お金は道具であり、それ自体に何の価値もない。フリーターとクレメンス

ぼくはフリーターです。
平日の5日間働く仕事(時間給)+ちょっとしたお手伝いのアルバイトをして、学費を親に返しつつ、実家で暮らしています。
さて、「せっかく」早稲田大学まで出たのにフリーターという形で頑張っているのは、
あくせく働いて心身をすり減らし、ぼくにとっては「幸せを生むとは思えない」娯楽のためのカネを稼ぐより、収入が少なくとも人と関わる仕事をしつつ、同じ時を生きる人の本当の幸せにつながるような活動にエネルギーを注ぎたいと思ったからです。
一言でいえば、ぼくにとって幸せに思える道を選んだわけです。
しかし実際にフリーターという身分になってみれば、やはりそこにはフリーターの苦しみがあります。その一つが、「カネ」の問題です。
仕事への準備や心配、責任ということからは、ある程度「自由」なのがフリーターですが、代わりに迫ってくるのが「どこで、いくら稼ぐのか」という際限のない焦りです。
今回は意外なところですが、キリスト教の中世思想、アレクサンドリアのクレメンス『救われる富者は誰か』から考えてみたいと思います。キリスト教云々はおいといて、自分のやりたいこととお金との間の問題に悩む人に、参考になればと思います。

果たしてイエスは「無一文になれ」と言ったのか?

さて突然ですが、新約聖書においてイエス・キリストは、「行ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施せ」(マルコ10:21)と言いました。これを文字通りに適用したら、キリスト者はみんな無一文になります。
しかし、イエスは「隣人愛のために」私たちがみんな無一文になることを求めているのではないと彼は言います。
(キリスト者にとって、聖書は神の霊感によって書かれたものですから「そんなわけねぇべ」と軽く見過ごすわけにはいかないもの。つまり聖書を解釈することはある意味で命がけです。命がけでお金について考えたからこそ、この文章はキリスト者以外にも読む価値があるのだと思います。)

「今ある財産を売り払って金銭から離れよ」という命令ではない。
むしろこれは金銭をめぐる思い、財に向かう執着心、過度の欲求、金に関する恐れや病的感情、思い煩い、生命の種を摘み取る生の刺を霊魂から取り払うようにとの命令なのである。[1]

外的に「金持ちか/貧乏か」なんて、関係ない。むしろ、金に執着する病的な気持ちや、金のことばかり考える思い煩いこそが問題なのだ。
金持ちだろうが、貧乏人だろうが、関係ない。ただその人の「気持ち・心」が金にしがみついているか否かが問題であり、金への意地汚い執着を離れることを、イエス様はお命じになっているのだ!と。
イエスが主張したのは、「お金に近づくな!」ではなく「お金に執着することで思い煩うな!魂を汚すな」ということだと、クレメンスさんは主張します。

金を追って金に苦しむ。

フリーターの苦しみと先ほど言いました。
クレメンスさんが言ったように、ぼくにとってのこの苦しみとは、金への執着心だったということです。別にお金は悪くない。それに執着する自分が悪いわけです。
自分の日常を振り返ってみれば、人と会ったり、様々な活動を考えるとき「それはカネになるのか」という思いが頭をぐるぐると巡り、やっぱり迷ってしまう、金に執着し、金に思い煩っている自分を発見します。
ときには、「これはお金にならないんだよなぁ」と頭の中でつぶやき、勤務時間をだらだら伸ばし…、我に帰って「俺は一体なんのためにこの暮らしを選んだのだ?金よりも大切なことを優先したかったのではなかったのか」と、反省です。
せっかく、少ない収入で自由に生きようと思ったはずなのに、結局カネ稼ぎが目的になってしまっている。人間の矛盾、愚かさです。
悪いのは金じゃねぇ!自分の心だ!

そもそもお金とは?

しかしそもそも、お金とは何なのでしょうか。クレメンスさんはこう言います。

なぜなら財産というものは、所有するに値する所有物であり、有用性を秘めた力であり、人間が用いるべく神によって準備されたものだからである。
この財とは実に[使い方に]通じた者の手で善い使い方をされるべく準備され整えられた、いわば素材であり道具なのである。[1]

お金は道具だ!善い使い方ができる者に、善い使い方をされるべきものだ!
とクレメンスさんは言います。
決して嫌うべきものではない、それどころか「うまく使ってくれよ」と神様から準備されたものですらある、と。
極めてシンプルで、力強い言葉です。

道具というものは、もし術知をともなって用いられるならば、その術知を活かすものとなる。
だがもし術知が不足すれば、道具それ自体にはなんら責めがないにもかかわらず、その道具はあなたの不器用さに災いされることになる
富もまたそのような道具なのである。あなたはそれを正しく用いることができる。するとその道具は、正義のために役立ってくれるであろう。[1]

別にお金は悪くない!それを使うお前が不器用で愚かだから、お金が悪いことに使われるのだ!
またしても、シンプルです。
あなたは正しくお金を用いることができる。するとお金は、正義のために役立ってくれるだろう」
そう、お金はそれを使う人次第なのです。お金は道具であって、道具そのものに価値はない。ただそれが善く使われれば善いし、悪く使われれば、悪い。
当たり前だけれども、忘れてしまうことだと思います。
とくに最近は【レンタルあいづち兄さん】の活動を始めて、色々な方のお話を聞いてみるとお金って本当にくだらない使い方をされているなと思います。
化粧品に何万、ホストに何十万、車にバイクに、酒に、キャバクラに…。飲み会に、家電製品、ブランド品、自慢するための買い物…。
お金を正しく使って、心から幸せだと感じる人は一体どれだけいるのでしょうか。
大切なのはお金が多いか少ないかなんかより、お金を使う心のあり方だと思います。
お金を稼ぐことよりも、お金を使う心を「正しく」保ち、日々金への執着に汚れてゆく心を掃除するほうがずっと大変だと思います。

手段としてのお金とどう付き合うか

さて、ややこしい話はわきにおいて、「じゃあお金という道具とどう付き合ったらよいのか」
お金は手段です。道具です。お金それ自体に価値なんてこれっぽっちもありません。
そこでいちばんに考えるべきなのは、「目的」です。目的があってこそ、道具が必要とされる程度、道具がどれだけ必要かも決まります。
何のために、いつまでに、どれだけお金(という道具)が必要なのか
多くの人は、目的も必要な量も考えずに、「とりあえず」道具(お金)を蓄えておきたがります。いつか使える、いつか役に立つはずだと。
そうして結局、お金を貯めることが目的となってしまいます。余裕のあるほど溜まったら、「よく考えもせずとりあえず」使います。それで「これまで頑張って生きてきて良かった」気になります。
目的と手段が逆転しちゃうわけです。道具自体には何の価値もありません。大切なのは、「お金をどう使うのか」です。ドブに投げ棄てるのか、自分や人の幸せのために使うのか。
つまり、まず考えるべきのは、「目的」です。
人生の目的、今年の、今月の、今日の「目的」です。「その目的を果たすため」に、お金という道具を使うわけです。(別に「人生の目的」なんておおげさなものを考える必要はありませんが)
その目的を果たすために、「お金という手段がどれだけ必要」で、「必要な分をいつどこで稼ぐのか」が問われるのです。しかし大抵の場合、「とりあえず金はあっても困らない」と考え、「ひたすらにお金を稼ぐ」ことに力を注ぎ、気づいたときにはお墓の中です。地上では遺産相続に争う親戚家族…。
お金は手段・道具に過ぎず、それが「何のために、どう使われるのか」こそが問題であり、それは結局「この限りある人生を、自分はどう過ごし生きるのか」という生の問いにつながっていきます。
あえて断言してみましょう。お金なんて手段・道具です。
道具をかき集め、余裕ができるほど貯まる度にドブに投げ捨て死んでゆくのかたとえ貧相な道具であっても、それを最大限に使いまわしてこの限られた命を輝かせるのか
Time is money.
必要のない道具(お金)を集める代わりにかけがえのない時間を本当に大切なことに使うことも可能です。
お金の問いは、生の問いでもあるのです。
誰よりもまずぼく自分に対して、強く刻みつけたいものです。

[1]『中世思想原典集成 精選1 ギリシア教父・ビザンティン思想』 (平凡社ライブラリー),所収「救われる富者は誰か」より。

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。