どうにかこうにか仕事を終えて、休日、また仕事。それから休日。仕事と家庭と、たまに友人関係を行ったり来たり。旅行に行って遠くの土地の空気を吸い、おいしいパン屋を探して、景色の良いベンチにすわってむしゃむしゃ食べる。
人生、生活と仕事、ぼくはこの一連の流れの中に住んでいる。この世界はもう、ぼくの住処になっていると感じる。
ぼくにもう外側はない。ぼくはもう外側を必要としていない。ここから出ようとは思わない。この壁の、この限界の内側で、何をやるか、誰とどう関わるかを考えようとしている。考えるべき時期になった。
未知のこと、まだ見ぬ可能性に期待して、この世界の暗がりや穴ぼこを覗いたりしようとは思えなくなった。そうした世界を見つけていくのは、ぼくのやるべきことじゃない。ぼくはここで生きていくことを選んだのだから。
ぼくはもう夢想を必要としない。味わうべきものはこの現実の内に与えられている。家の外に広がっている。
この労苦と悲しみに満ちた世界で、自分と世界とを切り離すことなく、生きるかなしみから目を背けることなく、しずかにしかし前向きに生き続けること。生き延びること。
納得も安心もなかったとしても、それでもこの世界を、自分の居場所だと感じて生き抜こうと思うことは可能だ。外側なしにでも、なんとか生きていこうとも思える。何も期待できるものを持たなくても。
生まれることを選んだ訳では決してない。しかし、生きる以上は、生きることを選んだものとして生きねばならないと思う。前向きに生きねばならないと思う。生まれたくて生まれた訳ではないのだれど、それでも生きることを前向きに引き受けたつもりで生きることは、生きていることの一番の達成なのではないか。生自体に対する、最善の応答なのではないか。生きていることを味わうこと自体が、生きることの目標なのではないか。ただ生きながらえるということではなく、人生を味わうこと、不幸さえも味わうことが、「生まれさせられた」ことに対する勝利の叫びではないか。
生とは、生きている限りのものだ。私は生きる限り生きるのであり、私は死なない。死ぬ時、その死を経験する私は既にいないという意味で。そうだとしたら、まず、生き延びること。次に、全てを味わうこと。それ以外にない。
生きている限り生は続く。生きているいま、目の前のことを味わう。それ以外、一体何があるだろう。
不安も焦燥も、希望も期待も、全ては妄想にすぎない。私はただ、生きているかぎり生きているだけで、それを精一杯に味わうだけだ。余計なことをいろいろ考えても、結局はそれだけ。そして生きることを選んだのだから、ぼくは、きちんと味わうことだけなのだ。それでもう、僕の生の探究は終わっている。
二十歳すぎから、日々考えることといったら「神と自分」と言うこと、「性と自分」と言うことであったようです。そうした日々の繰り返し、まさに繰り返しの中で見つけたものもあるし、まだまだ見えないものもあります。『神秘』である。わたしとは神秘である。世界とは神秘である。そのような思いがいままさに溢れています。神を見出すことは、すくなくとも「わたしにとっては」大問題です。今もそれは間違いなく「絶対の問題」としてあります。それはたぶん『死の時』までつづくのだと考えます。他の人がどのように考えようとも、わたしはその問題に対峙していきたいと思います。今は井筒俊彦の『神秘哲学』を読んでいます。ギリシャ以前からの「宗教的神秘思想」の始まりを語っています。どこまで「彼等」に近づき、理解できるのか、その時にはこれまでの日々の思考が役に立つのだと考えます。