このブログにしても、「生きねば活動」にしても、ぼくは「何か本当に価値あることのために生きたい」と、頭の片隅で考えてはいる。
しかし、頭の隅でそうは考えても、その実践となると困難である。
「人のためを思って」何か行動したつもりでいても、後で冷静に振り返ってみれば、「自分のエゴのため」であったと、恥じることばかり。
どこまでもどこまでも、私利私欲へと引きずられていく自分にほとほと呆れるが、呆れたからとて、どうにもならぬ。まさに原罪である。
頭の片隅で「真理のために生きたい」と思ったからとて、なんてことはない。そんなのはただの雑念のひと欠片に過ぎない。
それを行なうには、断固とした覚悟と姿勢とが不可欠であろう。自分の私利私欲の念を絶ち続ける鋭い刀を常に持ち歩きつつ、生きねばならぬ。
ヒルティ『幸福論』にある「どうしたら策略なしに常に悪とたたかいながら世を渡ることができるか」という章から、今回は真理のために生きる姿勢を学びたい。
この私たちがたたかうべき「悪」とは、外の世界で人を痛めつける者であると同時に、
自分の内側にあって「真理」への歩みを挫折させ続ける「悪」でもあることに、我々は気づかなくてならないと思う。
「世の幸福」を微塵たりとも求めるな
(一)まず第一に、彼(すなわち、この生き方を試みようと思う者)は、
世のいわゆる「幸福をつくる」ことを、微塵も心にかけてはならない。
きびしく、力強く、公明正大の道を踏んで、恐れることなく、またわが身をかえりみることなく、おのれの義務を果たし、自らのどのような行為も私欲の汚点で汚されることのないように、心を充分清潔に保たねばならぬ。
いやしくも正義と公正に関するかぎり、事の大小、軽重を問うてはならぬ。[1]
一発目から、強烈な一言である。
「幸福をつくることを微塵も心にかけてはならない」。
我々は「自分の(世間的な)幸福」ではなく、「真理」(己の信ずるもの)のため生きようとするからである。
「真理」へ向って生きるには、わが身をかえりみることなく、ひたすらに、おのれの義務を果たさなければならない。
ヒルティは、悪とたたかいながら世をわたる道、真理のために生きる道は、決して生易しいものではないと教えている。宣言している。突きつけている。
世間に輝き出ようとする一切の虚栄心を捨てよ
(二)第二に彼は、清廉潔白に身を保つためには、世間に輝きでようとする欲望を捨て、浅薄な虚栄心や、こころを乱す名誉心、権勢欲を去らねばならぬ。
人びとはたえずかような欲望に駆られて、社会の舞台の上でかずかずの愚行を演ずるのであって、
そのために、働きかけていく相手や仲間を深く、手ひどく傷つけること、最も剛直純情な徳行、いな、もっとも大胆な徳行すらも遠く及ばぬほどはなはだしいものある。……[1]
第二の姿勢は「世の中に気に入られようとするな」である。
私なんぞは、ほんとうに反省致すところである。
「世の評価なんぞ知らんわい!」と強く信念を持っているつもりでいて、「せめて『わかる人』たちには、評価されたい、称賛されたい」という気持ちを何度思い知らされたろう。
まさに「社会の舞台の上でかずかずの愚行を演」じて来た。このブログも然りである。
「働きかけていく相手や仲間を深く、手ひどく傷つけ」た、思い出したくない記憶ばかりである。(しかし、しずかに向き合い、反省せねばならぬ痛みである。)
本当に、私は、純粋に、素朴に行なうことができない。「評価されたい」という塵ひとつが心に入ってきて、もう次の瞬間には、その塵一つの名誉欲に絡め取られて、己が行いを汚す。
不純物の混ざった行為にて、人を傷つける。人を傷つけるとは、取り返しのつかないことである。それを繰り返す。その原因は、どれだけ卑小で、さもしいものであったろうか!
「世間に輝きでようとする欲望を捨て、浅薄な虚栄心や、こころを乱す名誉心、権勢欲を去らねばならぬ。」
断固として、そう覚悟せねばならぬのである。
強い決意でもって、日に百度、千度と反省せねばならぬのである。
虚栄心の恐ろしさを、日を重ねる度に、より重く思い知らされる日々を私は過ごしている。
そもそも社会の舞台に立つな
(三)第三に、このような心情の人は、ただおのれの義務がそれを要求する場合にのみ、社会の舞台に立たねばならぬ。
しかしその他の場合は、一人の隠者として、家族と少数の友人との間に、書物のなかに、精神の王国のうちに生きねばならぬ。
こうすることによってのみ彼は、人びとがそのために毎日精根をつくしてあくせくする、そのくだらぬ事のために、他人と衝突する煩わしさを避けることができる。
また、こうすることによってのみ彼は、その独特の生き方を世間から許してもらうことができる。[1]
ヒルティさんは、この虚栄心、権勢欲に対して、もう1段具体的な指示を示してくれる。「おのれの義務がそれを要求する場合にのみ」世間に近づけ。
その他の場合は「一人の隠者として、家族と少数の友人との間に、書物のなかに、精神の王国のうちに生き」ろ。
そうしたら、「人びとがそのために毎日精根をつくしてあくせくする、そのくだらぬ事」を避けることができる。
この具体的な指示の裏には「社会の舞台」に立つ者は、自ずから虚栄心に絡め取られざるを得ない、というヒルティ氏の悲観的な見方があると思う。
「君子は危うきに近寄らず」である。君子は自分の弱さを知っているのである。
我々凡夫はなおさらのこと、危うきに近づくべからず、である。貧しいひとりのみじめな隠者たることに満足せねばならぬ。「幸福なるかな心の貧しき者!」
我々はこの世の幸せの空しさを既に知っている
ヒルティ氏の一連の単純明快な訓戒は心に響く。
それは我々がもう既に、「この世の幸せ」「虚栄心」の空しさを本当は知り尽くしているからではないか。
「なぜそれらがくだらないか」「どれくらいくだらないか」そんなことの説明は要らぬのだ。既に既に何度も味わい、後悔している、それなのに負けてしまう。
(その経験がまだあまりないならば、むしろ積極的にこの世の幸せを求め、味わっていくべきだと思う。真正面から壁にぶつからない限り、覚悟をもった回心もありえない、と思う。)
だからこそ、我々はこの端的な物言いに勇気と力を得ることができるのだと思う。
「生きねば…」ということに理論もクソもない。
「生きねば」が求めているのは、鋭い切れ味のコトバである。
日常、毎分毎秒に使いこなし、己の「もういやだ…」という弱音を斬り捨てることのできる刀である。
まず自分という小世界において、悪を克服せよ!
本当の意味の理想主義は、明らかに、われわれが現実からすっかり遠ざかって、自分の夢想の世界にとじこもることで現実をごまかしたり、
あるいはわざと現実を無視したりすることにあるのではなく、
むしろ普通に行われているよりも一層深く世界を把握し、そしてこれを自分自身の内部において克服する点にあるのである。
というのは、われわれ自身がすでに一個の小世界であって、
確固たる原理と良い習慣でもって、まず最初にこの小世界を克服しないかぎり、およそ世界を克服することは不可能だからである。[1]
最後の引用である。
我々は「この現実」をより深く把握し、それをまず「自分自身の内において」克服せねばならない。
社会、世間のという自分の外側に「悪者を見つけ、非難する」だけでは何も克服できない。
その同じ「悪者」が、他ならぬこの自分の内側にいることを発見し、その自分の小世界の「悪者」をまず克服せねばならない。
では如何にして自分の内側の悪と戦うか。
「確固たる原理と良い習慣」をもってである。
より具体的な内容はヒルティ『幸福論』やその他無数の書物にあるだろうが、
何よりも大切なのは、自分の心と身体とで考え編み出した、自分なりの原理と習慣とをもって悪を制することであると思う。
たとえ一度悪を制したように思えても、また別の仕方で悪は芽を出してくるだろう。より巧妙な仕方で「真理」を阻もうとするだろう。
我々は、日々湧き出ずる自分の「悪」と戦い続けなければならないと思う。
何を動力としてか。同じように、日々湧き出ずる「善き心」をもってしてである。
悪が恐るべきものならば、同じように善もおそるべきものだと思う。
自分の心の内に塵一つでしかないかもしれぬ「善き心」(良心)に何とかしがみつき、日々悪と戦い続ける以外に、「真理のために生きる道」はありえないだろう。
最後にもう一文だけ、ダメ押しで引用しよう。
主義の人にとっては成功なんかどうでもよい。
ただ抜け目なく生きようとする者にのみ、成功は必要な条件となるのである。」(「」内はティエールの言葉の引用ー引用者注)(中略)
成功を目当てに生きる者は、心の安らぎ、自分や他人に対する精神の平和、また多くの場合に自尊心をも、初めから断念しなければならないだろう。
人生における真の成功、すなわち、人間としての最高の完成と、真に有用な活動とに到達することは、しばしば外面的な不成功をも必然に伴うものである。[1]
[1]『幸福論ー第一部』ヒルティ, 草間 平作訳,岩波文庫、「どうしたら策略なしに常に悪とたたかいながら世を渡ることができるか」より引用
ヒルティの『幸福論』は、他にも「仕事の上手な仕方」「時間の作り方」「人間とは何か」など、細かいテーマから大きなテーマまで色々あります。(該当すべき聖書箇所も教えてくれるので、聖書にも親しめます。)
「生きねば…」に、生活様式のレベルから役立てられるとてもすばらしい本です。ぜひご一読ください。
また、1,2ページで365日分の小さなエッセイや詩が集められている『眠られぬ夜のために』もとてもおすすめです。こちらはキリスト教信仰がかなり全面に出ています。
また、具体的な著作としては、ビジネス書の名著とされる『7つの習慣』もやはりすばらしい著作だと思います。ぼくも何度も読みました。
ぜひ、持ち運びやすい小型版をおすすめします。
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