【禅】迷いの原因ー考え事に振り回されている我々 

考え事に振り回されて生きている私たち

「なんであのときはあんなことをやっちゃったのだろう。」
「どうしてあんな決断をしたのか、今思うとなんて愚かな・・・」
と悩む人の方が多いでしょう。なぜ、こんなことが起こるのでしょう。

突然ですが、仏教そして禅宗の修行法の1つに数息観というものがあります。

座禅(イスに座っていても立っていても良い)をしているとき、自分の呼吸を数える修行です。

吸って吐いての1セットでイー、チ、ニー、イ・・・と数えることが多いです。これを、雑念を交えずに全力でやるのが修行です。息を数えることになりきる、息数え三昧になるのです。

実際にやってみればわかる、ちっとも集中できません。私は二年半座禅の修行を続けていますが、10まで集中できれば万々歳です。いくら集中しようと思ってもできない。いつのまにか他のことを考え、雑念を追い廻し、連想を続けている。

これは、私達がそれだけ冷静に考えて行動していないことを示しています。飯を食っていても、本を読んでいても、何かを考え続けている。そしてその考えがどんどん膨らんで、急かされて、行動させられる。

つまり、私たちは知らず知らずの内に雑念に流されて、行動させられているのです。勝手に膨らんでいった雑念によって、行動させられているのです。シンプルに考えることこそが一番むずかしいのです。

人は物を考えているとすぐに不安に襲われます。不安の一念がぽっくり浮かぶと、連想に継ぐ連想の嵐が起きてどんどん膨張し、いても立っても居られなくなって行動する。これが私たちの生でしょう。
例えば恋をしているとき、人は思いもよらぬ行動に出ます。「あの人が頭を離れない」とよく言われます。ちっとも知りもしないのに、頭の中にはあの人の勝手なイメージが暴走しています。それに加えて、自分はどう思われているのかとか、あのときの自分のあの行為はあの人にとってどう解釈されたんだろう、だとか、どんどんどんどん雑念は膨らんでいき、複雑になり、冷静に考えてみれば訳もわからない不安も出てくることでしょう。

そんな複雑に絡み合った雑念まみれの頭の中から一つの行動を行ったとき、ときに大きな過ちを犯すのです。雑念に惑わされずにシンプルに「あの人が好きだから役に立ちたいな」と行動できていれば良い結果もあったかもしれないが、雑念まみれ、支配欲まみれ、打算まみれ、不安まみれのなかから生み出された行動ならば、結果は望ましくないものになるでしょう。

恋にとどまらず、将来、家族、人間関係、なんでもかんでも、雑念に追い回された複雑で不安定な状況からでなく、すっきりとシンプルな心から行動することで、私たちの人生の多くの問題はありえなかったのではないかと僕は思います。僕はそれだけいつも、雑念に振り回されて意味不明な行為をしています。だがこれが難しい。けれどもここにこそ問題がある。僕が座禅の修行を続ける大きな理由の一つです。

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。