my読書[2]言葉の排他性と神の沈黙-

夏目漱石が用いた小説テクニックを学ぼうという、実用的な本(物書き限定ですが)を読んでいましたら、「言葉の排他性」についてのうまい説明がありました。それを読んで、「沈黙の受容性」と言えるような発想が湧いてきましたので、その素描を描いてみます。

言葉の排他性ー「その他の言葉の排除」,「無数の現実の代表」

「滞英中の夏目漱石は「西洋の原理」のそのものの野蛮さに直面しそれに苦しめられた」と主張する蓮實重彦の『反=日本語論』を踏まえ、渡部はその「西洋の論理」を以下のように説明します。

彼のいうその「原理」とは、「西洋」的な制度、文物、思考の合理性の根底を支配する排除=選別の力学である。
この力学は、『猫』を執筆中の漱石自身のノートには次のように書き留められている。
「二個の者がsamespaceoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみじゃ。」
[『本気で作家になりたければ漱石に学べ! 小説テクニック特別講座中上級編 増補決定版』第3章,渡部直己,河出書房,2015より引用]

渡部はこの線で、漱石が男女の三角関係を描き続けたことの意味の考察などをおこなっています。
その後「言葉の排他性」を簡潔に、うまく説明している部分がありました。

たとえば、ひとつづきの言葉のしかるべき位置に「犬」という単語が選ばれるとする。このとき、それはつまり、「犬」の一語が「占有」してしまった同じその「場所」から、その他の無数の単語が排除されたことを同時に意味している。
言葉がひとつづきの線として成立する基底には、その話線を構成するひとつひとつの「場所」をめぐって、こうした排除=選別の暴力的な作用が繰り返し反復され、その作用はつねに、記号としての言葉の差異(たとえば〈「犬」/「猫」〉)を前提とする。
「甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみ」というきわめて漱石的な命題は、ここで言葉についても真となる。
しかも、そのようにして選ばれた「犬」という記号は、現実の無数の犬(正確にいえば、この記号が個々人の脳裏に喚起する無数のイメージ)を「代表」するではないか。[前提書,同章]

この説明から、2つの意味での言葉の暴力性が見て取れます。
1,一つの言葉を選択する=その「同じ場所に入りうるその他の言葉全て」を排除している。
2,「犬」という一つの記号は、「現実の無数の犬」を下敷きにしつつ「代表」している。

(同書の主旨は漱石の小説テクニックを紹介するものであり、今回引用する部分はおまけみたいなところです。ご注意下さい。)

ニーチェの主張する同情の侵犯性ー永井均『これがニーチェだ』

この排他性に反応した理由は『これがニーチェだ』(永井均)の次の文章にぼくが最近感動したからでしょう。

「だが、苦悩する者と知られたときには、苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる。他人の苦悩から、その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ、同情という感情の本質に属することだ。ー「恩恵をほどこす者」は、敵以上に、その人の価値や意志を傷つける者なのだ」(『悦ばしき知識』338,[永井均訳])。
これがニーチェが同情を忌避する最も深い理由である。私は、この主張にもかつて深い真理を感じたし、いまも感じる。
敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者はちがう。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深く入り込んで来て、私を理解という名の暴力でずたずたにしてしまう。
同情されたとたん、私はそのことでころされるのだ。
だが、言葉を持つ以上、原理的にはそこから逃れるすべはないだろう。だから、ニーチェの最も根底には言葉を語る主体にされることへの屈辱感があるに違いない。[『これがニーチェだ』永井均,講談社現代新書,1998,第1章]

同情はほとんどすべての場合において、言葉を経由し、言葉の排他性とともに私にやってきます
例えば死にたくなるくらい悩んだことを誰かに話して、「あー、なるほど!わかるわかる!それって、~だよね!私もそうでした!」と言われることへの憤りはここにあります。
自分の苦悩は自分に「固有の独自なもの」であったのに、それが相手の理解・言葉によって、同情によって侵犯されてしまうのです。自分の苦悩を理解しようとなんかしない「敵」よりも、「理解」によって私の固有性を否定しに来る「同情者」の方が私を傷つけるのです。
さきの2つの排他性からこの同情による「侵犯」を分解してみます。
1,「自分が苦悩していること」という私にとって大切な場所を、相手の一つの「理解の言葉」が占有したため、他の無限に豊かな苦悩の言葉が侵害された。
2,「自分が苦悩していること」の、無限の言葉によってすら捉えることのできない実質が、相手の一つの「理解の言葉」によって「代表」された。言葉によって代表されることで、私にだけしかわからない(言葉にすることが不可能な)私の固有性が侵害された。

ここまでのところで、「言葉自体の排他性」と、「言葉による同情の排他性」についてなんとなく伝わったのではないかと思います。「言葉自体」がまず排他的でありますが、その言葉が「他者の苦悩」に行使されると、もはや「相手(の個人性)を侵害」することと等しくなります。永井均はこのニーチェの鋭い視点に感激したようです。

注意
・ぼくがあんまりまとめると、みなさんの解釈を狭める排他的な事態になりますので、このくらいの雑さでやめておきます。
・みなさん自身で考えるときのひとつのきっかけになれば、と思います。

神の沈黙による信頼

「言葉の排他性」「言葉による同情の排他性」について見てきましたが、では反対に「沈黙の受容性」「言葉によらない同情の優しさ」はどうなのか。ぼくはこれを考えてみたいと思っているのです。

一つは、神の「沈黙の受容性」です。
「こんなにも罪深く、愚かで醜い私に対し、神は何も言わずに赦してくださる」

出典が出せず申し訳ないですが、キリスト教的なこの認識を、僕は前から気に入っています。(よくありますよね?)
この認識に対する異論はいくらでもありますが、同時にいくらでも素敵な解釈ができます。
1,神は私を罰することも責めることもできるはずなのに、そうはされずに私を赦してくださっている。
2,
神は罰しも責めもせずに、愚かな私が改心するのをただ無言で待っていてくださる。
3,
神は何も申さずに、ただ私を信じ、私に任せてくださっている。
などなど。あまり解釈しすぎると、言葉にならぬ大切なものを排除してしまいますから辞めます。
いずれにしても、神は沈黙を「選んでいる」ことによって、「言葉の排他性」を避けることに成功しています。
私の固有性でもある苦悩を告白しても、神は何も言いません。
私が自身の罪を自覚しても神は無言でゆるします。「その気持ちわかる!」なんて言いません。
神はその沈黙によって、無限の余韻と無限の受容を示している、そう捉えることもできると思います。

反対に、「もし神が饒舌に人間に語りかけるものであったら」と考えると、沈黙の受容性、優しさ、信頼がわかる気がします。
・あれをしろ、これをしろ、これはだめだあれはだめだ、と神がいちいち口を出してくる。
・「お前、今いやらしいこと考えただろう!」と神が心を読んでしかってくる。
・「お前はこういう人間だから、それは無理だよ」など、予言してくる。
などなど。なんとも息苦しいし、信頼されていない感じがする。非常にうざったいです。
(なんでも指示を求める優等生的人間はこっちの方が良いのかもしれませんが。)

あくまで「一つの捉え方」であって、決して神の沈黙の意味を明らかにしようというわけではありませんので、ぜひみなさまもこれをきっかけに考えてみてください。

以上、今回のところはここまでにします。
本当は『罪と罰』におけるソーニャの「沈黙の受容性」「言葉によらぬ同情」について書こうと思ったのですが、それはまた次回!
ソーニャはラスコーリニコフに「沈黙」と「言葉によらぬ同情」によって対し、それがラスコーリニコフの回心につながったのではないかという趣旨です!

my読書[1]保坂和志からアウグスティヌス『告白』へ

2018年11月9日

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。