信仰とは②理性の及ばぬ神秘へ、意志の手でしがみつく。

今回は「信仰なんて…」と、とりあえず斜めに見てしまう人に向けて、「信仰とは一体なにか」哲学的な著作からご紹介し、
信仰はただの盲信なく、真剣で誠実で勇気ある営みであることをすこしでも伝えられたらと思います。

信仰と真理・理性を、人はしばしば対立するものとみなします。
信仰はすなわち、盲信であり、冷静な判断を喪った者の妄想に過ぎない、と。
しかし、キリスト教の信仰は、真理と信仰との一致を主張し続け、信仰は理性に反するものではありません。
稲垣良典氏はこの点を『カトリック入門』(ちくま新書)でとてもわかりやすく書いておられました。
この著作を引用しつつ、
信仰・理性・意志との関係について考えてみたいと思います。
信仰とは、理性の限界の向こうにいる神(真理)へ意志によって手を伸ばすことであり、
意志によって「神は真なりと信じる」ことで、自分の生を秩序付けることであると言えます。
理性の領域に留まる限り、信仰は出てこないということです。
理性を超えて、頭を振り切って、自分の実存のすべてを賭け、実行して行かなくてはならない、そうした面が信仰にはあるのだと思います。

ニーチェの手紙「真理か信仰か」

哲学史に大きな転換をもたらしたニーチェは、妹へ宛てた手紙で、信仰と真理との相克をロマンチックに謳い上げます信仰と真理(理性)とを矛盾するものとして捉える立場の代表として、すこし引用します。

われわれが探究において求めているのは、安心や平和や幸福なのだろうか。
そうではない。
ただ真理のみ、たとえ、極めて怖ろしい醜い真理でもよい、ただ真理のみなのだ。(中略)
祝福を与えてくれるのは、ただ信仰のみであって、信仰の土台になっている客観的事実ではない。
本当の信仰は、どれもみな不可謬のものだ。信仰によって、信ずる人が得ようと望むものが得られることは、間違ない。
だからといって、信仰は客観的真理の証明を少しも与えないのだ。
ここで人びとは別々の道をいかねばならない。
君が魂の安らぎと幸福を追求する気なら、信仰するがよい。
真理の弟子となる気なら、探究したまえ」。[1]

ニーチェは信仰と真理を鋭く切り分けます。
それどころか、信仰は幸福と安らぎを与えうることを認めた上で、「信仰する者は真理の弟子にはなりえない」と言います。
ぼくもこの言葉にはとても酔い痴れたものです。「そうだそうだ!俺も信仰なんて蹴っ飛ばして、真理を探求するぞ!」てな具合に…。
このニーチェの見方を論駁することは、聡明なかつおヒマな方々にお任せしておいて、本記事ではこの「信仰と真理(理性)との矛盾」を真っ向から否定する思想を見ていこうと思います。
(このニーチェの見方も、一つの「真理信仰」であり、「真理信仰」という形をとった「エロス的な情熱、自己破壊願望」にも見えます…)

理性によっては捉えられないものを「信じる」

稲垣は、カトリックの信仰観を現す聖書箇所として、

「信仰とは何か?
それは私たちの希望によりどころを与え、
私たちが見ることのない事物について
確証を与えてくれるもの
である」(『ヘブライ人への手紙』第1章)

を信仰観の筆頭として挙げることに躊躇しない、と述べ、以下のように解説しています。
(ここで言う「カトリック」とは、「カトリック教会」どうこうではなくて、「キリスト教の一つの伝統」という意味に読むと良いと思います)

「信じる」という行為は、これまで信仰と知的な探求ないし真理との内的な結びつきについて述べてきたことから明らなように、
人間理性ないし知性の行為であるが、それの関わる対象が「私たちが見ることかできない事物」であることから直ちに推察されるように、
理性ないし知性のみによって遂行される行為ではない
それは「意志の命令によって一つのことへと確定された知性(理性)の行為」なのである。[2]

まず、信じる「対象」は、「私たちが見ることのできない事物」であり、理性や知性によって捉えられるものではありません
「信じる」ことは、知性や理性のみによっては決して遂行されません。
人がいくら頭だけで考え「理性的・知性的」に神・真理について知ったとしても、
「理性・知性」の範囲に留まる限り、「信じる」ことは永遠にできません。
そこで、「意志」こそが信仰には求められることになります。
(稲垣さんはとても哲学的に、精確に語っていて、一読してもわかりずらいことが多いので、ぼくはわかりやすく簡略化して解説しようと思います。)

「意志」によって、理性の歩みを秩序づけること。

では、「意志」は「信仰」において一体どのような役割を果たすのか。

そして「見ることができない」というのはそれら「信じるべき事柄」が人間理性
の認識能力を超え出る
第一の真理である神の観点から認識されるべきことを示している。
このような神的な事柄を対象とする人間理性の知的探求の歩みは覚束なく、動揺を免れることができない
そこでこの思考の動揺を静めて一つのことへ確定するのが意志である。(中略)
したがって、人間を超え出る神的な事柄に関しては、理性(知性)を超えて先に進むとされる意志は、
その対象である究極目的へと確実に秩序づけられている限り
同じ目的を目指しつつも思考の動揺に悩まされる理性を支え、確定することができるのである。[2]

信じるべき「対象」は人間の知性・理性を超えたものです。
例えば「この世界を創造した全知全能の神が、ナザレのイエスとして歴史の内に人間として受肉した。それも処女なる聖マリアによって」なんて、まったく「理解不能」な神秘です。
だから、こうした種々の「神秘」の前に、動揺し、疑い、否定したくなるのは「自然」なことなのです。(「死んだら人はどうなるのか」「私はなぜ生まれたのか」といった宗教的問いもすべて、近づきがたいひ「神秘」です。)
そこで、「意志」の出番というわけです。

一つの前の引用で、
信仰とは「意志の命令によって一つのことへと確定された知性(理性)の行為」と言われました。
信仰は「意志」によって一つのことへと向けられなければ、ぐらぐらぶれて、途方に暮れてしまいます。人間の不完全な理性・知性をいくら重ねても、真理(神秘)を理解することなど不可能だからです。

したがって、「意志」が「対象である究極目的へと確実に秩序づけられ」てこそ、
「同じ目的を目指しつつも思考の動揺に悩まされる理性」は支えられ、正しく機能することができるのだと、稲垣は言います。
意志が「これは真理である」と確定して初めて理性はその確定された信仰の上で、自由に駆け回ることができます。
信仰は意志をもって確定されなければならない。理性・知性のみによる信仰はぐらぐらと揺れ、いずれ座礁する以外にないのです。
けれども一度神を信じ、聖書は神の御言葉であると意志によって確定したとき(これは何もキリスト教だけに限らず、どのような「信仰」であっても同じでしょう)、
人間に与えられた理性も、人生も、神へむかって秩序付けられ、真に生きられることになります。
(ここでは「超自然こそが自然である」というカトリックの信仰観も重要な役割を果たしています。
理性によっては理解できない「超自然(不合理)」こそが
人間・世界にとっての真理であるという意味で、実は「自然」なのだということです。超自然こそが自然である。(神の奇しき御業ということです)
「あらゆる点で有限の存在である人間が、無限(神)を求めて止まない。」だとか、
「一つの行為が人間の自由意志おいて、かつ神によって行われる」とかが挙げられています。
この点については同著の第2章「カトリシズムと『超自然』」をご参照ください。

神の啓示と信仰

さて、少し細かいところに立ち入って頭が混乱してきました。
もう一歩引いた視点から信仰について語る箇所を確認してみましょう。

啓示とは神が自分自身と自らの業を、人間に理解可能な何らかの手段を通じて示すことであり、
信仰とは人間がそのような神の啓示を真理として承認し、それに従って生きることだ、と言えるであろう。
わかりやすく言うと、啓示とは「教える」神の言であり、
信仰は「学ぶ」者である人間が神の言に耳を傾けることである。
何かを学ぼうとする者が第一に為すべきこと、それなしには「学ぶ」こと自体が成り立たない必要不可欠なことは、
教師の言を聴くことであるから、神の教えに従って生きる道である宗教にとって、信仰が何よりも不可欠で大事であることは明白であると言えよう。[3]

神の啓示に従って生きることの出発点、それが、神の啓示を真理として承認することであり、その啓示に耳を傾けること、それが信仰であります。
その信仰の内部では、「神の啓示を真理」として「承認」することが「意志」によって行われ、
そのように意志によって一つの真理に結び付けられ、秩序付けられてこそ、知性や理性は自由に働くことになる、そう言えそうです。
「意志」によって、頭では・理性的にはわからないのだけれども、とにかく信じること。
この「意志」による一つの跳躍がなければ、「神はいるのか?いないのか?キリスト教の神は真理か?」(真理とは何か)と問い続けるだけです。
「教師」を疑えば、「教師の言葉」なんて、もちろん耳に入りません
しかし、とりあえず教師を信じて、とりあえずそいつの言っていることを実践してみる、そんな道もあるはずです。
たとえ頭・理論では納得できずとも、実行してみて始めてわかることがこの世にはたくさんあります。(というか、理論・知性によって「わかる」ことのできるものなんて、生きる上ではなんの役にも立たないことばかりだと思います)
仮説を立て、実証する、それでだめなら仮説を省みる。これは盲信でも、理性に反することでもないでしょう。
(理性的・知性的には)理解ができないのだけれども「信じる」ということが、キリスト教信仰の第一の壁
なのだろうと思います。

跪いて神に祈ること

最後に、非常に美しく鮮やかにキリスト教の信仰について語る岩下壮一『カトリックの信仰』より,信仰と理性との関係に関する箇所を引用して終わりにします。

宗教の信仰に至っては、それに対する十分なる保証を認めつつも、さらにかかる保
証ある以上はこれを承認せざることは不合理なりと判断しつつも、
しかもその対象が直接の証明を伴わず自明ならざるが故に信仰せざるを得る可能性をのこす。
さらに第二の理由は、信仰上の事柄は単に理性の承認だけですむ科学上の抽象命題と異なり、その事柄を認めるか認めないかによって非常な道徳的責任を生ずる事柄であり、
その道徳的責任を引き受けるとは場合によっては本人の我儘には非常な不便になるために、自己の利害と全く離れては信仰することができないことである。
ここに理智の承認において見られぬ自由意志の作用が信仰では加わってくる。
信じ得るためには自由に信ずることを欲せねばならぬ。
聖書に、信仰は神の賜物である、また神の恩寵がなくては信仰にはいれぬ、というような意味の文句があるのは、ここを指したのであって、
神の恵みはよく人をしてこの難関を切り抜けることを得しめるのである。
真理に対して頑強に抵抗するという罪から、我々が神の力によって解放されるのでなくては、真の信仰にはいり得ない。
だから祈り 少なくも神いまさば信仰を与え給え、という仮定的の祈り――が絶対に必要であり、また跪いて祈るために心は謙遜にならねばならぬ。
キリストはつとに「汝等幼児のごとくならずば天国に入る能わず」と戒めて、這般の消息を明らかにし給うた。
また「求めよ、さらば与えられん」ということは、信仰について最も真なる所以である。
さればこそまた学者が一番信仰に篤いのでなく、救わるる者にかえって無学文盲の篤信者があるという現象をも、これによって説明することができる。
かくのごとく、信仰と理性との異なった性質、またその相互の関係というものは、普通に人が想像するような簡単なものではなく、
これを明瞭に頭に入れておかぬと、信仰の尊きことも理性の忽せにできぬことも、十分了解するわけにゆかぬ。[4]

以上、なんだか自分でも書いていてよくわからなくなってきました。
とにかく、「信仰」ということに証明や理性的な納得を求めるべきではない
「信仰」は、理性や論理を超えたところにおいて行われるということをなんとかお伝えしたかったのです。
だからもし「信仰」したい方がいらっしゃるとしたら、本を読み、頭で考えまくっても、信仰は出てこないのだろうと思います。
頭ではなく、心とからだ全部で、魂で、自分の実存全体を、神さまに、イエス・キリストに、ぶつかっていかねばならない面があると思います。
「お前が真理だと言うのなら、俺のすべてを救ってみろ!」(これじゃあ謙虚さはないけど笑。でも、全力で期待をするということが、第一歩なのかもしれません。)、と。
いや、そんなこと言葉にする以前のところで、自分のカオスそのものでもって、ぶつかっていく、捧げていくのかもしれません。自分の意識をも超えた根底を、神さまの方に向けるのです。
自分の根底を、神の根底と重ね合わせるような…。

神の恵みが必要不可欠なのはもちろん、
「これ以上、宙ぶらりんで生きることなんてできない!」という切迫した叫び、要求がなければ、こうした大胆な決断はなかなかできないことなのかもしれません。

いずれにしても、最後の引用で岩下壮一が言うように、
信仰は、謙遜にひざまずいて神に祈り、信仰我に与え給えと祈り求める、他力的・神秘的な営みであることは忘れてはならないでしょう。自力のみによって得られるものではないのです。
また「仮定的の祈り」と言われるが如くに「意志」を用いて信じてみて、それでだめなら、「これは真理じゃなかった」と仮定を翻してみれば良いだけです。
伝えたかったことを一言でいえば、
「『信仰』の前でぐだぐだとしていても、ラチがあかない。とにかく信じて、やってみる。それから考え直せば良いじゃないか。」ということです。
シリーズ「信仰とは」の他の記事も、ぜひご参考くださいませ。

 

[1]『細谷貞雄 ニーチェ特殊講義 』東北大学出版会「第3年度講義ノート」における引用より孫引きしました。
この本を読みながら『ツァラトゥストラ』を読むのが、ニーチェの入門にはおすすめです。
[2]『
カトリック入門-日本文化からのアプローチ 』稲垣良典著,3章「信仰と理性」より(ちくま新書 1215) 稲垣良典
[3]同書、2章「カトリシズムと『超自然』」より。
[4]『
カトリックの信仰 (ちくま学芸文庫)』岩下壮一著,第1章「天主」より

 

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。