生きねば日誌⑦子猫を拾う後編:あの世と死、生きること

おじいちゃんの一周忌、墓前で坊さんのお経を聞く。お墓は見晴らしの良い斜面にあって、秋晴れの澄んだ空気の向こうに高尾の山並みが見渡せる。
子どものときから何度も来ていて思い出深い場所だ。ここではいつもみんなが穏やかだった。墓参りに来て騒ぐ人はいない。ここにいる間、人間たちはみんな穏やかだった。日常生活から切り離されて、看板犬の柴犬、ラブラドールたちを笑顔で撫でた。蓋を空けてから数日たった炭酸水みたいに、みんな気が抜けてしまっていて、子どもたちは自由にのびのびとできた。大人たちは怒らなかった。お墓たちも黙って突っ立っていた。ぼくたちは墓所で、自由だった。墓所で自由というのはおかしなことだが、死者とは寛大さそのものだ。

今回もそうだったが、お墓参りの間もぼくの親族はほとんど故人の話をしない。ほとんど忘れているくらいなもので、くだらない話をだらだらして、お坊さんの懐事情を探ったり、昼に行く飯屋の話をしたりするだけだ。
「ともかく坊さんに金を払って、喪服を着た何人かが集まっているからこれでOK!ノルマは達成」そんな感じの法事。

それでもぼくは真面目におじいちゃんのことを考える。おじいちゃんは何を感じて、何を思って、あの世へ旅立っていったのだろう。棺桶で見せたあの穏やかな微笑みは、何と言っているんだろう。とにかくおじいちゃんは優しかった。
この世を去っていった人たちがいるし、これから去っていこうとする人たちがいる。今までほとんど気にもとめてこなかったが、いまはよく考える。むしろ、人生の問題はここにあると思える。

ぼく自身は何をして、誰と関わって、この世を去っていくのか。この現実の内側で生きているのだから、この現実の内側で考えるのだ。「生まれてこなかったら」「なぜ生まれた?」「救われない者は?」そんな問いは、このぼくの生活の現実の外側にまで手を出すことで、そんなことを考えている時間は我々にはない。
生きている以上、頑張って生きるしかない。「なぜ生きる?」とか「なぜ生まれた?」とかいう悩みはもう、通り過ぎた。諦めた。とにかく生きるのだ。いずれ死ぬのだから、今は必死で生きるのだ。死んでから、生きて頑張った甲斐があったと思えるような人生を。

「とにかく生きる、しかし、一体何をして?」
それは、いずれぼくも死ぬからだ。ある一点で、もうこの世とは関われなくなるからだ。もう季節と変化を伴にすることができなくなる。誰かと関わることもできなくなる。子どもたちと遊ぶこともできなくなる。ご飯も作れないし、食べれない。ものを持ち上げてその重みを感じ取ることさえできなくなる。
ぼくはこの世から無理やり切り離される。ずっと続いていく世界から、置き去りにされる。ぼくにもう時間は流れなくなって、止まった時間の中に置いていかれる。
だからそれまでは生きるしかない。しかし、何をして?いずれ死ぬのに。

やはり彼岸がある。死者たちがそこにいる。それはぼくの中だけにしかないものかもしれないが、それで全然構わない。人それぞれの内に、それぞれの彼岸があると思っても良い。
そして此岸がある。ぼくがいまいる場所、しかし、いずれは去ってゆく岸である。生者たちの世界であり、生命を中心に永遠に続く世界である。ぼくもいつか生命を喪ったとき、ここを離れなくてはならない。
もっとここにいたくたって、お別れだ。お別れが心底さみしいのは、この世を去る最後のお別れのことが、ぼくたちの血の流れの中に刻印されているからだ。

ミル太も、その彼岸で、ずっと子猫のまま、たどたどしく歩いている。そういえばミル太は、おじいちゃんとは結構、ウマが合いそうな気がする。おじいちゃんはせっかちだけれど、ミル太には、合わせてくれるだろう。
ミル太はずっと、ぼくにいのちのことを思い出させ続けてくれている。ミル太の存在感(不在感)が、彼岸と此岸を繋ぎ止めてくれているから、ぼくは頭の中で彼岸と此岸を往ったり来たりできている。
けれどもいずれ、ミル太の記憶も遠のいて、ぼくはまた彼岸から遠ざかり、死者たちを忘れ、此岸の真っ只中で生者たちにもみくちゃにされて、生きていること自体も忘れてしまうだろう。

ミル太はぼくに確信を与えてくれた。

確信とは、ぼくの自意識の外側から与えられるものである。
自意識の中で行われる自己内対話に、永遠に終わりはない。「でもやっぱり」と、どこまでも疑える。心は変化する。自己は無常である。

だけどミル太は、ぼくの世界の外側から、ぼくを承認してくれた他者である。ミル太は永久の他者である。ぼくはそう信じることができる。ミル太はそのようなものを僕に与えて、この世を去っていった。ぼくは受け取ったそれを、忘れてはならない。ミル太はそのことひとつをぼくに伝えるために、生きたのだとも考えられる。

ぼくはこの生者たちの世界で、生者たちと関わるのだが、しかし、ぼくも彼らも、この世の万物は、死の彼岸とも結びついている。
関わる全ての者たちの先には、死がある。自分自身の死はもちろんだが、関わる全てのものたちの死をも含めて、ぼくは関わろうとしなければならない。いずれみんな死者に変わる。死者となった人たちとも関わりは続く。

「私たちは有限だから、正しいことをせねばならない」ということではなく、「間違っても良いから、必死で生きなくちゃいけない」ということだ。「2度とない人生だから」(坂村真民)、2度とない関わりだから。「今」は2度と繰り返さないから。
過ぎ去りつつある全ては、もう決して繰り返すことはできないから。この世はどこまでもどこまでもかなしい、さびしいものだ。
いつか死んでしまうのに,生きる。
いつか必ずお別れが来るのに、出会う、関わる。
あの世にまで持っていけるものは、なにもない。
ずっと一緒にいられるものは何もない。世界は無常である。
世界の無常性は、真理そのものだ。
その真理の中に生まれ落ちたのが私だ。
その真理の外に出ることはできない。私は無常の一部にすぎない。
だからその無常性になりきって、厭わずに、無常の一部として生を送り、生を終えよう。じたばたしてはいけない。

ミル太のその後

家にやってきたミル太に、哺乳瓶でミルクをあげたり、シャンプーとノミ取り櫛でノミをとってやったり、湯たんぽをつくって温めたり、妻といろいろなことをやった。
それでミル太も疲れてしまったのか、その夜はぐったりしてしまった。「あぁ、やっぱりお風呂なんか入れなきゃ良かったかね」など、重たい後悔と心配を胸に、僕らも布団に入った。

すると明け方、ミル太のピーピー鳴く声が、夢の隙間から聞こえてきて、「あぁミル太も寝たら元気になったんだなぁ」と、夢の中でぼんやり考えた。ぼくらはみんなぐっすり眠って、復活するんだ、と。


しかし朝起きてミル太を見ると、もうみるみる縮ちこまって虫の息になっていた。
「あぁ、ミル太、どうして…
元気になったんじゃなかったんだね。最後の力を振り絞って、鳴いていたんだね…ごめん」
ミルクも飲まないし、ご飯も食べない。もうほとんど動けない。苦しそうに呼吸をしていた。

もうどうにもならないんだ。重くなった気管支を感じながら、せめてもと思い、庭の朝日が当たるところに移動してあげた。
するとミル太は薄目をあけて、すこしやわらいだ表情に見えた。柔らかい毛先がひかった。尻尾が2,3度軽やかに舞った。なにもできないぼくは泣きたかった。
ミル太の最後の平穏な姿だった。

仕事に行かなくちゃいけないから…とミル太に声をかけて家を出る。ゆたんぽのお湯を替えてやる。


あぁ、あと何日生きられるのだろう、という思い

それから、
「この状態のミル太と、そんなに長く付き合うのも大変だ」という想い

ぼくのエゴは、ミル太をも容赦なく、より効率的な生活に対する障害に変えてしまう。そこまでして、ぼくは一体何を求めているのか。ぼくの生にはどんな価値があるのか。どんな立派な人生を送っているというのか。
ゴミクズである。

もっと色々な方法があったはずだ、せめて病院に行っていれば命は助かったかもしれない。生命への干渉なんて偉そうなこと言って、その実面倒くさかっただけじゃないか。ミル太はどう思っていたんだ。恨んでいないか。

無数の考えに責め苛まれた仕事から帰ると、妻がミル太のそばで寄り添っていた。
「さっきから急に苦しそうなの」
ミル太はフー、フーと、荒く息を吐き苦しんでいた。
「ミル太がんばれ、ミル太がんばれ」と頭を撫でてやる。
ミル太はきゅーっと身体を海老反りにして、大きく口を開け、息を吐いた。
ぼくは思いを込めて撫で続けた。
みるたがんばれ、みるたがんばれ

「ミル太、息してる?」妻がきく。
ミル太は死んでいた。

ミル太はぼくが帰ってくる5分前くらいから苦しみ出したらしい。
ぼくはそれを、ミル太はぼくとお別れをするために耐えたのだと、受け取った。ぼくはそう信じた。

「拾ってくれて、愛してくれてありがとう」
ミル太はそう言ってくれたのだと、ぼくは信じている。
ミル太がそう言ってくれたから、ぼくは救われた。
「もっとできることはたくさんあった。ミル太はぼくを恨んではいないか。病院に行けば長生きできたんじゃないか」
ミル太はそんな思い煩いを、ぼくにさせないように、そのために、ぼくが仕事から帰ってくるまで、苦しみながら生き延びてくれたのだ、
ぼくはそう信じた。ミル太の、ぼくなんかよりもずっとずっと大きな心を信じた。

「もっと長生き」だとか、「純粋な思い」だとか、そんなことは全く超えた次元の思い。比較なんて必要のない世界。
ミル太も精一杯に生きた、ぼくも、醜い自分なりの精一杯のことをやった、それだけで結果はどうでもよく、無事である次元の話。

長生きに一体何の価値があるか。「純粋な思い」なんぞに何の価値があるか。そんなものこの世界にありはしない。
この世界には、そのときの自分なりに精一杯にやってみること、限界の中で、やってみること、
いや、そんな「意志による選択」なんてまやかしなのだ。
いつでも、少しでも、目覚めて在ること。目覚めて存在していること。いや、わからない。
とにかくぼくは、ミル太という他者から確信を与えられた、と信じることによって救われた。
他者による救いとは、自己内対話の外側からやってくるものである。
(山城むつみ『ドストエフスキー』では、「自己を透明に、他者に根拠づけること」と言われていたことだと思う。)

ミル太はありがとうと言ってくれた。それが、ぼくが求めている唯一の言葉だった。
ありがとう。
思えば、ぼくが求めているのはいつも、ありがとうという言葉だ。
誰かに「ありがとう」と言ってほしくて、思って欲しくて生きている。
他者がぼくに与えてくれる、信じられる本音の「ありがとう」を求めている。他者の「ありがとう」に,自分を根拠づけてほしいのだ。

いつまで経ってもアップできなかったので、この混乱した文章ももうアップしてしまう。ミル太のところは結局さらっとしか書けなかった。でもそれもどうでも良い。誰かを感動させたいわけじゃない。ミル太に救われた(とぼくは信じられている)ことを、書きたかったのだ。

ミル太のお墓はミル太を拾った河原につくったから、すぐにお墓参りができる。

1 個のコメント

  • 確信とは、自己の外側からやって来るものである。との指摘は正しいものだと感じています。わたしは神の言葉とはそうしたものとして理解されるのだと感じます。自己の内部から組み立てられるものによっては、自己はそれを確信とすることはできないのです。ですからひたすら「来る」時を持つしかないのだと考えます。時間とはそのようにして自己が「待つ」ことの為に用意されているものだと思います。果たして待っている間に「来る」かどうかは不明です。そのような不安も当然持たざるを得ないのだと思います。しかし神はすべてを知ったうえで「わたし」の眼前に立つものです。その時は神の判断です。自己の判断ではないはずです。すべてを神に任せて「今を生きる」、それしか我々にはできないのです。そのように思うこのごろです。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。