夜、仕事終わりに河原を走っていて、何かを踏みそうになる。
ちいさな子猫だった。
ぼくの足の一歩先でも全く動こうとしない。生後3週間くらいか、目は見えている。
しばらくして、思い出したようにのそのそ歩いて、クゥクゥ鳴きながらぼくから離れた。
それはもそもそ動くクロワッサンのようで、のそのそ歩くいのちそのものだった。
ぼくらには見えない、空に浮いてるいのちの血袋からぽたりと落ちて、この世にやってきたばかりのいのち。そうだ、まだこの世に慣れていない。この世で生きていけるのかもわからない、この世での旅の始まりで、生ぐさい血のにおい。
ぼくの中の母性が、嘆息するのがきこえた。ぼくもひとつの命として生きている。いのちのつらなりに引き戻されるようにかんじた。あぁ、ぼくもいのちの連なりを生きているのだ。仕事とか、人間関係とか、どうでも良いのだ、と、暗闇。
そいつは河原に上る濡れた階段のまんなかにうずくまった。そんなところじゃ、今度こそ、踏まれちゃうよ。
それでも6歩くらいは歩けたから、母猫が見つけてくれることを祈って、ぼくも家路に戻った。たぶん、生きていくことは難しいだろう。ここらじゃ半年に一回は車に轢かれた猫を見る。子猫じゃカラスにだってやられるし、縄張りの猫にも殺される。
家じゃどうしても猫を飼えない。かわいそうだけれど、野良猫は、それも子猫はほとんど死んでしまうのが、この世のかなしい事実だった。
家に帰って、風呂に入っている妻に子猫のことを話した。「母猫のお乳がないと死んじゃうね」。そうか、母がなければ死ぬのか。
湯船に浸かって、子猫のことを考えていると、妻が浴室の扉を開けて「ちょっと見に行こうか。ウェルシアに子猫用のミルクが売ってるよ」と言った、「うん、煮干しももってこう」「煮干しなんてまだ食べれないよ」「でも」
風呂から出て、皿と煮干しの準備を妻がしている間、ぼくはウェルシアで子猫用ミルクとグチャグチャを買った。現地集合。
子猫はグチャグチャを食べてくれた。人間の匂いがつかないようにビニール手袋で掴んで橋の下においてやった。夜は冷えるので段ボールのシェルターも。明日の日中は気温が上がるらしい。かわいそうに。
名残惜しそうな妻に声をかけて家に帰った。時計を見ればもう11時になっていた。眠い、つかれた、がんばった。
ご飯をむしゃむしゃ食べて、生き残る確率が1%くらいは上がったはずだ。ピーピー鳴いて母親を呼んでいた。
とにかく、とにかく、やれる範囲のことはできた。あとは子猫の生命力と、母猫が息子を見つけられるか、世話できるかどうかである。
「これで少しは安心して寝れる」寝床で妻がつぶやくと、数秒後には寝息を立てていた。さすがだ。
ぼくは仕事の悩みで、うまく眠れなかった。「もう、ちょっと、厳しいです」と言ったパートさん。難しい状況で、耐えられないスタッフも増えてきている。ぼくの対応も不十分だった、ミーティングでなんて報告しようか、
そんな仕事の思い煩いの渦の中で、何度かピーピー鳴くあの声が聞こえた気がした。幻聴だ。大丈夫かな、子猫ちゃん。がんばってね。
生きていくのは、大変だ。
でも子猫ちゃんは、ぜったい、最後まで生きようとするから、ぼくはとっても勇気をもらった。
とにかく、やれるだけのことを精一杯にやる、どうにもならないことはどうにもならない。それが生きることなのだと最近はよく思う。その点で、子猫ちゃんはずっとずっと、いのちの先輩である。精一杯に生きていないぼくよりずっと。
だからあの子が死んじゃったら、ぼくはぜったいお墓を作ろう。この世の必死で生きたいのちに敬意を示して。100点満点に散っていったいのちに。
次の日、日曜日の朝もご飯をあげに行った。
お昼過ぎ、子ども食堂の手伝いの帰りにまた河原を覗いた。予想外に、ボランティア仲間から近くに保護猫の活動をしている人がいるらしいという情報も聞いていた。
でもその方に預けるなら動物病院に行って一通りのことはやってあげないといけないし(お金もかかる)、そもそも人間の都合で棄てられた猫ではなく、野良猫のはぐれ子猫なのだ。母親と離れてしまったらまず助からない運命にある。そこを、どこまで人間が干渉すべきか、考えあぐねた。自然の中でたくさんの猫たちが死んでゆく。施設でも数万匹が殺処分される。
野良猫については、いつか関わった中学生の女の子のことをいつも思い出す。
公園で猫の餌やりをしているおばさんに、「そんなことするから、野良猫が増えちゃって、結局猫たちが不幸になるんです」ということを伝えたら逆ギレされたらしい。おばさんはきっと、本当にキレたのだろう。中学生女子の観察眼には恐ろしいものがある。大人の「偽善」をスパッと見抜く。でもそれを言えない社会だから、ねじれてゆかざるを得ない。中途半端な同情は、かえって残酷な結果をもたらすこともある。これはなかなか背筋が寒くなる事実だ。考えないことは罪でもある。考えることが罪である一方で。むずかしい。
いずれにしても、様子を見てみないと。
子猫はまだそこにいて、少し弱っているようだった。かなりの暑さで、グチャグチャも乾いてカピカピになっていた。うーん、悩んだ。
もうぼくのことを覚えているのか、子猫ちゃんはしゃがんでいるぼくの下に入ろうとピーピーないた。
そっか、お前に必要なのはご飯じゃなくて、お母さんの愛情なんだな。今まで守ってくれていたお母ちゃんなんだな。
そう思い至ると、このまま1人で置き去りにされたまま、母の愛あるケアを求め続けて鳴きながら、孤独に死んでゆくのはあまりにもかわいそうに思った。とりあえず夕方まではうちで引き取って様子をみようと思い、バイクを一度置いてから歩いて拾いに行った。
もし無事に元気になったなら、自然に返してやろう。それでも餌を取れずに大人になる前に死んでしまう確率の方が高いだろうが、あのまま孤独に死を待つよりは良いはずだ。せめて残りわずかの命のあいだ、自分のケアをしてくれる手を感じられる時間を過ごした方がよいはずだ。それくらいなら、ぼくにもできる。
家の土間に来て最初は怖がっていたが、慣れるとまたぼくの股ぐらにすりよってピーピー鳴く。お腹を見るとノミがぱらぱらと逃げ回る。カフェにいって仕事をしなくちゃだから、早く寝てくれと思いながら撫でていると、うとうとして眠りについた。今のうちだ、と離れるとまたピーピーなく、それが2度ほどあって、今度は深い眠りについたようなので、ぼくはカフェに行った。ミルクを飲んでくれなかったので、ミル太と名付けた。〈続く〉
わたしも今までに何匹もの猫とかかわりました。良い関係もあれば、「すまない」関係もありました。ただ「猫小屋」を作ったのは、忘れられない経験です。そのときそのときで、できることをするしかないのです。わたしの子供たちには「良い体験」であったことは、まちがいないようです。
ばさばささん、こんにちは。お久しぶりです、kazumaです。
生きねばブログでコメントするのは初めてですね。時々、更新されるページを読んだりしています。
今回は路上で出会った子猫についての記事を読みました。
エッセイ風に語っておられますが、ところどころ面白い表現があったりして、これを題材に短編をひとつ書けるんじゃないかなと思ったりしました。
道端で偶然出会った子猫を助けるかどうかってけっこういいテーマのような気がします。べつに僕らは猫を助けなくても生きていけるし、その場に居合わせなければ猫を思いやることもなかったでしょう。
これがもし子猫じゃなくて人間だったらどうだろうと考えたりもします。
子猫だったら餌をやって一時的に命を繋ぎ止めることはできるけれど、偶然道端ですれ違ったひとがものすごく思い詰めたりしていたとしたら、そんなことには気が付かずに素通りしてしまうような気がするんです。
無力な猫と、なすすべのない状況に置かれた無力な人間が目の前にいるとしたら、ほとんどのひとが助けるのは猫の方じゃないかという気がします。僕ら人間に弱い猫は助けられても(それだけでもすごいことですが)、同じひとは簡単には助けられないというのが、なんとなく人間の哀しい性なのかなと。
ばさばささんの記事はそんなことを考えるきっかけになりました。これからも読みにきますね。
あとコメント欄でのご連絡で恐縮なのですが、僕のブログ(kazumawords.com)の方でリンクページを作ろうと考えております。よろしければ、ばさばささんの「ばさばさ生きねば研究室」のリンクをブログ内に張らせていただいてもよろしいでしょうか。簡単な紹介文と一緒にリンクページに掲載したいと考えています。
kazuma