聖書黙想②左手にも世にも知られずに…(マタイ福音書6章1-24節,一回目)

聖書本文

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6:1汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。
6:2さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。
6:3汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。 6:4是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。
6:5なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。
6:6なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。 6:7また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。 6:8さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。
6:9この故に汝らは斯く祈れ。
「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。
6:10御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。
6:11我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。
6:12我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給へ。
6:13我らを嘗試に遇はせず、惡より救ひ出したまへ」6:14汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給はん。 6:15もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給はじ。
6:16なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。
6:17なんぢは斷食するとき、頭に油をぬり、顏をあらへ。 6:18これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。
6:19なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。
6:20なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。 6:21なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし。
6:22身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。 6:23されど汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや。
6:24人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。

1回目

6:1汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。」

主よ、見られんために義を行なう私をおゆるしください。
私はあなたの義を行なう数々の機会があったにも関わらず、自分の気分や、その先の報い、損得計算を経て、その声を退けてきました。
あなたの義ではなく、自分の義ばかり行ってきました。
自分独りの世界で、人びとを相手に演技をする、善を演じる偽善者です。あなたの裁きは正しいです。

6:3汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。 」

なすべき行いを感じ取った右手を、我利のみを考える左手が何度も制してきました。
主がおっしゃるとおり、右手だけですぐに行わねばならなかったのです。応無所住而生其心です。
左手に知らせ、「鋤に手をかけて振り向く」者は、あなたにふさわしくありません。
つまずかせようとする左手を感じたならば、すぐにその左手を斬り捨て、残った右手で行なうべきでした。

6:24人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。」

二人の主に、右手と左手との両者に仕えることはできないからです。
兄弟を愛するときには、自己愛を憎み、自分を軽んじなければならないのです。愛のための禁欲、節制です。いたずらな苦行、自己破壊ではなく、愛するための、自己軽視です。
一体どれだけ多くの右手の行いを、私の左手が邪魔して来たでしょうか。私の我欲が曇らせたでしょうか。
神と富のどちらに仕えるか。神を神とするのか、自分を神とするのか。これだけ、これだけのことに私は思い煩っているのです。兄弟のために思い煩っているのではなく、自分の二心のために!
主よ、恵みを豊かに注いで、私の左手を盲目にしてください。あなたは生かし、殺す神です。裁き、ゆるす神です。私の左手、我欲を殺し、私の右手を生かし、主の僕として用いてください。

主よ、私を力づけ、立ち上がらせてください。打ち沈み錯乱したエリヤにお与えになったように、あなたのもとまで歩くための糧をお恵みください。

「 6:18これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。」

主よ、あなたは陰徳をこそ、喜び給います。
左手に知らせず、人にも知られずに行なうべきだと、あなたははっきりお示しになりました。
主よ、なすべきことはわかっているのです。私が私のなすべきことを行なう力を、どうぞお与え下さい。

主、イエス・キリスト、我ら罪人をあわれみたまえ

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。