宗教的安心・救いとは。自力と他力、八木誠一。my読書[3]

最近はキリスト教、イエス関連の本をあっちこっちと読んでいました。というのも、3年間続けている臨済禅の修行をこれからも続けて行こうかどうか、悩んでいるからです。
ぼくが得たいのは安心です。それがぼくの求める「救い」であります。
ではその「安心」「救い」とは一体どのようなものか、またその「救い」を得るための「他力」と「自力」との違いについて、ぼくの考えをちょっくら書いてみます。

「安心・救い」。「自分の外側(物質)」か「自分の内側(宗教)」か。

僕にとっての「安心・救い」とは、過去も未来も生も死も、世間体も周りの評価もプライドも、余計な一切のことは考えずに日々を過ごし眼の前の日常に徹することができている状態です。
何も心配事がない。事実として様々の不安を誘うことはあるのだが、それが全く気にならずに日々を過ごせている状態です。
(「いま・ここ」に徹しきれている状態においては、何も余計なことは考えず、自然に行動が内から溢れ出てくる感じがあります。何にもひっかからずに、さらさらと自分が動いている感覚です。この「働き」を「神や仏性、自然」と名付けるのではないかとぼくは思います。)

一般的・世間的には、社会的な地位や安定した収入、身の回りの人々・環境の整備によって「自分の外側」を安心の状態にさせようとするのだと思います。
しかしいくら「自分の外側」が安心できる状態であったとしても、世は無常です。世界は思い通りにはなりません。
そして人の心は不安でも悩みでも、いくらでも考えることができます。あれこれと考えを掘り下げることによって、いくらでも不安に不幸になることができるのです。お金がいくらあっても、欲望が満足されることはないとも言い、欲望も尽きません。いつでも「もっと欲しい」となります。いつまで経っても安心は訪れません。

こうした「自分の外側」の環境整備によって「安心・救い」を得ようという立場に対して、「自分の内側」を整備することによって「安心・救い」を得ようという立場を、ここでは「宗教的立場」と言いましょう。何かを信仰することによって、あるいは座禅によってブレない心を維持し続けることによって、一切の不安も心配事にも惑わされずに、目の前の一日に全力を尽くして生きようとする立場です。要は自分の心、生きる姿勢を変えることで、「安心・救い」を得ようとするのです。「自分の外側」がいかに苦しく、希望が見えない状況であっても、「自分の内側」を整備しているから気にならない、というわけです。
この考えには、宗教はこの現実(現世・日常)をより良く生きるためのものであるべきだというぼくの立場から来ています。例えば現世を来世のための手段とするような、生きているこの現実を軽視する考えがぼくは好きではありません。それは逃げだと思います。(ニーチェが言うところの、「背後世界論者」です。)

自力(修行)と他力(信仰)

臨済禅であるならば、座禅及び作務の修行(自力)によって雑念を抑え、自分も忘れて「いま、ここ」になり切ることを目指します。老師との禅問答によっては、自分の気づかない執着や汚れを師にはたき落としてもらう、尻を叩かれます。そうして「本来無一物」を目指すわけです。「ただの人」を目指すわけです。ぼくはそう捉えています。(とても実践できてはいませんが。)
曹洞宗も大枠で言うたらこれと同じだと思います。めざすところは、あるがままの自然です。
これが自力の立場です。自力を尽くしてその果てに自己を捨てる、それによって、う余計な一切のことは考えない、心から日常に徹することができるわけです。修業によって自己を抜け出していくのでしょう。自分を忘れて目の前のことを生きていますから、明日の飯も、滅後の不安も、なんにもありません。(あくまで理想です)

他力の立場も目指すところは同じで、余計な一切を考えず目の前の日常に徹するのだと思います。
けれども方法が違います。他の力(神や阿弥陀仏)を信じ、他力に自分を任せることによってです。神や阿弥陀如来を信じて、世界の流れ、生の流れに身を任せるためには、つまり「信仰」のためには、結局のところ自己を捨てなくてはいけないと思いますから。
他力に身を任せ、自己のはからいの一切を捨ててしまえば、あとは一日一日、毎分毎秒に身を任せることができるのでしょう。自分のはからいを捨てたところで、自然と表れ出てくる行為、これを神の働きだとか、考えるのだと思います。
「もはや生きているのは私ではない。私の中にキリストが生きている」(新約聖書ガラティア2:20田川建三訳)
また、「空の鳥を見よ。蒔くことも刈ることも、集めて倉に入れることもしない。しかも汝らの天の父がこれを養い給う」(マタイ6:26同訳)、すべて神に任せてしまえば良いという心境でしょう。

自力で修行して自己を捨てる(自力)か、他の信仰によって自己を捨てる(他力)か。目的は、余計な一切を考えずに毎日を生きることです。そのためには自分を捨てて、自分に対する執着をきれいに取り去ってしまわなければならないのです。

臨済禅、自力への疲れ。

ぼくは今まで自力の立場、臨済禅の立場で「自己を捨てること」を目指して来ましたが、いろいろあってなんだか疲れてしまいました
禅宗の立場は、生きる限り修行をつづけ自己にへばりついてくる雑念を取り去って行かねばなりなせんが、それをこれからも続けていくという気持ちが萎えてしまっているのです。(「道心が弱い」ともいえます。)
臨済禅としては、自己を信じ抜き座り抜き老師の室内を叩き抜いて、「八識田中に一刀を下す」、自己の根源に向かって自我をぶった切らなくちゃいけないわけです。他の一切を信じぬ代わりに、自力を信じ行に励むのです。こいつを中途半端にやったって仕方がないじゃろうと思います。自分の力で、小ちゃな自我をぶっ切って、大きな我に生きるんじゃい!「天地と我は同根、万物と我は一体」を目指すんだい!という人にとっての修行だと思います。ついつい腰を据えたくなってしまうところで、大勇猛心を振り絞るわけですが。
この自力の立場自体が、ぼくは自分に合ってないような気がしてきました。今の自分にとっては、自分の力よりも他の力、絶対者の力を信じたいと思うのです。そっちに救いを求めたいと思っています。
絶対者の力というものでもなく、ただ毎日の暮らしの中で、正念に住するように心がけるよりも、「主よ」と念じた方が自我・欲望を抑えられるように感じています。我執を抜けて、「今なすべきこと」を行えるように思います。いまのところ。

八木誠一。欲望的「自我」のより深くにある「自己」

今読み直しているのは、八木誠一の『[増補新版]パウロ・親鸞*イエス・禅』です。
(イエスの宗教とキリスト教を分けるべきとの主張については別のところで紹介したいですが、)仏教徒キリスト教の宗教対話を続けてこられた方です。
自力も他力も目指すところは同じであるという考え方は、3年前にこの本を読んでからぼくの大きな枠組みとなっています。また、自己と自我を分ける人間の理解も大大大好きです。生活の指針になります。
簡単にまとめますと、
ほとんどの人間はほとんどの場合において、意識的、欲望的、エゴイスト的な「自我」から行為しています。他を手段化し、自分のために利用しようとしているときの主体が「自我」です。

しかしエゴイスト的「自我」の根底には、自他も自利も離れた「自己」がいます。この「自我」の根底にある「自己」を発見し、それに根ざして行為することこそが、タイトルにもなっている4者の目指しているところだというわけです。自己の内に「はたらく神」です。(世界全体にも「働いている」のか気になります。)この点において、キリスト教と仏教とが「同じ一つの人間の行為の仕方」を目指していることを主張するわけです。
非常に簡略的ですが、今回のところはここまでにします。

↓前後の記事↓

my読書[2]言葉の排他性と神の沈黙-

2018年11月12日

2 件のコメント

  • 安心できていられるなら、自分を不安から守る必要がないから、必要以上の欲望は不要になる。そのチカラを自分でなく他者に注ぐことが出来れば、救いであり平和の礎になると思う。

    • コメントありがとうございます!

      なるほどです。
      確かに、必要以上の欲望はみんな、安心できないからこそ、求めているだけなのかもしれませんね。
      人間同士、お互いがお互いを癒し会えるような世の中に、少しでも近づけたいなと、祈ります。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。