「なぜクリスチャンであるのかね」「このことが真理だからだよ」
①、②の記事では、絶望的な状況から宗教に「救い」を求める、ちょっと重苦しい内容でした。
今回は「世間的な価値観」(私を主役として、「私のため」に世界すべてをみる)に馴染めないというところから「宗教を求める」道を描いてみます。
「クリスチャンであることに、どんな利益があるんだい?」
まず、キリスト教、カトリック教会のドミニコ会所属のクリスチャン、ラドクリフさんの著作を引用します。
最近、「なぜクリスチャンであるのかね」と友人に尋ねられた。正直言って、私は驚いた。私は子どもの時からクリスチャンとして育ってきたので、自分の信仰についてあまり注意を払ってこなかった。(…)
「このことが真理だからだよ」。しかし、友人はこの返答に少しも納得しないで言った。「クリスチャンであることの意義は何なの。その目的は何なの。」
明らかに私たちの意図は食い違っていた。もしキリスト教が真理ならば、すべてのこのことに意義を与える神に向かうことこそがキリスト教の意義であると私は考えていた。
もし私たちが何かをすることの意義を尋ねるならば、ー特に、もしそれが充分に重要であるならばー突き詰めれば私たちは、すべてのことの意義、私たちの人生の究極的ゴール、そして目的を考えることになるだろう。宗教は、まさにそのことに関することである。(…)
従って、神への信仰が「当面の日常的課題と関連性があるかどうか」を尋ねることは意味がない。なぜならば、神がすべての当面の課題の尺度であるからである。
しかし、先ほどの友人は、私の答えにひるむことなく、「クリスチャンであることから得られるものは何だね。何の役に立つのかね」と質問をする。
私は、彼が言いたいことが分かり始めてきた。人が何かの真理を固く信じる場合、それは、自分の人生に何らかの結果を生むに違いない、と彼は考えている。(…)
確かに、クリスチャンであることは、きっと何らかの効果を生むに違いない。(…)例えばクリスチャンは他の人びとよりも冷静でありリラックスしているかもしれない。しかし、もし万が一それが証明されても、ストレスを軽減させるために、誰も、信徒になるように他の人びとを勧誘することはしないだろう。[1]
この二人の間にある面白いギャップは、「なぜ宗教を求めるか」を考える大きなヒントになります。
まずこの友人は、「クリスチャンは何かの目的があって、その目的の役に立つから、神を信じているのだろう」と考えています。
世間一般的には、人が何かをするのは、それが何かを与えてくれたり、役に立ったりするからーつまり何らかの利益を生み出すからーだと考えます。
彼はその世間の枠組みどおりに、「宗教も何かの役に立つから、信じられているのだろう、それでラドクリフさんは、クリスチャンであることでどんな利益を得ているのかな?その利益によっては、私も信じてもよいかもしれない」と考えたのではないでしょうか。
それに対してラドクリフさんは「このことが真理だからだよ」と簡潔に答えます。しかし友人は納得しません。
「(私=主役)の世間一般の価値観」と「(神・真理=主役)の宗教の世界」
この二人の間には、「世間一般の価値観」と「宗教の世界」との間のギャップが現れていると思います。
「世間一般の価値観」(もちろんどのような集団に属するかによりますが)では、人は「自分の利益になること」を選択し、「自分が楽しいと思うこと」をやります。「それは自分に何を与えてくれるのか」が物事や行動、自分の生き方を「選択」するときの尺度です。
「安定した収入を得られるから、公務員になる」とか、「人と直接関わりたいから、薄給でも教育現場で働く」などです。そして自分の思いと矛盾対立する物事は選ばず、退けます。
一方ラドクリフさんは「このことが真理だからだよ」と答え、神が尺度であると考えています。彼にとって、自分の生活の尺度は「真理である神の願いであるかどうか」に尽きるのだと思います。この引用にはありませんが、クリスチャンの世界観からすると、人は自分の生において「神の御旨(意志・思い)」を実現する「神のしもべ」であることを目指します。たとえ神の御旨が自分の想い・不快な感情・利益と矛盾するものであっても、神の想いを優先させることを目指します。
簡単に言えば、この人生の主役は神であり、自分はその神のしもべとして神の意志を行うために生きているのです。
ここで神の意志とは、決して神に生け贄を捧げることなんかではなく、日々神を愛しつつ、かつ隣人(自分が関わるすべての人々)を愛すること、苦しんでいる人に同情し寄り添うことです。自分が「与えられること\愛されること」よりも自分が「与えること\愛すること」を大切にするという生き方です。
さてさて、「世間一般の価値観」も「真理」を全く否定しさるということはないでしょうが、真理よりも先に、「自分」があります。確かに「真理」も大切ではありますが、それよりも「自分の利益・満足・想い」が大切です。
クリスチャンにおいては、真理(神)が主役であって、私はそれに奉仕する存在です。対して「世間一般の価値観」においては「私」が主役であって、「真理」は私がときに選択し、大切にする一つの部分・脇役・部下でしかないと言えるでしょう。
「私」は当然「この人生の主役である」と考える世間一般の価値観にとって、「真理に奉仕する」ために生きるクリスチャンの生は、容易には理解できないものでしょう。生きるにあたっての大前提が、異なっているのです。
現代社会の「私が主役」の価値観に馴染めない人々
ここまで、「世間一般の価値観」と「宗教の世界」とのギャップを見てきました。これは「ギャップ」であって、べつにどちらが優れているとか、どちらが正しいのか等は、また別の問題です。
ある種の人々は、この「世間一般の価値観」の世界に心から馴染んで、納得して生きることができないのだと思います。より自分が納得し、馴染むことのできる世界観を求めて、宗教を求めるのだと思います。
例えば、「世間一般の価値観」は、「私」を主役として、「私がどれだけ幸せになるか・満足できるか」という枠組みで生きることがあります。その「私という主役」のため、「他者という脇役」を利用することもあります。「世界」を「ただ自分が輝き満足するための舞台」とすることもあるでしょう。自分の出世のためなら「嘘も方便」で、生きるために他人をある程度押しのけるのは「当然」です。
別の視点から見てみると、現代の文明社会は「欲望肯定社会」です。人々は自らの欲望を満足させるため、汗水たらして働いて、そのお金で商品を買い、満足した気になります。「食べ放題」で限りなく他の生命を搾取しても、目に入るのは「自分が満足したかどうか」だけです。人間の欲望を満足させるために、現代社会は回っています。
ラドクリフさんも先程の本の別の箇所で指摘していましたが、現代社会は、真理に高い価値をおいていません。現代社会は、人間の欲望をどれだけ「安く・早く・手軽に」満足させられるか、どれだけ自分の利益を守り、他の人よりも得をするか、こんなことに尽きていると思います。
けれどもこの現代社会の薄っぺらな、「そのつど儚く消えていく満足」(まさに自分の欲望すら、めまぐるしく「消費」されていきます)には納得のできない人々がいて、自分のために人を、生命を、世界を傷つけることが嫌な人々がいて、そんな人たちが宗教を求めてゆくのではないかと思います。
例えばクリスチャンにとって、自分の人生は「自分の欲望を満足させる舞台ではなく、神から与えられた使命を果たし、神に尽くすための場所」でしょう。仏教徒であれば、仏法に身を捧げます。ジャイナ教徒なら、すべての共に生きる生命に捧げるのかもしれません。
様々な議論があるとは思いますが、この世の「常識的価値観」に納得がいかず、「何か違うものがこの世にはあるはずだ、本当の喜びがあるはずだ」と思う人が、宗教を求めることがあると思います。
世間一般的な世界に喜びを感じられず、生きるむなしさを感じる人にとっては、むしろこの「私が主役」の世界観こそ、おかしなもの、異常なものとして映るのではないでしょうか。なんの納得もできないままにその世界にい続けることは、かえってその人を損ない、おかしくしてしまうのではないかと思います。感情を切り離し続け、ここは私の居場所ではないと孤独にあり続けるのではないでしょうか。(修道院に入れられた(いわば出家)シスターの方に、「生きていて、いつもここは自分のいるべきところではないと感じていた」と、お聞きしたことがあります。)
本当は、「宗教の世界が求める喜び」と「世間的な喜び」との違いについて書きたかったのですが、今回はその前段階までになりました。お読みいただきありがとうございます。
みなさまが自分が納得のいく生き方ができますように。
[1]『なぜクリスチャンになるのーその意義は何か』ティモシィ・ラドクリフ著,伊達民和監修,2016,教文館,「序文」より
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