回
全ては無意味。
人生はむなしく、孤独に閉じ込められたまま、あの世に向かってひとりきりで川をくだっていくようなもの、なんの価値もない、何の意味もない、どうしようもない肉のかんおけだと、人は言う。
こんなのは、ぜんぜんシンリぢゃない。虚無へのとじこもり。ただダダをこねてる3歳児だ。しかしシビアな現実。要するに、思い通りにならないと地団駄をふむ3歳児を卒業することは、人生の前に反り立つデカい壁で、挑戦するのさえ、困難な大事業なのだ!
自分が生きてここに在ること。それよりももっと、世界が存在し、私はその世界の内にある一つの肉体の中から、世界を見ているということ。「私」はここにいて、世界の内側の、暗やみの手前のこちら側から、この目の前の世界を見ている。これはなんなのだ?
ぼくはいわゆる「意識」だ。ある一人の「意識」として、意識の内側から、むこうにある世界を見ている。これって、世界に底抜けの穴がひとつあって、その穴の中の真っ暗なところにぼくが居て、その穴の暗がりの内から、外の世界を覗いているのがぼくだと、言えそうだ。
ぼくがいるその、世界の時間も空間も抜け出したところにある場所。暗がりみたいな、無限に深いひとつの穴。世界にぽっかりとあいた穴。底無しの深淵。ぼくはその場所から、その暗がりから、全てを無に帰すブラックホールから、そのブラックホールの内から、世界を見ている。ブラックホールの暗がりから、世界を見ている。
暗がりといっても、暗いわけではなく、むしろ明るくもみえる。世界に切り開かれた、底抜けにまっしろい裂け目にもみえる。その裂け目の内に、ブラックホールの内に、ぼくは居て、時空を超越したその場所から、ぼくは向こう側の世界を見ている、そんなふうに言えるらしい。
この場所、この暗がりこそが、ぼくには一番みじかな、いちばんはじめの根源的なところなのだと思う。ぼくのビッグバンがここで起きて、ぼくはこの場所で誕生し、この、「ぼくの暗がり」で、「ぼくの世界」が始まったのだ。
でも、こうやって書いていると、「ぼく」がはじめから居たみたいなふうにも見えるけど、たぶんちがうと思う。
始めには、ぼくが生まれる前の「ぼくの暗がり」が、「すべての暗闇」からポーンと出てきて、「ぼくの暗がり」が生まれ、その「ぼくの暗がり」に充満する空気の中に、ぼくがいわば「気体的に」いつの間にか住んでいた。住んでいたというよりも、暗がりの空気が、ぼくに「なっていた」。ぼくは暗がりの空間に、暗がりの空気として気体的に誕生していて、そこで育っていったと言えるかもしれない。
『老子』に出てくる、世界の誕生(世界の分節化、主語の誕生)に先立ったすべての根源としての混沌を、「すべての暗闇」と表現しているつもりだのだな、ぼくはきっと。
こう「ぼく」「ぼく」と言っているけれど、「ぼく」なんていないのだ。あるのは、世界を見ているひとつの暗がりそのもの。そこに気体的に住んでいるぼんやり。
『創世記』のあたまで水面の上を泳ぐように舞っている神の霊みたいなイメージが、このぼんやりに近い気がする。神さまはその霊を、土からつくった「人間」という身体に吹き込んだのかもしれない。そんな表現が創世記でなされていても良かったのかもしれない。
「ぼく」という人間チックな存在ではなく、世界創造以前の深淵の水の上を舞っている精霊みたいな、暗闇的なちょっとヒンヤリした水みたいな、魂と言われるような、よくわかんないもの。それが、「ぼくのこの暗がり」に住んでいる。
そしてその暗がりの中から、そいつが世界を見ている。この暗がりという場所に、世界が映っていると言いたくもなるけど、それはただ無理やりくっつけただけかもしれない。
こうやって、「人生」なんかよりもずっと根もとのところについてあれこれ考えてみると、〈この全て!〉は奇跡そのものなんだという気がしてきて、むなしさなんて、逃げて隠れてもう出てこない、と思えるときがぼくにはあるみたいだ。
でもこれは、文章だけじゃあどうにもならない気もする。自分は一つの暗がりとして、世界を成立させているというか。自分は、世界ぜんぶを働かせている力で働きで、そしてその場所そのものなんだというか、そんなことを、たまに、全身で感じているのだろうか、それともただの思い込みか。
真夜中に、机の前で考え事をしていて、目の前の窓から冷んやりつめたい空気が入ってきて、ぼくは今いる自分の部屋に、世界ぜんぶが充満していることを肌で感じるようなときがある。そんなときは、せかいすべてがこの四方の壁の向こう側と切れ目なくつながっている、みたいに表現したくなるような、なにかがある。
例えば「東京駅」と言って、直接にひとっ飛びで東京駅を頭の中に思い起こすのではなくて、「東京駅」を、今自分が座っているこの部屋、そして壁の向こうのぼくが住む住宅街、道路のずっと向こうに在ることを感じる、直観的に予感するみたいだ。僕が今いるこことつながったところにこそ、東京駅があると感じるというか。
すべてはこのぼくの世界、このぼくの部屋、ぼくの暗がりの中にこそ在るということを感じているのかもしれない。この「東京駅」は「ぼくのビックバン」で生まれた「ぼくの世界」の中にある「ぼくの東京駅」なのだ。
「ぼくの東京駅」以外に、「東京駅」なんてない。「ぼくの世界」の中にある「東京駅」がまぎれもなく唯一の「東京駅」であることを、頭でなく身体で感じている。それが、この部屋と絶対につながったところにある「東京駅」という感覚なのかもしれない。
ぼくを中心点としている、ぼくの世界のなかにこそ、東京駅はある。ぼくという中心点から、ずーっと向こうに伸びていった先に、東京駅は確かにある。世界は、いつでも絶対に今、ここにいるこのぼくという中心点から、いつでも四方に向かって創造されて続けている、生きいきと広がり続けているみたいに。
ぼくのビッグバンによって、世界は常に爆発的に広がり、爆発的な再創造を無限に繰り返すことによって動的に維持されているのだ!なんて鼻息を荒くしてみる、が、勢いで書いたようなもので、ぼくはすぐ忘れるだろう。しかし、忘れるからこそ、感動がある。そうしてぼくは、世界と無限に出会い、無限に世界を創造する。
世界の生死が、永遠にこのぼくの世界に於いて、ハチドリの羽ばたきみたいに続いているのか。そんなこと言ったって、わからないけど。わからないことを、わからないけど書くことに、意味がある気もする。そうしてぼくは生命力を取り戻しているとか、言いたくなっているみたい。だんだん偉そうなことを書きたくなってきてしまうよ。
そこそこうまいこと書けた気もするけれど、これも一つの連想。ぼくの暗がりを漂って、また去っていく切れ端だから、こうしてただ思い起こしてみただけじゃ、どこにもたどり着かないものだ。すぐに消えていくもの、儚い手ごたえ。
この切れ端をどこかに結びつけたり、論理的に積み上げていったりするのは、かえって余計なことだという気持ちもある。何をしたって、いずれ見えなくなって、遠のいて行ってしまうのだと、ぼくは思っている、あるいは、知っているらしい。焦ることなかれ、ジタバタすることなかれ。
はい、また、ごきげんよう。
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