自分(たち)だけを慰める宗教へ。キリスト者の理想。カール・ラーナー
宗教は(もっと言えばあらゆる文化は)人をより切実に、より真剣に現実の真っ只中へと向かわせるものであって欲しいと、ぼくは思います。宗教は現実逃避の手段であってはならないし,一時の気休めであってはいけないと思います。 しかし…
「自分の信仰生活においてだけではなく、
人と接する時に
十字架と愛を適用できているのかを反省する必要がある」との話を深く感じました。
自分1人の世界で、宗教者らしく振る舞っているのに、
他者との関わりでは、人を愛そうなどとしていないことがあると、思い当たりました。…
○罪の無限性
私は自分の罪を決して知り尽くすことはできない。「自分はまだマシだ」と思うことの愚かさ。
しかしその無限の罪を、イエスさまが「成し遂げられた」。だからその無限の罪を問われない。
そこに無限の感謝がある。
私は生きる限り、自分の罪に出会う。…
眠れない夜が続くが、
どんな状況でも、
イエスさまとともにいることで、
焦らずに安心して、目の前の出来事をエンジョイしたい。
眠りたい時に眠り、
働くべき時に働く、
柔軟で、自由でありたい。
ただその都度に、
私を通してイエスさまに働いていただくのである。…
不眠と痒みとイライラの中にあっても、
それはただのマイナスな、無駄な、
神に与えられた罰の時間なのではなく、
変わらずに主と共にいる時間なのだと思えることは、
大きな慰めであり、
イライラの底でも流れ続ける、心の平穏であります。
かゆみによって
自分の注意力が飛び散り…
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