ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、現実を生きようと悪戦苦闘する者たちの尻を叩いてくれる。
ニーチェもツァラトゥストラに自分の尻を叩いてもらっていたのだろう。
今回は、ニーチェの「学者」(現実を傍観する人たち)批判を紹介する。
現実を傍観するな!他人の思想を語るな!
俺が大好きなのは、自由だ。新鮮な地上の空気なのだ。
学者の威厳や名声のうえに寝るより、むしろ雄牛のうえで寝るつもりだ。
俺は自分の思想に熱くなり、やけどする。しばしば息が止まりそうになる。
そこで、ほこりっぽい部屋から逃げて、外へ飛び出してしまう。
しかし学者は、冷たい影のなかに冷たくすわっている。
どんな場合でも傍観者であろうとし、太陽が石段に照りつける場所にはすわろうとはしない。
学者は、街角に立って、人が通りすぎるのをポカンと口をあけてながめている者に似ている。
じっと待って、他の人が考えた思想を、ポカンと口をあけてながめている」
(ニーチェ著『ツァラトゥストラ上』丘沢静也訳,光文社古典新訳文庫,第二部、「学者について」)
「新鮮な地上の空気」「自由」を愛するニーチェは、「学者」が大嫌いだ。
「学者」とは、「どんな場合でも傍観者であろうと」するものであり、
自分ではなく「他の人が考えた思想を、ポカンと口をあけてながめている」者だ。
いかにもニーチェらしい、バカにした表現で面白い。
この「学者」は学問を研究する人だけを指しているのではない。
自分が紛れもない「この現実」を生きているのに、現実をただぽかんと眺めているだけで、
飛び込もうとしない者たちのことである。
現実はおかしいとか、不満だとか、矛盾しているだとか、あーだこーだと言って、
現実を前にして生きようとしない者たちのことである。
他人の思想を云々して、決して自分で生きようとはしない者たちである。
(哲学や思想を学んで、ただ現実を批評して楽しんでいるだけの奴らがどれだけ大学には多いことか!
彼らは他人の思想をこねまわし、「権威」や「威厳」を振り回して偉そうにするだけの無能者だ!)
対してツァラトゥストラは、「自分の思想に熱くなり、やけどを」してしまうほどの人間だ。
そうして単なる思想の世界「ほこりっぽい部屋から」外へ飛び出す!
自分の思想でもって、現実を生きるのだ。自分の思想を現実に実践するのだ。
やけどするほどの自分の思想をひっさげて現実へ飛び出し、自由に生きる超人である。
現実の超人たちから目を背けるな!
学者は、自分たちの頭上に人の足音を絶対に聞きたくないのだ。
だから連中の階と俺の階のあいだに木や土やごみを置いた。
こうして学者は俺の足音を聞こえにくくした。それ以来、学者のなかの学者は俺のことをほとんど聞かなくなった。(前提書、同章)
「学者」は、「自分たちの頭上に人の足音を絶対に聞きたくない」。
現実をただ傍観しているだけのくせして、「権威」や「名声」を愛し、自分たちを越えるものを許さない。
それどころか耳を塞ぐ。
自分の思想で現実を自由に生きる「ツァラトゥストラ」の足音が上から聞こえてくるのが許せないから、
「木や土やごみ」を置いて、ツァラトゥストラの足音を聞こえなくしてしまう。
なんという愚かさ!自己愛!ちんけなプライドだろう!
権威のある他人の思想を掲げ、それで現実を生きるわけでもなくただ傍観し、自分が一番偉くなきゃ許せない学者たち。
たとえ愚かな思想であれ、現実を生きる農民(比喩)の方が100倍立派だ。
現実をただ批評し批評し楽しんでいるだけのインテリ大学生よりも、現実を生きる中卒キャバ嬢の方が100倍ツァラトゥストラに近い。
実際、このみじめな現実のなかで不満も言わずに自分の全力を尽くし、現実を生きている超人たちもいるのである。
彼らの努力と勇気から目を背けないでいたい。
子どもや花を仰ぎ見よう!
子どもたちにとって俺はまだ学者だ。
アザミや罌粟の花にとっても学者なのだ。
みんな無邪気だ。意地悪なときでも無邪気だ。(前提書、同章)
しかしこんなおおげさ詩人ツァラトゥストラ(笑)をも超えるのが、子どもと花である。
子どもたちは現実をいささかも傍観しない(あくまで理想としての子どもで、現実は…)。
目の前の現実を、全力で遊んでいる。もはや思想すら必要としてはいないだろう。
ただ自分の身体でもって、全力で現実にぶつかって、現実を笑い、遊びに変えてしまう。
「意地悪なときも無邪気」なのだ。(良い表現!)
(ツァラトゥストラは、人間の三段階をラクダ→獅子→子どもとして、子どもを最重要視している。)
アザミや、花もそうだ。
一切の傍観なしに、ただ現実の中で咲いている。
何も嘆かず、何も不満に思わず、ただ咲いている。
「花は何故なしに咲く(花は理由なしに咲く)」とのジレジウスの言葉もある。(無邪気だ!)
私たちも、自分が「学者」に近づいてはいないか、目を光らせていないといけない。
自分の思想ではなく、他人の思想で「権威」を借りてはいないか。(この記事もそうだ)
ほこりっぽい部屋でただ頭を使っているだけで、現実から目を背けてはいないか。
自分が恐れる人の意見に耳を塞いではいないか。
ツァラトゥストラに叱られないように!(この表現自体、他人のふんどしだが、ぼくはそれで精一杯だ)
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