雪が降る チョコレートを渡す
だれもいないお御堂で しずかに祈る
しずかにいのる 雪がふる しんしん しんしん
「行きましょう 主の平和のうちに」
教会を出る 凍える こごえる
ヘルメットがくもるから すきまをあければ 雪がとびこむ
つめたい さむい
凍えついた雪をぬぐい
信号で待つ
むこうに カートのおじさんが
空き缶あつめて 日銭つくる 雪の日なのに
つらい みじめだ 通り過ぎて
「わかっているのだ」
路肩にバイク停め チョコレートをわたす
きたない 爪のねじまがった いたい手
2本のチョコレートスティック
「ごちそうです」
「ガンバッテクダサイ」
つらい みじめだ
ぼんやり走り
なきそうになり 気づいた
コンビニのアップルパイがリュックにあったこと
みじめで きたなく
醜く
やりきれない
やりきれない……
ぼくらのために
かみさま ごめんなさい
ぼくは 永遠につみびとです
どうしようもない みじめなひとです
そんなぼくたちを
それでも 愛するために
あなたは イエスさまとなられて
十字架の苦しみに あえぎ かわきました
あなたは ぼくらのために
徹底的に くるしみました
ぼくらのかわりに 罰をうけました
かみさま ありがとう
ぼくらがイエスさまをくるしめ ころしました
はっきり ころしました
いまも いつも ころしつづけます
つばを吐きつけ くるしませつづけます
それなのに
ありがとう
イエスさま ありがとう ごめんなさい
私よ 受肉せよ
ずっと ゆめをみつづけてきた
近づいてみれば すべては みじめだった
ぼくは そろそろ
これらのみじめさのうちに
ほんとうの幸いをあじわい 立つべきなのだ
私がふれうる このみじめなすべてのうちで
生きねば……
わたしたちの主こそが
このみじめな現実に
降られたのだから…
みじめな私に
しずかに歩み倚り
やさしくかたりかけられたのだから…
無力で孤独で罪にすぐ捕まるわたしたちは、そのどうしようもなさを嫌というほど知らされて、互いに直接なぐさめ合うことはしなくなる。できるというのはまやかしだから。
じかに愛することができるのは天におられる方のみだから。
それでも、水平方向に確認できる人がいて、その姿に励みをうける。
その人がうなだれていて、泣いていて、手が届かなかったら、天に祈る。
というようなことを、思いました。
veronicaさん
いつもありがとうございます。
それぞれの孤独な穴の底から天を見上げる。
となりの穴にいる人と「直接する」ことはできないけれど、見上げる天、景色、世界はおなじ。共有している。
そんなことを仰っていたのはveronicaさんでしたっけ?自分だったか、忘れてしまいましたが、今思い出しました。
「それでも、水平方向に確認できる人がいて、その姿に励みをうける。
その人がうなだれていて、泣いていて、手が届かなかったら、天に祈る。」
とてもすてきな表現ですね。
私たちは絶対的に孤独であるのだけれども、それでも、何かを通してつながっている。
永井均の「魂に対する態度」を思い出します。
やはり、この世界に他者はいる。苦しむ隣人は、ほんとうの魂でもって苦しんでいる。
目には見えず、触れられもしないその魂を信じて、その魂を尊重しようと、覚悟して飛び出すことができるのか、否か。
なんて、自分の喉元に向かって突きつけてやりたいです。
どうしても、人の心を、見失ってしまう。見えなくなってしまう。隠れてしまう。消えてしまう。
自分のこのエゴこそが膨張して、隣人を見えなくしてしまいます。
「〈私はもう三年もこのいちじくの実を取りに来ているが実はならない。
切り倒しなさい。なぜ土地をむだにするのか〉と言った。
すると小作人は、
〈ご主人様、今年も勘弁してやってください。私がまわりを掘って肥料をやります。
そうすれば実がなるかもしれません…
もし実がならないなら切り倒してください〉」(ルカ福音書13:7~)