32歳、妻子持ち。生きねば研究、再始動。

32歳、妻子持ちになりました。

生きねば研究室の読者のみなさん、
ご無沙汰しておりました。ばさばさです。
ここ数年、いかがお過ごしでしたか?

私は今年で32歳になり、娘もあっという間に2歳です。
生きねば研究を本格的に再開したいと思い、今文章を綴っています。
そして、生きねば研究の再始動は、やはりニーチェから、始まりそうです。
ニーチェについては別の記事を更新していきますので、
まずは、再始動の事情について短く記します。

禅者➡︎キリスト者(カトリック➡︎ルター)➡︎再び禅者へ

思えば2018年,24歳に生きねば研究室ブログを始めた当初は、ドストエフスキーとニーチェを語ることからスタートしました。
そして2020年に生きねば研究の末、カトリック教会で洗礼を受けてキリスト者となってからは、生きねば研究というよりは、キリスト教・信仰の探究を続けていました。
2024年に娘が生まれてからは、個人的にも家庭的にも厳しい状況が続き、2025年にはカトリック教会を離れ、別の小さな教会の群に連なり、そこの牧師さん、信仰の友ととても濃密な交わりを続けさせていただきました。
新たな教会では、毎週何時間も牧師さんが私の相手をして下さり、本気でキリスト信仰と向き合った1年でした。感謝しかありません。この大変な時期は、教会との濃い交わりがなければ、一人では乗り切れなかったと思います。

三位一体の神への信仰との別れ

しかし約1年間、本気で信仰と向き合い続けた結果として、私は三位一体の神への信仰から、離れることを選びました。

キリスト教信仰によって、私の「外側」から私を根拠づけ、支えてもらうという在り方は、私の道ではない、と結論するに至りました。
自分の頭と心で考えて、感じて、自分自身の「生きねば」の道を歩む独り以外にないのだと、覚悟が決まりました。

底が抜けたまま、走り続ける?

そんなわけで、私は再びニーチェに戻ってきました。神無き者として、再び底が抜けてしまった生を、どう生きるのか。
それは、底をもう一度作り直すのではなく、底が抜けたまま、勢いよく走り続けること。走り続けることで、底無しに生きていくということ、なのかもしれません。

さてらキリスト者としての最後の1年は、すべての物事をキリストを通して、聖書と、教会での交わりを通して解釈しら受け取っていく1年でした。

しかしこれからは、すべての物事を自分自身の心身によって受け取り、自分で自分の道を歩いて行きます。
そんなわけで、私は私で、私の生きねば研究を、再開したいと思います。
みなさんの「生きねば」は、どうなっていますか?

通話で話したい方などいたら、ぜひ気軽にお声がけください。最近はXも頻繁に更新してます。

同じ時代を生きるものとして、共に「生きねば」していきましょう。

最近読んだ本。哲学と戦後政治史と。

大した考察があるわけではないので、読まなくて良いのですが、自分用メモとしても読書メモを残しておきます。今はニーチェに収斂して、乱読が収まってきました。

○『シモーヌ・ヴェイユ思想入門』 (光文社新書 1409)今村 純子著

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今までヴェイユはつまみ読みばかりで、
「これがヴェイユだよね」と言う
自信はないまま読んできたが
この本のおかげで、
ヴェイユを非常に掴みやすくなった。

また、「まえがき」にて、
「わたしがとった方法は、しがみつくようにして西田幾多郎の書をシモーヌ・ヴェイユの著作と併読してゆくことでした。」とあって、驚いた。

私見だが、下記のヴェイユの言葉などは、
場所的自己として、世界を自己の内に映すと言う西田の思想と繋がるように思った。

『善の研究』的に言えば、

世界と一体であるその大元(純粋経験)へ立ち返ることによって、自我からではなく世界の側から、声が聞こえるし、善の要請が聞こえてくる。そして、その声に聞き従うことは、より大きな統一へと自己を拡大することであり、故に善なのである。

自力的な思考によってではなく、内在的超越的なところから声が聞こえてくるのを待つと言う枠組みが、ヴェイユに重なるのでないかと思う。

「純粋さとは、穢れをじっと見つめる力である。/極限の純粋さは、純粋なものも不純なものもじっと見つめることができることである。」田辺保・川口光治訳『カイエ2』みすず書房

○『日本人は何を考えてきたのか 昭和編 戦争の時代を生きる』NHK取材班著

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全然期待せずに図書館で借りたのだが、
さすがのNHK,取材が豪華である。
西田幾多郎の箇所は、藤田正勝、上田閑照、福岡伸一、小林敏明
大本教は、中島岳志、安丸良夫、島薗進など。

北一輝については初めて読んで、イメージが一気に変わった。
みんな、「戦争協力」に関わる人たちであるが、

限界的な状況の中で「日本のため、人々のため」に、
真剣に考えたと言う事実を忘れちゃいけないと感じた。

ただ断罪をすることなど、到底できない。
そして、思想や哲学や宗教は、決して政治と無関係ではいられないのだ。
政治を無視することは、現実を無視することなのだと、最近強く思う。

○『京都学派』 (講談社現代新書)菅原潤 (著)

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西田哲学を解説する本や伝記は
20冊以上読んできたと思うが、
弟子たちとの関係の冷静な分析や、
戦争協力問題について
触れてくれる本はかなり少ないと思う。

弟子による西田の賛美や、
西田との師弟関係を
憧憬的に語るものが多いと思う。

そんな中でこの本は、
京都学派の師弟関係や、
論争関係をクールに読み解いてくれる稀有な本である。

下記のように、西谷啓治を「政治音痴」と
言い切ってくれる本には
お目にかかったことがなく、
京都学派ワールドに
醒めた目線を持つためにも、
ありがたい。

小林敏明が『西田幾多郎の憂鬱』で指摘したように、
西田幾多郎におけるドイツ浪漫主義の影響の強さを思う。
そのロマン的な視点が、
良くも悪くも弟子たちにも
受け継がれていると思う。
そこが京都学派の大きな魅力であり、
「日本哲学」の核心であると言っても良いのかもしれない。

「この後「我が闘争』からの引用が何度か続けられる。わが国では欧米においてハイデガーのナチス協力を取り上げる本が刊行されるたびに話題になるが、わが国有数のこの哲学者の問題発言を取り上げる論者は皆無である。この事態は不公平と言う他ないが、いずれにせよ、西谷の政治音痴ぶりを示す証拠と見なすべきだろう」(第3章「京都学派の展開」)

最近思うのは、西田幾多郎の独創性は、
その思想のユニークさと言うよりは、
自らで用語を作り、
さらにそれを京都学派に引き継がせ、
日本語の大きな流れにも
流し込んだことなのかもしれない。

自らは海外留学できずに、
アメリカに渡った鈴木大拙から「純粋経験」等の概念を語る
新しい哲学の動きを輸入しつつ、
(この点については、安藤礼二『大拙』に詳しい。)

長年一人で考え続けたからこその
強烈な言葉によって世界観を表現したと言うことだ。
この場合の世界観とは、
言語表現それ自体と一体のだと思う。

○『「右翼」の戦後史』安田浩一著 (講談社現代新書)

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三島由紀夫への関心も高じて、左翼史に続けて戦後の右翼史も学びに入ってきた。

左翼には見えないものを、右翼は見ていたのではないか。
また、右翼の方がはるかに、大衆と共同で行動できていたように思う。

左翼は結局、意識高い系のインテリの臭みを抜け出せなかったのかもしれない。
また、日本の左翼はもっと、大衆に支持される宗教組織と共闘すべきだったのではないか。

いずれにしても、右翼について無知な私が、新書で学べるのはとてもありがたい。良い時代である。下記の文章、とても良かった。結局のところ、時代と戦う人たちがカッコいいし、彼らの活動や表現に「生きねば」の勇気をもらうのである。

「右翼を「民族の触角」と表現したのは民族派の重鎮として知られた野村秋介だった。  時代への感受性と、危機に直面した際の順応性を、野村は火事場の半鐘に喩えた。  尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば、そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた。 「弱いものが強いものに抗するための暴力が必要な時はある。だが、一般の人に体を張れと言うことはできない。そのために民族運動家がある」  それが野村の持論だった。実際、野村は大資本には容赦なく戦いを挑んだが、在日コリアンなどマイノリティに対する差別は許さなかった。  日本の右翼には右翼としての〝正史〟がある。欧米列強に立ち向かい、財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙した。まさに民族の触角として危機を感受し続けてきた。  さらに、右翼には右翼としての秩序もある。自由、平等の理想を掲げる左翼とは違い、国家への忠誠が優先される。日本の場合、そこに絶対不可侵の天皇という存在が加わる。急激な変化を望まず、国家と民族の威厳を保ち、歴史の風雪に耐えた伝統と慣習を守り、国内の安寧維持に尽力する。右翼は極めて濃度の高い「日本」であろうとした。」

「はじめに」より引用

○『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』村井則夫著 (中公新書)

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ニーチェ読みたい欲が高じて手に取る。

「ツァラトゥストラ」の表現や比喩、言語空間は如何なる西洋古典のパロディであり、解釈学であったのかを描いている。

「思想から逆算して『ツァラトゥストラ』を部分的に理解するのではなく、むしろニーチェ自身が望んだように、思想がかたちをとっていく経緯を一つの経験として取り出すことを心がけた。」

「あとがき」より引用

この視点は、『ツァラトゥストラ』を文学的・体感的に味わうためには、またとない読み方だと思う。

ニーチェの魅力は思想に留まらず、文学的に、感情的な方向にまで広がっている。

私はニーチェを読んで「哲学って面白い!」と思い、そこから遡って近代哲学を学び始めて、カントにいたった。そして、「哲学は俺の学びたいことじゃない」と、哲学を離れたクチなので、改めてニーチェに魅力を感じるのも、自然と言えば自然である。

ニーチェは、凝り固まった頭を砕いて自由にしてくれる。

それはニーチェ自身が、西洋形而上学の歴史を破壊し、砕こうとしたからであり、その破壊は思想によるものだけでなく、文学、文体、感性においても行われたのだ。

そのことを鮮やかに教えてくれて、かつ、西洋古典の世界の豊穣さをも垣間見させてくれる著作である。

『道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均  (河出文庫)

 永井均は、大学生の頃、本当によく読んだ。彼が面白いのは、「哲学者」だからだ。「哲学研究者」ではなく、自分の頭で、自分の問いを考え続けている。その自分の探究のために、過去の哲学書を参照しているのだ。普通の哲学の本だと、結局は文章の解釈である。
しかし、永井均の本には、常に本人の思索がある。だから、テクストの読解があったと思ったら、急に社会問題が絡めて語られたり、東洋思想の禅の話になったりする。「哲学研究者」たちへの批判も飛び出す。
その自由な語りが、何よりも魅力なのだと思う。
下記の文章などは、永井均の面目躍如たる文章ではないか!

ですから最後に、やはりルサンチマンの克服という問題に触れましょう。ルサンチマンを克服する唯一の方法は、「忘却」です。ニーチェもそのことに本当は気づいていて、ミラボーを例にとってこんなことを言っています。 「彼はどうしても人を赦してやるということができなかった。というのも、すべて忘れてしまったからだ。」(中略)
話を戻せば、ルサンチマンというものは、本当は決して「克服」はできないものではないかと、僕は思うのです。(中略)
たとえば禅僧なんかに、その好例が見られるような気がしてならないんですよ。道元なんかにはそういうところは全然ないですけど、良寛なんかになると、かなり怪しいんじゃないかなあ。「良寛のルサンチマン」というのは、面白いテーマだと思います。つまり、悟りとか解脱とか、そういう種類のものは、その発想の根底にルサンチマン的なものがありますから、当然ルサンチマンの溜まり場になる。しかし、いつもそうだとは言えない。だから、それを判別する眼がどうしても必要になります。何かを「克服」とか「超克」とかした人、したと思い込みたがっている人の焦りの跡が歴然としていますからね。「克服」という発想は常に危険です。たとえば「運命愛」なんていう思想もそうです。これはどこまでも怪しい。

これは愛というより肯定と言ったほうがいい。運命の肯定の思想なのですが、それでもしかし、ニーチェが「否定から行為してはならない。肯定から、創造意志から行為するんだ」というようなことを言うときには、キリスト教徒が「愛から行為するんだ」と言うときと同じ種類の力の屈折が感じられるんです。でもこれも、悟りや解脱と同じで、だから運命愛なんて駄目だ、とは言えない。ここでも見分ける眼が必要になってきます。ここで言えることはただ、もし人が運命愛を生きているならば、その人は元来ルサンチマンを克服している、というか、もともとルサンチマン的ではありえない、ということだけです。ただし、そのときその人は、自分が「運命愛」を生きているなんてことを、そもそも知らないはずです。いや、そもそも「運命愛」なんて概念を持っていないはずです。「悟り」なんかについても同じじゃないでしょうか。悟るということは、「悟り」という概念があることを忘れることを含むんじゃないでしょうか。」

(「ルサンチマンの哲学、そしてまたニーチェの読み方について」」)

『謎の空海 誰もがわかる空海入門』三田誠広

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空海についてはほとんど知識なしで読んだが、とても良い本だった。

著者は若い頃に『僕って何』で芥川賞を取った小説家でもあり、『空海』という歴史小説も書いている。更には『法華経入門』『わたしの十牛図』などの仏教解説から『釈迦とイエス 真理は一つ』など、キリスト教解説まで本を出している。

この本には、それら著者の多様な視点が凝縮されていて、歴史的事実・小説的想像力・思想的解説力が遺憾無く発揮されている。

桓武天皇の頃の仏教状況から、政治状況、さらには中国の仏教状況まで、歴史書かと思わせるほどの前提知識を優しく説明してくれる。

事実と推測を明確に分けた上で、小説的な想像力によって、イキイキとした空海の姿も描いてくれる。

「悟りとは何か」「大乗仏教と小乗仏教の違い」「2つの曼荼羅とは何か」など、仏教思想についても、非常にわかりやすく、著者独自の視点で明快に解説してくれる点も、空海入門にとてもありがたかった。

空海よりの立場の空海入門としては、非常に読みやすく、1冊目にぴったりであると思う。仏教学者の学術的な空海解釈とは違う、魅力的な空海を読める本はなかなか少ないのではないかと思う。

この本を読んで、著者の宗教歴史小説もぜひ読みたいと思えて、それも大きな収穫であった。これを読んで国立博物館の空海展に行って、実物に触れてみようと思う。

➡︎実際に空海展に行ってきました。一言で言えば、アートという感じ。写経の実物には感動しました。
でも私はやっぱり、飛鳥時代の宇宙人的な、あるいは縄文土器的な、仏像が好きです。法隆寺常設展?みたいのが、やはり一番良かった。

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ABOUTこの記事をかいた人

30代。妻・娘と3人暮らし。早稲田大学卒。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。