仕事が大変につらい。先行きの見えない、緊張を強いられる時間の連続に、思わぬトラブル、仕事の波が覆いかぶさって、自暴自棄になりたくなるがそんな暇さえない。しかし、ひと段落した。よく耐えた。何事も乗り越えさえすれば、一応は片付く。それに、代表の100倍楽な立場にいるのだ。代表はもっと頑張っている、自分でも気づかないくらい、身を削っている。
Kindleに『カラマーゾフの兄弟』を入れてから、毎日走りながら読んでいる。田舎なので、道路のど真ん中を走っていれば、犬の糞を踏むくらいのもので、頭と身体を動かせる。『カラマーゾフ』は本当にすごい。通読は4度目くらいだが、どの部分も、じっくりじっくり考えるべきテーマが詰まっている。
真実とプライドの相剋。イワンとカテリーナの別れのシーンで、アリョーシャは2人の心を、2人の前で明らかにしてしまう。「イワンはカテリーナが好きで、カテリーナは本当はドミートリーなんか愛していない。イワンとカテリーナが結ばれるべきなんだ!」そう真実を口にする。イワンは去り、カテリーナは熱病に倒れる。
アリョーシャは貧家の父スネギリョフに200ルーブリを渡しても踏み捨てられる。真実は踏みにじられる。「馬鹿にするんじゃねぇ!おれはおれなりにプライドを持って生きてんだ!」真実よりもプライドが、自分が大切だからだ。ムイシュキンもあの2人を救えない。あの2人は救われるより、プライドを保持したまま滅びる方を選んだ。
真実が勝利したのは、ラスコーリニコフの場合だ。ソーニャの真実が、恐ろしい瞳となってラスコーリニコフを真実の道に追いやり、彼のプライド、自我を殺してしまう。ラスコーリニコフのプライドはソーニャに抹殺されて、彼はソーニャの世界に組み入れられる。神の国、アブラハムたちがいる世界に新生する。
真実とプライドの相剋。ナスターシャのように、グルーシェニカのように、人は幸福を退けて、不幸と苦悩を求めることがある。苦悩や不幸とあまりにも親しくなり過ぎた人間は、そこに家を建ててしまう。洪水になってそこを離れるよりも、一緒に流されることを選ぶほどに、愛おしい住居。
イワンもあわれみを誘う。馬鹿な女だとは思いつつも、カテリーナが好きで、でもカテリーナは「ドミートリーを愛する」という自己犠牲に陶酔して、こちらを見てくれない。こんな女に付き合うのは愚かだと悪魔はささやくが、やはり好きで、耐えられなくて街を出ようとする。あるいは、ドミートリーに父を殺させるタイミングを与えてやれ、という悪魔の誘いに乗ってしまう。そうやって、カテリーナを奪っちまえよ、と悪魔は囁く。「父を殺したのは私だ」という恐ろしい真実。アリョーシャによって先取りされた言葉が、彼を殺しに来る。
合理性と恋心との間で引き裂かれ、そんな自分をニヒルに笑うしかないイワン、なんと青臭いインテリだろう!こんなことには気づかなかった。やっぱり彼もカラマーゾフなのだ。熱い熱情を秘めている。押し殺そうったって、押し殺せない、燃える情熱がある。だから狂ってしまう。
真実とプライドの相剋。原罪としての神への反抗。
神=真理よりも、自己を愛し優先させるから、そこには罰があり、不幸がある。傲慢がすべての根源にあり、傲慢が罰せられる。神の前に、一個の被造物たる自分を自覚せねばならない。
人間たちの悲喜劇は、真実を知っていても、それに従えないところにある。エデンの園を追い出された我々は、結局自分自身のプライドを持ちきれずに傷つけあい、苦しみ合って生きている。娑婆はそういう場所なのだ。真実があまり役に立たず、真実が踏みにじられる場所。だから娑婆に安息地はない。真実を愛するものは、天の住居を想ってこの人間どもの地獄を旅する以外にないのだ。1人で、ひとりで息をして、生き抜いていくしかないのだ。
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