霊的なことに従う人にだけ平和がある。[2]

人の欲望は決して尽きることがない。どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも「なにか」を求め続ける。
だから必要なのは、欲望の声を消し去ることで、謙遜に、心貧しく、自分が本当になすべきことだけを、求めること。余計なことは求めない考えないこと。神に尽くそうという決意でもって、決して振り返らないことである。

神の愛を感じなくとも、信じて神のもとに立ち戻り続けること。ナウウェン

「私を愛している?」と訊いたとき帰ってくる「はい」という返事を、信じなければいけない。実際にはそうはならなくても、この「はい」をえらびとらなくてはいけないのだ。
私たちは、様々な遊びや、空想、快楽の世界に身をまかせたいという危険な欲望に負けそうになる。
だが、そんなところにはもっとも深遠な問題にたいする答えなど見つからないことなど、とうに知っている。また、過去の出来事を反芻したり、罪悪感や恥ずかしい思いに浸ったりしてみても、やはりその答えはみつからない。そんなことはすべて、自分を虚しく浪費し、自分の家が建っている堅固な岩を棄てさせるだけである。
堅固な場所を信頼しなければいけない。たとえ神の愛を感じていなくても、感じていると言える場所を。
今のところは、虚しいばかりで何かをえらぶ気力がないとしても、「神は私を愛している、神の愛だけで充分だ」と言いつづけるのだ。何度でもその堅固な場所をえらんで、挫折するたびにそこへ帰らなければいけない。[3]

ちょうどちょうど良い文章に当たった。神の愛を実感することができていなくとも、神の愛を信じ、神のもとへ何度挫折しようとも立ち戻ること。「神の愛を信じることができない」と嘆いていた自分にピッタリの言葉だ。実感を求めすぎてはいけない。
そして、何度でも立ち戻ることが許してくれる神とは、なんとありがたいことか!

[1]『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳,php文庫,2000,
[2]『キリストにならう』(バルバロ訳,ドン・ボスコ社,2001年改訂版,)第1巻、6章「節度のない欲望」より
[3]『心の奥の愛の声』ヘンリ・J・M・ナウウェン,小野寺健訳,女子パウロ,2002,「つねに堅固な場所に帰ってくること」全文。

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2 件のコメント

  • 何度でも立ち戻ることが許してくれる神、最後のここが根幹で肝要ですね。
    立ち返ることは、自分が罪あるもの、このうえなく小さいものであることを知り感じ信じ直すこと、だと思います。何度も。
    べき論は、自分が善くありたいという欲がありますね。
    主に立ち返り、そのような欲からも解放されて、主に満たされる器となる、これはただの喜びです。この喜びは、神様を感性的でも理性的でもなく、あるいはそれらすべてで、知ることだと思います。

    • veronicaさま、ご感想ありがとうございます!
      「立ち返ることは、自分が罪あるもの、このうえなく小さいものであることを知り感じ信じ直すこと」
      「信じ直す」良い言葉ですね。自分は取るに足らない、どうしようもない存在であることを知るから、信じ直す。そうした意味では、罪を犯しその罪を自覚することはとてつもない恵みのように思いました。

      「主に立ち返り、そのような欲からも解放されて、主に満たされる器となる、これはただの喜びです。」
      自分が神の道具として生きることを「ただ喜ぶ」ことができたとき、一切は喜びなのでしょう。
      「この喜びは、神様を感性的でも理性的でもなく、あるいはそれらすべてで、知ることだと思います。」
      素晴らしすぎる視点です。「ただ喜べる」ことの内に、「信仰・希望・愛」のすべてが詰まっているのかな、と思いました。
      座禅道場でも「ただ坐る」のでなくてはならない、とよく言われます。因果を超えて、報いを超えて、口から心からでるすべての文句・期待・予測を超えて、その時その場に「いる」ことが、宗教の極意なんじゃないかと思います。
      あぁ!すべてをただ喜びたい!!ついつい叫んでしまいます…。

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    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。