【「本当」も「こころ」も存在しない序文】「らしい」散文[1]

ぼくはいちおう小説としてこの文章を書き始めたらしい。

それなりの価値があると思って、ぼくはこうして書いている、らしい。

「らしい」というのは、自分のこころのわからなさだ。自分のこころがわからない。「本当は」何を感じ、考え、期待し、意図しているのか、いたのか。

「本当は」なんて言ったけれど、「本当に」とか、「心のおく底で」とか、言うけれど、そんなものは、ないと思う。そんなのは言葉の世界がでっち上げた幻で。

みんなそのつど、なにかを頭に思い浮かべて、その上にまた新しくなにかを思い浮かべて、またまたその上になにかを新しく想い浮かべて・・・。ぐだぐだと、(ときにはジェットコースターのように)ただ連想が続いてゆくみたいな。

こころには、「ほんと」も「うそ」もない。どっちかといったら、「ぜんぶほんと」だろう。ぜんぶが、片時もとまることない連想のような、川が流れていくようなもので、「決心」も「本当の想い」もそこにはない。

ぜんぶ、「流れる川の水」でしかありえない。ながれる連想、それ以上でもそれ以下でもない。「立派な」考えだって、「虚無的な」感情だって、ぜんぶ流れる川の一部。優劣なんてない。(流れの一部分こそが、川の全体である。)

こころには上も下も、上部構造も下部構造もない、無重力。表も裏も、本音も建て前も、ありえない。ぼくは逆に、こころはいつでも一枚岩で、それがくるくる変わっていくだけだって、言いたいみたいだ。あることを考え、それを否定し、またそれを否定し、またまたそれを否定し・・・。ピタゴラスイッチが進んでいくみたいなもんで、そのつどその場にあるものが全部シンリだ。「ぜんぶシンリ」がドミノ倒しみたいに流れていくって言ったら、うまいこと言ってるのかもしれない。

走るように倒れていくドミノ倒しを見て、「あ!いまのドミノが『本当の気持ち』だ!」なんて叫んでみたって、そう言っているあなた自身が、倒れていくドミノの1ピースなんだ!って、うまいこと言っちゃった感を出しておこう。ジツゾン本体には決して触れられないのだ。「自分のこころ」が、「自分のこころ」を見ようとしたって無理、右手で右手を掴むには、右手を二本に増やさなくちゃあいけない。そうやって「こころ」を分裂させていくから、わからんちんなことになる、みたいだ。だったらはじめから、「こころ」なんて相手にしない方が良いみたいだ。

こころは無重力。さっぱりさっぱりわからんちん。というか「こころ」自体、嘘だろう。そんなもんない。「気持ち」だって、嘘。「感情」も、嘘。そんなもんがどこにあるのだ?

「私はこんな気持ちでした」と言って、その「気持ち」は一体いまどこ行ったのだ?「こころ」にはいつでも、何かしら「ひとつの気持ち」があると言うのか?人間は容れ物なんかじゃない。「人間は定まった一つの容れ物で、その中身をそのつど変える」そんなの嘘だ。人間は自由自在に伸びたり縮んだりする無限で無形の、切り分けられる前の空間そのものみたいな。そこに入るものに合わせて、無限に大きくなるし、無限に小さくなる。

「ぼく」はいつでも絶対にここにいる。どこかの空間の一点を占めているなんてまやかしだ。

「ぼく」は絶対に、いつでも、今、ここにいる。

ぼくこそが、時空を超越して、時空を成立させている、なんて、ぼくはおおげさに言いたくなっているらしいが、これは決しておおげさに言っているわけでもないのかもしれない。

「らしい」とか「みたいだ」とか、言って、ぐだぐだと流れっぱなし、いつもどこかを向いているつもりではいるのだけど、結局のところどこへ向かっているのかは、さっぱり不明。という、書き方、続け方が良いのだ、と、ぼくは思っているらしい。わりと自信をもって。

というわけで、ぼく自身がよくわからないまま、「わかった気になる」のに気をつけながら、この文章を続けているということわけです。

はい。がんばります。ぼちぼち

 

ペンをもって書き始めると、急に生きている時間がゆっくりになって、あたまのなかものんびりしてくる。キーボードは、こわいもんだね。みなさんも、ためしてみてください。

ぼくはいつもはせっかちで、時間を気にして、追い立てられている気分でいることが多いのだけど、たぶん、何の目的もなく書いているからなんだろうな。いまはとてものんびりしているみたいだ。

この文章の外側のこと、先のこと、時空の内側にあるぼくの生活のことなどを、あんまり気にしないで、ただ書いているみたいだ。つまり、ぼくはいまこの文章としてしか存在してない、と言えるみたいだ。この文章の内にだけ、この文章がそれなりの連続性をもって続いている間だけ、存在しているぼく。でもそれで良いぼく。「それで良い」とすら、いちいち考えすらしないのだが。

はっぱを奥歯でかんでみたい、と、思いました。

でも、そろそろ、それなりにみなさんの人生の役に立ちそうなことを、書かなくちゃという気もしてきたみたいだ。ブログに載せるとして、読んでくれる人に申し訳ないもんな。というか、読むのを辞めちゃうよ。どうせなら、いや、かなり、読んで欲しいもの。だって、それなりに、価値があるとおもっているから。

さ、始めよ。ぼくは自分のことは、もうけっこう、十分なのかもしれない、なんて、思い浮かんじゃうことが、わりと、うれしいなと、おもいます。よのためひとのために、いきれたらいいな。そう願う気持ちのかけらくらいは、ぼくにもあるようです。

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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。